きっかけの始まり
やる事リスト
昇進してからというもの、僕の生活は一変した。夜明け前に目を覚まし、Googleで調べた地図を頼りに、まだ見知らぬ拠点へと急ぐ日々。初めて会う部下の中には、僕よりもずっと前から勤め、かつては僕の相談相手だった年配の社員もいる。僕が頭を下げていた立場なのに、いつの間にか立場が逆転しているのだ。こういう場面に慣れていない。
今の環境は、答えのない問いに対して答えを導き出し、成果を上げることが価値とされる。想像力や判断力が求められる場面も多く、困惑した部下たちが時折「何が正解ですか?」と僕に詰め寄る。僕も考え込んでしまい、脳のキャパシティが限界に近づいているのを感じた。
マネジメントの手法やコーチングの理論、さらにはYouTubeで見かけるインチキ臭い動画にまで手を出し、自分なりに答えを探してみるが、なかなか腑に落ちるものはない。
無意識に疲弊していった。
金曜の夜だけは意地でも仕事を早く終わらせ、終電で真里の待つ東京へ向かう日もあったが、いつしか、その体力も尽きかけていた。
真里と過ごす時間をもっと大切にしたい
離婚して新しい人生を一緒に歩みたい
そんな考えが頭をよぎる中、テレビで流れる転職サイトのCMが目に留まり、僕はついそのサイトに登録してしまった。ほどなくしてキャリアアドバイザーを名乗る若い女性から連絡が入り、ぎこちない会話がWeb面談で繰り広げられる。
「今のご経験を活かせる絶好のチャンスです!ぜひご自身のキャリアにふさわしい選択肢を」
彼女は何度も繰り返し、台本通りに熱心に話しかけてきた。緊張しているのか、彼女の質問には的外れなものも多く、そのたびに僕は淡々と答えた。面談が終わると、求められた要求事項を満たした職務履歴書の作成して、すぐに送信した。
直後、彼女は次々と僕に合いそうな求人情報を送り始めた。世界的企業から名の知れた老舗まで、メールボックスには興味を引くタイトルが並び、思わず見入ってしまう。
その中でも、長野に拠点を構える日系企業の一つが特に目を引いた。自然に囲まれた穏やかな環境で、真里と二人静かに暮らす未来を夢見た。自分が築き上げたキャリアも、ここでなら違う形で活かせるかもしれない。
「真里と長野に行って、ひっそりと暮らしたいと思ってるんだ」
少し微笑んで
「いいですね。そんな企業もあるのですね」
と頷いた。僕は思わず胸が熱くなった。
「真里さんも行きたいと思ってくれるの?」
「行きたいですねぇ」
僕は軽く酔った勢いで同じ話を持ち出した。
焼き鳥をつまみながら、
「長野に行って、真里さんはもっとのんびり暮らしてほしい」
彼女は少し間をおいて
「ありがとう。行きたいですね」
小さく答えた。
しかし、その後の沈黙が妙に気になり、改めて真里の顔を見ると、硬い表情が浮かんでいる。
「どうした?俺、なんか変なこと言った?」
すると彼女は、冷静な声で一言、
「その前にやることありますよね?」
僕は真里を傷つけている。。。
「愛しています」の音
真里は立ち上げのプロジェクトで取引先の手配や契約ごと、現地のアテンダント、彼女のチームは僕のチームよりも少数精鋭でローンチ日から逆算したスケジュールが組まれ、神経の消耗は僕なんかよりも大きい。時には予定通りにならない事もあるはずで、そんな時は体調が悪くても「休みたい」とは言えず、といっても真里は「休みたい」なんて言葉を選択しない人である。ある日、僕の上司が真里と現地で会ったらしく、彼は
「真里さんは本当に素晴らしい。なんせホスピタリティがある」
上司は僕の働いている会社でもかなり職位が高いが、そんな彼が行くこともあり、真里は彼が知りたい情報だけを簡潔に纏めて、それを違和感なく説明したそうだ。
