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月に照らされた君

故郷

僕の生まれ育った街は、真里と最初に訪れた海のリゾート地からさらに内陸に進んだ、富士山の麓にある。この街は、僕にとって子供の頃から当たり前に馴染んできた場所だが、いつの頃からか観光地として知られるようになり、今では世界遺産としても注目を浴びている。東京からも小田原からもそれほど遠くない距離にあり、僕は自然と真里を案内することになった。地元で有名な焼きそばを一緒に楽しみ、その後は大きな滝へ向かった。急な坂道を手を取り合いながら進むと、滝の飛沫が霧のように立ち上り、空には美しい虹がかかっていた。その絶景に目を奪われている真里の顔をふと見ると、彼女の笑顔がこぼれていた。真里が僕の故郷を喜んでくれることが、思いがけず胸に込み上げてきて、自然と僕も笑みが浮かんだ。

富士山方面に向かう道中、僕たちは「スカイライン」と名付けられた道路を進んだ。ラジオではシュールなお笑い番組が流れていて、笑いのツボがわからないまま繰り返されるフレーズに最初は戸惑っていたが、いつの間にかお互いに目を合わせ、ついに吹き出してしまった。そうして、少しずつ違う趣味や造詣を持つ僕たちが、相手の世界をそれぞれ理解しようとし、時にはその世界に一緒に没頭した。

田舎町を通り過ぎると、僕は幼い頃に過ごした場所や思い出を指さしながら、いくつかのエピソードを話して聞かせた。子供の頃に喧嘩をして泣いて帰った道、凧揚げして夢中になり川に転落した場所、僕が夢中になったサッカーのグランドなど、真里はそのひとつひとつに笑顔を浮かべ、まるで自分の記憶として刻み込むかのように耳を傾けてくれた。その様子が愛おしく、会話の合間に


「真里、本当に愛しているよ」


と伝えずにはいられなかった。

その後も何度か、真里は僕の故郷を訪れてくれた。ほうとうが有名な地域を訪れたり、僕の趣味に合わせて、地元のプロサッカーチームのホームゲームにまで一緒に足を運んだ。彼女はいつしか自分の趣味かのように、そのサッカーチームが好きだと同じ会社の同僚にも伝えるようになり、自ら調べた情報やニュースを僕に教えてくれることも増えた。その姿勢は、真里の真面目さと、僕への愛情を感じさせるものである。



2024年11月

「本当に嬉しいです。来てくれて、いままで悶々としていた仕事が、僕みたいな人間にわかりやすく紐解いてくれて、なんか楽しいっす」


「そう?山田さんはもともとポテンシャルがあって、妥協を許さぬ、というか仕事に対してこだわりがある人だと思いますよ」


こんなやり取りの中でも、僕は少し心が救われたように感じた。あの日——


といっても、何年何月何日がその「日」なのかははっきりしないが、僕は今まで住んだことのない土地で新しい生活を始めていた。1年近くが経とうとしているが、新しい地で、同僚からの信頼も徐々に得られるようになり、仕事上の人間関係が良くなっている実感も湧き始めている。外資から来た高給取り、勝手にインテリ風のイメージを、皆が僕に持っていたことはよくわかっていた。初めは強烈に拒否反応を示されたこともあったが、それも無理のない話だろう。この工場の人々にとって、僕のような人間は歓迎されるどころか、迷惑に感じられていたに違いない。それでも、こうして少しずつ日常のやり取りに心が救われていく日々を、何も期待せず、今はただ受け入れる。




わからなかった事

人のことをすべて知ることは、もちろんできない。真里のことも、僕には到底わからない何かがあるのかもしれない——あるいは、ないのかもしれないが、そう思わせるのだ。

真里が、近くに住む母親とのやり取りについて、彼女が口にすることは少ない。日曜の朝、僕がテレビを見ていると、


「ちょっと、実家に行ってくるね」


と告げ、自転車でさっと出ていく。だが、30分もしないうちに帰ってくる。また、平日の夜はお互い別々の場所にいるが、真里が一人暮らしのマンションではなく実家にいるように感じられる時があった。電話の向こうに響く生活音が、明らかに違っていたからだ。とはいえ、平日を実家で過ごし、週末にマンションに戻ること自体、不自然なことではない。けれど、そんなことに触れた時、彼女がそれを避けようとしている。そう感じることがあった。なぜだろう——そんな小さな違和感が心に残った。

真里の両親は別居している。母は高級住宅街にあるマンションを所有しているが、出身は福島県で、真里の父は僕が住むエリアの人だ。父は一般的な大手自動車メーカーの営業をしていたが、早期リタイアしたらしい。ふとした時、思うのだ。真里の母がこの高級住宅街にマンションを買い、真里を育ててきたという事実の背景に、僕には到底わからない事情があるのではないかと。初回のデートで真里の昔の写真を見せてもらった時、彼女がミスコンを受賞したという話を聞き、驚いた。その写真には時の総理大臣と写っているものもあり、新聞記事にも取り上げられていた。容姿だけでない、何か特別なものがあったのだろうか。そこに、彼女の隠したがっている何かがあるのかもしれない。そしてその何かが、僕には見えない彼女の一面に繋がっているように感じた。その感覚は、平凡な田舎町で育った僕には理解し難い、別の世界が彼女の周りに広がっているような気配がした。


冷たく、そして温かい

僕が住む周辺には世界的に有名な登山電車があるが、これまで一度も乗ったことがなかった。艶やかな赤塗りの車両に乗る真里の姿は、まるで