彼は褒める事が多い。僕の前を除いては常に笑顔でもある。本当に褒めている時と、リップサービスの時、長年、部下である僕にはリップサービスでない事はよくわかった。
「真里さんとはお会いしたことがないのですが、外から見ていても出来る感はありますね」
嘘をついた。。。少し嫉妬もした。真里が僕以外の人に丁寧に対応した事が嫌だった。
「真里さん、今日は上司をアテンドしたんだって?上司がそれを感動的に俺に伝えてきたよ」
「そうなの?とくに変わった事はしていないですよ」
やはり真里はそう言う人だ。
「真里、愛しているよ」
「どうしたの?」
「だから愛しているよ」
「私も愛してます」
僕は無理矢理、言わせた。
過去の色
数日前、真里から「その前にやることがある」と言われたとき、僕は戸惑い、それ以上その話題に触れることを避けるようになっていた。というのも、妻との問題が心の中で重くのしかかっていたからだ。
妻は自身の不満や人生の苦難を全て僕の責任と捉えており、確かに、そのほとんどは納得できる。ただ周囲の友人や自身の親族へ僕のネガティブな話を広めていたこと、決定的だったのは障害を持った僕の兄のことを僕の母がわかる様に否定したことはとても嫌だった。
僕が仕事で昇進しても、彼女は喜ぶどころか
「あんたの立場なんて私ならもっと上手くできる」
といった言葉を浴びせる。
妻の育った環境はとても良くない。それもあってか、障害をもった兄のことを除けば比較的一般的と言える環境で育った僕を妬む気持ちも何となくわかっていた。
家に帰れば真夜中に家事に追われ、子供の連絡帳のチェックや服の準備、足の踏み場がない部屋を掃除をし、残ったわずかな時間で眠りに落ちる日々だった。10年前、単身赴任の話があり、それから、ずっと別居を選んだ理由もそこにある。僕は妻から逃げたのだ。
離婚協議について開始したいことを伝えた。すぐさま彼女は離婚の条件を少しでも自分に有利にするため、驚くほど入念に調べ、法外ともいえる条件を僕に突きつけた。
妻に対して
“役割を果たした上で主張すべき“
と僕らしい“べき”論が頭を過ぎるが、それは僕の捉える枠組みの話だ。当然、娘の未来に直接的な影響もある。ついに始まった。
だが、このことは一切、真里には伝えずにいた。
きっかけの始まり
8月のお盆が過ぎた頃、真里が体調不良を理由に一度仕事から離れると上司に報告した。それを聞いたとき、どこか現実味がなかった。真里が僕に直接伝えてくれた記憶がまったく残っていない。
季節は夏──強い日差しに照らされる中で、心の中の引っかかりが蘇る。
あの時、新宿で僕が怒りをぶつけてしまったときの無言な雰囲気、
真里が蕎麦屋に向かう道を30メートルも後ろを歩いていたこと、
ここ最近は特に仕事の負担を抱えながらも朝早くから動いていたこと。
すべてが、夏の暑さの中での出来事だった。
あの暑さの中で無理をさせていたのは僕だった。
一歩一歩ついてきてくれるのを当然のことのように受け取って、僕はただ自分のペースで歩いていた。
疲労を隠すような静かな笑顔や、いつもより遅れがちな足取りに、僕は気づこうともしなかったのだ。
「私を大切にしてくれてありがとう」
最初の頃、真里が感謝してくれていたことを僕は忘れている。
真里が担当していたプロジェクトは、ローンチ後は僕の管轄エリアに移ることになっていたが、その頃には真里のフェーズはほぼ完了しており、体調が悪い中でも彼女が最後までやり遂げたことは容易に想像できた。僕の側にいた時も、きっと真里は体調が悪かったはずだと
なぜ見せてくれないのだろう。本当の真里を。。
「病院に行ったら、思わしくなくて」
「思わしくないって、何が?数値的なこと?」
「数値的なことですかね」
僕の聞き方は良くない。数値で読み取ろうとする。。
真里はやはり詳しいことを教えてはくれなかった。本当なら、彼氏として、いや将来を見据える立場としてきちんと知っておきたかったし、病院にも付き添いたかったが、不倫という立場がそうさせなかった。真里の母親に会える身分でもない。この頃は僕自身も妻との離婚協議を進めていたため、不倫関係であることを改めて実感するばかりだった。
「そうか、でも大事にしてね。いつでも言ってね。俺ができることは何でもするから、真里さん」
そう言って電話を切ろうとしたが、真里は驚くほどの速さで先に電話を切った。
その頃から、真里は会社を休んでいた。ただ、どうしても必要な案件に関しては誠意をもって対応している事は同僚から聞いていた。僕は僕で毎日、午前様の勤務が続き、真里のことが心配で会いたい気持ちはあったが、自宅で休む彼女の姿と僕の疲労、無理に連絡することすら避けていた。
ついに真里は有休を使い果たし、回復しないまま休職に入ることを決めた。事前に聞いてはいたが、少しの休息で回復できる状況ではないということだった。
「病院を変えてみたら」
「もう変えたんです。でも良くならないですね。来週、いくつか検査を受ける予定です」
「大変だね。何かあったらいってね」
僕らの会話は、以前のような親密さとはほど遠い、平坦なものに変わっていた。
「よくなりそうにないから、しばらく仕事に戻れないの。それで一人暮らしのマンションは引き払うことにしたの。安心して。まーちゃの私物は私がきちんと保管しておくから」
あの2人の空間を失うことに、少し残念な気持ちが湧いたが、会わなくなってすでに1ヶ月以上が過ぎていたせいか、それ以上の寂しさや悔しさは湧いてこなかった。
スバルと鎌倉
納車だ。8万キロを超え、7年落ちの車だけど、スタイルや内装は古びておらず綺麗で、僕はとても気に入っていた。
真里には写真付きでメッセージを送った。
「やっと納車されました。体調が良くなったら、たくさんドライブに行こうね。今までは徒歩が多かったから、スバルがあれば真里さんも楽ちん」
久しぶりにほんの少しの喜びを伝えたが、既読にはならなかった。次の日も、その次の日も。
「よかったですね。ごめんなさい。検査入院していて」
「そうか。でも返信があってよかった。何かあったんじゃないかって、少し心配してた」
とても不安だろう。診断も出ず、身体もどうなるかわからない。収入や治療費のことも、目の前には「闇」が広がっているだろう。
僕は「光」になりたい。でも、なれていない。
11月に入り、真里とはついに週に一度程度のやりとりになり、僕が電話をかける事で繋がるだけだった。真里が関わっていた立ち上げプロジェクト、そして年末に向けた自分自身のプロジェクトが、僕の疲労をさらに深めていた。週末の大河ドラマがいよいよクライマックスを迎えていて、その話題だけは、僕らにほんの少しの安息を与えた。
「体調が比較的良い時があれば、会おうね」
と大河ドラマの話で盛り上がったことを利用して、恐る恐る誘ってみた。無理に真里を誘うつもりはなかったが、天気も良かったので、土曜の午後に思い切って真里に連絡した。
真里がすぐに電話に出て、体調が良さそうだったので、そのまま東京へ向かうことにした。東京インターを降りて環状8号線を左折し、さらに左折。僕の心は、久しぶりに2人で歩いた街の記憶にときめいていた。狭すぎて料金が高すぎるコインパーキングにスバルを停め、2人が何度も通り過ぎた交差点で待ち合わせした。真里は何も変わっていなかった。あくまで外見の話だ。
ゆっくり歩く真里の手を取り、僕はスバルを紹介した。日が落ちかけて、どこに行こうかと迷っていたが、東名を走りながら“大河ドラマの舞台となった鎌倉へ“もし体調が許せば連れて行こうと密かに決めていた。
「鎌倉でよいかい?」
「はい、ぜひ」
僕たちは普段どおりに会話を交わした。後部座席には小田原から連れてきたオタマを忍ばせていた。オタマは真里との僕の家を行き来していて、今回は僕の家に居候していた。
「はい、オタマね」
真里は微笑んで久しぶりのオタマを抱きしめた。
「ご飯は食べられるの?」
「はい、お酒はダメだけど、大丈夫です」
「それならファミレスに行こうよ。ファミレスが好きでしょう?イタリアンの安いとこ」
初めてのデートで「ファミレスなんかで良い」といったことを、彼女は覚えてはいないだろう。
それでも真里はまたにっこりと微笑んだ。
鎌倉の細い道を抜け、偶然通りがかった交差点の先には、ドラマで好きだった登場人物の塚があった。
「なんと!〜殿の塚に導かれるとは!」
真里が少し興奮気味に言い、
「いきなり塚かぁ。不吉だなぁ」
新しいホテルや古びた郵便局の近くにスバルを停め、そこから八幡宮へ向かい、3代目の征夷大将軍が暗殺された階段で僕たちは手を合わせた。階段を登りきり賽銭箱に小銭を入れて手を合わせた。
願い事は言うまでもなかった。
体調のことをあまり口にしない真里に、
「大丈夫?」
とところどころで尋ねた。20時を過ぎ、
「もう少しだけ一緒にいたい。小田原に行こうか?」
と提案したが、真里は
「今は大丈夫だけど、これからどうなるかわからないから、」
「でもいつか、また行きたい」
と彼女は続けた。
小田原へ連れて帰り、そばにいたい気持ちだけだった。
無理をさせてはいけないと思い直し、東京に戻る途中で見つけたファミレスも満席で入れず、結局、東京インターまで来てしまった。再びコインパーキングにスバルを停め、よく通った餃子屋に入った。僕と同年代の店主が一人で切り盛りするその店の大葉餃子が、僕たちのお気に入りだった。
「相変わらず美味しいですね」
と、真里は少ししか食べなかったが、笑顔で言った。
その後、真里は自宅に戻る。奇跡的に逢えた日と認識していた僕であったが、真里の僕に対する気持ちに全く自信が持てなかった事もあり“さっぱりと”別れようとした。
でも真里は離れなかった。
オタマを彼女に渡してオタマごとキツく抱きしめた。
「本当に愛しているよ。はやく元に戻ってほしい」
「私もです」
帰りのスバルはとてもよく走った。僕たちの光は、まだ消えていないと錯覚した。
ラジオの時間
僕は他人の痛みを理解しようとする一方で、結果的に自分本位に行動し、他人を傷つけてしまうことが多かった。そのときどきの感情に流されてしまう。思考は常に「標準的」でありたいと願い、そのことに疑念を抱くこともなかったが、人生の半ばを過ぎた頃から、自分はどこか変わり者なのかもしれないと感じるようになっていた。
出会った人たちは、以下のプロセスを経る。
①僕の気難しそうな“見てくれ”から僕のことを敬遠
②何かをきっかけに話をした途端、友好な関係になる。
③次第に僕は“良い人”を演じはじめるが、僕自身がだんだんと面倒になる。
④上記③を相手が察し、僕を評価し、そして離れていく。
錯覚なのか、事実なのか、僕自身はよくわからないが、こんな感じなのだと思う。
僕は自分勝手に、これを“生きづらさ“と捉え、悩みを抱えたまま、僕は無意識のうち、いや、もしかしたら意識的に、近しい人たちを傷つけていることに気づけていなかった。いや、気づいていたけど止められなかった。
真夜中、無性に真里の声が聞きたくなった。
「良いですよ」
思いのほか早く返信が来た。
「こんな夜中にごめん。体調はどう?」
「さっきまで横になってました」
電話越しに聞こえる真里の声はとても優しく、心地よい静けさが漂っていた。僕の心の中で膨らんでいた自己否定の声も、その優しさに少しずつ和らいでいく。最近服用が止まらなくなっていた鎮痛剤よりも効果があるような、微かな安心感がそこにあった。
「なにをしているの?」
「ラジオを聴いてました。部屋を暗くしてラジオを聴くのが好きなんです」
「確かに真里さんらしいね。うるさいのは君には似合わない」
うるさいのは僕かもしれない。
それでも電話の向こうで、彼女が微笑んでいる気がした。ほんの数分の会話だったが、冬に向かう部屋の冷たさを、真里の存在が少しだけ温めてくれていた。でも真里は暗闇の中でラジオを聴いている。。。
年末の長期連休前にやるべきタスクを片付け、同僚たちとのコミュニケーションにも積極的に時間を割くようにした。忘年会などのイベントにも参加し、周囲との付き合いを意識的に保った。去年のこの時期は、真里と頻繁に会っていたため「付き合いの悪い奴」と評されていたが、今年は違う。ここ最近、真里へのメッセージが既読になることは少なく、負担をかけまいとしていたが、実は孤独だった。
僕は一般的に言えば、女性から好意を寄せられやすいことが多かった気がする。中学時代はクラスで人気の女子と付き合っていたし、高校でも男子の憧れだった年上の人が彼女だった。
真里はミスコンを受賞したという話を何気なくしてくれたが、その華やかな肩書きに似合わず、驚くほど控えめで、どこか自分の美しさに無頓着な面があった。自分の魅力を知らない、あるいはあえて隠しているようにすら感じた。僕といる時は丁寧に化粧をし、唇も艶やかだが、普段の彼女はその素朴な一面を隠さず、唇がカサカサしていることもある。彼女の持つ奥ゆかしさと、その影(闇)を帯びたものに、僕は強く惹かれていた。
真里はよく「まーちゃはモテますね」とからかうように言ってきた。
今、少し洒落たイタリアンで開かれる、この忘年会にいる自分を、どこか他人事のように眺めている。身体も心も辛くて崩れそうになっている真里のことを知りながら、僕はここで酒を飲み、派手で前向きがちな女性たちを前に楽しげに振る舞っている。
暗い静寂の中でラジオを聴く真里。
僕はそこには居させてもらえない。
君との未来
仕事納めを終えて数日だけの解放感に浸る間、少しでも余裕ができたことで真里を想う時間が増え、彼女に送るメッセージの数も大河ドラマか最終回を終えたこともあって以前に比べて少しだけ増えていた。
長野の企業に応募したものの、書類選考で無惨にも散ってしまい、キャリアアドバイザーからは相変わらず溢れんばかりの求人情報が送りつけられてくる。経験、過去の履歴書が語るすべてが、“年齢“という括りで自分の可能性を少しずつ閉じているような感覚に襲われた。条件を柔軟に伝えて、年収も半分程度まで下げていたが、これ以上の妥協は娘の未来に差し障る。貯蓄がある程度あるとはいえ、これからの生活を考えれば僕ひとりで切り詰めるだけではどうにもならない。
「真里との未来をどうするんだ」
本末転倒な問いが浮かび上がり、僕の中でお決まりの一過性の迷いがぐるぐると渦巻いた。真里もまた、将来や結婚、経済的なこと、彼女の年齢を考えればきっと子供のことなど、いくつもの現実に向き合わなければならない。彼女にとって、体調が安定しない限り、未来の設計図はかすんでいて、さらに僕が既婚者であるという事実もある。この状況では、希望よりもむしろ絶望が真里の心に近づくのは当然のように感じられた。彼女にとって、僕が「光」になるという発想自体が無謀なのかもしれない。真里にとって最優先すべきは体調を治すことであり、僕との関係を終えて安定した人を選ぶことが現実的な道だろう。ただ、愛というものは、こうした現実的な選択に逆らう。愛がある限り、冷静な判断はぼやけ、真里を曇らせる。そして、愛がなくなれば、真里もためらうことなく自分の未来を明確にできるだろう。もし僕が真里の立場だったら、自分に光を照らしてくれるものを探し求める。僕の不安定さや至らなさを踏まえれば、そうした流れがごく自然だ。
それでも僕は彼女の「光」になりたい。だけど、その「もしも」が手の届かないものであることも、いま、心の片隅で決めつけていた。
優しいと優しい
12月30日。2022年の前半は、僕にとって真里と最も濃密な時間を過ごした時期だった。しかし彼女の体調不良が続き、会えない時間が増えるにつれ、仕事の負担も重なって、どこか闇の第一歩を踏み出したような感覚があった。ただひたすら仕事に追われ、真里に対してもっと細やかな配慮ができたはずだと思う一方、何かを求められている自信もなく、そもそも後悔しているのかさえ曖昧なままだった。
「明日で今年も終わりだね。真里さんにとっては大変な年だったね。」
「まーちゃもお疲れ様でした。今年は特に大変でしたね」
「ありがとう。もし、もしで良いけど、明日体調が良かったら会わない?無理はしなくていいから」
「わかりました。明日連絡しますね」
翌朝、僕は期待しないようにと思いつつも早くから目が覚めていた。普段なら音を抑えたバイブ設定にしているスマートフォンを、今日は大音量の着信モードにしていた自分に気づき、少し恥ずかしくなる。そんな自分を心の中で笑いながらも、届いたメッセージを確認した。
「体調は何とか良さそうです」
真里からの連絡に、どこか救われるような気持ちで、僕は再び彼女に会える喜びを感じた。昭和気質をどこかに置き忘れたかのように、心が躍った。
年の瀬ということもあり、逆方向に向かう車で大和トンネルから東京インターまでは渋滞していたが、なんとか朝早く出発して真里の街に11時前に到着した。スバルに乗り込んだ真里と、どこへ行くかも決めないまま、真里の街の細い商店街の道をゆっくりと進む。去年のこの時期、この商店街で手を繋ぎながら買い物をし、昼間から呑める蕎麦屋で年越し蕎麦を食べたことが懐かしく感じられる。
想定していた目的地へ向かう道が通行止めだったため、環八通りに出てしまい、無意識に右折してしまった僕は、そのまま羽田方面へ。気づけば第三京浜から港北インターで降りて、相模原方面へと遠回りするルートに入っていたが、高尾山に向かうことに決めた。
高尾山に着くと、以前、娘と来た時とはすっかり様子が変わっていた。近くの民家が納屋を駐車場にしているところを見つけ、なんとかスバルを停める。周囲の様子は随分と変わったが、真里と一緒にいられることが何より嬉しかった。
「真里さん、少しだけ歩くけどキツかったら言ってね」
真里の顔は血色が良く、車中でも体調が良さそうだったので安心した。もし具合が悪いようなら、もちろんこんな場所には連れてこなかった。
「俺みたいな田舎者は、都内の空気が綺麗じゃないのがすぐにわかるよ」
「私だって祖母の街に住んでいたから、その違いはわかりますよ」
そう言って笑う真里の笑顔が胸に染みる。ケーブルカーかリフトか迷ったが、真里に寒い思いをして欲しくなかったのでケーブルカーを選ぶ。僕がお手洗いで席を外して戻ると、真里がチケットを僕の分まで買って待っていてくれた。そんなさりげない心遣いが、僕にはたまらなく愛おしい。
ケーブルカーで登る途中、手を繋ぎながら風景を眺め、何気ない会話を交わす。この久々の感覚がとても心地よかった。山頂までは行かず、みたらし団子が美味しい茶屋で一息つこうとしたが、残念ながら年末のためか閉まっていた。
「残念でしたね」
その一言をかけてくれる真里は、やはり優しい人だと思う。少し先の樹齢数百年の木を見上げ、その前で手を繋いだまま清々しい空気に包まれて立ち尽くす。
下山して、麓に並ぶ蕎麦屋で蕎麦を食べることにした。寒い店内にはストーブの匂いが漂い、満員の中で蕎麦をすする音が響く。セルフのお茶を入れるために立ちあがろうとする真里を静止し、僕が立ち上がると、真里が嬉しそうに微笑んでくれた。たかがセルフのお茶だけれど、丁寧に湯呑みを選んで超がつくほど慎重に注ぎ、彼女に差し出すと「ありがとう」と。ビールを倒して謝らなかったあの日の真里はなんだったのだろう。ふとそんなことが、頭によぎる。。
蕎麦と、静かに交わす会話──その時間は、僕にとってただただ幸せなひとときだった。真里が温かいきのこ蕎麦を、僕が天ざるの大盛りを食べた。いつもなら、そそくさと食べる僕は、蕎麦を1本ずつ食べるくらいの、真里の食べる速度に合わせながら、そしてこの優しい時間を噛み締める様にゆっくりと食べた。
帰り道、高速に乗れば1時間もかからないので、それを避け真里に断った上で下道でゆっくりと戻ることにした。甲州街道を走っていると、車内のラジオから「お悩み相談室」の声が聞こえてきた。
「次のお悩みはコチラ!浦和市にお住まいのAさんからのお悩みです。“最近なんですが、僕の耳の裏に何だかイボの様な変なブツブツが出てきて、しまいには口の中に口内炎が沢山できて痛い事が悩みです。どうしたらいいですか“。」
ラジオDJは神妙なトーンでコメントを続ける。
「それは困りましたね。耳の裏にブツブツ…口内炎かぁ…うーーーん。いったん病院へ行ってください!」
そのアドバイスに、僕らは思わずクスクスと笑ってしまった。真里の笑顔を見れること価値を感じ、そしてそれは過去に富士山の「スカイライン」を通った時のラジオと同じように、無言の時間が心地よかった。
時間は残酷だ。いよいよ真里の街に戻り、スバルを停めて車から降りると、先に降りた彼女が何故か僕に向かって手を広げてくれた。
僕にとっての光──それは真里に他ならないのだ。
2023年1月
新年を一人で迎え、ぼんやりと箱根駅伝を眺めながら、机に広げた資料に手を伸ばしていた。月初の業務の準備をしておかないと気が済まない性格もあり、休暇中もずっと仕事から離れられなかった。
「真里さん、明けましておめでとう」
その程度の短いやりとりを交わしただけで、正月も特別な期待もなく過ごした。
2023年2月
日常に変化はなく、淡々とした生活が続く中で、真里との連絡は途絶えたままだった。こちらからメッセージを送っても返信はなく
「もしかしたら入院しているのかもしれない」とも思ったが、僕があまり求め過ぎてしまうと、彼女にさらなる心理的な負担を与えるかもしれない。だから、自分の気持ちは半ば押し込めていた。彼女から求められることがない限り、、僕はそんな風に考えていた。
2月も終わりに近づいた頃、連絡が取れた。
「入院していました。ごめんなさい」
僕はすぐに言い返したい気持ちを抑えた。
“入院するなら、ひと言教えてくれれば良いじゃないか。。”
でも、真里はそれをわかっていながらも、あえて知らせなかったのだろう。本当は理解していたが、ただ黙って受け入れるには少し複雑だった。
「良くなる兆候はないの?」
「ずっと、平坦なんです。良くも悪くもならない……」
「そうか……。でも、もし気晴らしに出かけたくなったら、いつでも言ってね。すぐに行くから」
「ありがとう。でも、比較的今は調子が良いの」
「そうか。だから電話もできるんだね。じゃあ、週末に会おうよ。すぐれなくなったら連絡してほしい。決して無理はしないでね。」
彼女は静かに
「わかりました。」
と応えてくれた。
2023年2月26日
真冬並みの寒さが戻ってきた朝、僕はスバルを走らせ、真里の街へと向かった。ラジオから流れる音楽をBGMに、真里との出会いから今日までのことが思い返される。
「楽しかったな……」。
そう口にした瞬間、自分の心にふと違和感がよぎる。どこか「過去形」になってしまった思い出に、言葉が詰まる。僕たちは確かに一緒に幸せな時間を過ごしてきた。でも、今はその延長線上ではなく、彼女の休息を見守ることしかできない。そう言い聞かせながら、深い溜め息をつく。
スバルを止めると、真里はもうそこに立っていた。極寒の中、しっかりと防寒した姿で、帽子までかぶっているのが新鮮だった。足下は紺色のハイカット。ただ綺麗にしているようで、少し痩せたのかも、と思ったが、声には出さなかった。普段は西方面に向かうことが多いが、今日は気分を変えて浅草へ行くことにした。道は混んでいなかったので、下道でゆっくりと四ツ谷を通り、靖国神社を右折して浅草へと向かう。
会話は弾んだ。真里もどこか生き生きとしていて、お得意の解説が始まった。今日は靖国神社について。文系で、かつて資料館に勤めていた真里は、流暢な説明を淡々と続ける。その姿に僕は安堵すると同時に、なぜか女性の同僚たちの言葉が頭をよぎった。
「過去にストーカーされていたって、いきなりそんな話をされたんだよね。。」
「真里ちゃん、可愛いのだけどね。。。」
言葉にしづらい印象を抱いていた彼女たち。
男性陣からは“仕事ができる”という評価しかなかったが、全体的な評価として彼女が美しい人だと心から理解している様には感じなかった。
僕だけが、真里の本当の姿に触れているというささやかな自負を抱いていた。
浅草寺に到着すると、混雑した商店街から少し離れた場所に車を停め、僕たちは自然に手を繋いで歩き始めた。雑多な露店や素人の作品を見て、軽口を交わし合いながら笑い合う。煙の立ちこめる本堂の前で賽銭を投げ、以前鎌倉で二人で訪れた鶴岡八幡宮と同じように、僕は心の中で願いを込めた。
「何か食べようか」
と言うと、真里が
「そうですね。お腹空きました」
と微笑む。しかし、昼どきでどこも混んでいる。かつて二人で昭和風の喫茶店に入った記憶が蘇ったが、その喫茶店も長い列ができていた。彼女を寒さに晒したくないと思い、視線を巡らせると、店の前に「お待ちすることなく入れます!」と元気のあるスタッフが声を向けてきた。
「お好み焼き屋さん。。ここでいいかな?寒いしさ。。。」
「もちろん、いいですよ」
真里はいつも僕の選択に寄り添ってくれる。温かい店内に入ると、若いスタッフが丁寧にメニューを説明してくれ、僕たちはおすすめのお好み焼きを注文することにした。真里がグレーのニットセーター姿で、身体のラインが少し目立つ。二の腕がさらに細くなったように見えたが、それにも触れなかった。僕の前でずっと笑顔でいてくれる彼女を壊したくなかった。
食べ終えてスバルに戻ると、いつものようにラジオをつけたが、主に埼玉方面向けのラジオ局が放送する“お悩み相談室”はやっていなかった。代わりに軽快な音楽が流れ、僕たちはそれに耳を傾けながら、甲州街道の渋滞の中を進んでいた。ふと、僕は片手を伸ばし、真里の手を握る。すると、真里は優しく握り返してくれた。その穏やかなぬくもりに、安堵のような気持ちが胸に広がる。
そしてスバルは停まる。
「今日はありがとう。暖かくしてね。真里さん」
「まーちゃもありがとう。お風邪などひかぬように、、、気をつけて帰ってね」
彼女はいつも丁寧だ。
なんの違和感もなく、これまでと変わらない一瞬だと思いながら、僕は彼女を軽く抱きしめた。厚手のコート越しでも、どこか華奢になった真里の身体を感じたけれど、そのまま見送った。
真里が手を振りながら家の方に歩いていくのを見届けると、僕は静かにエンジンをかけ、ゆっくりとその場を離れた。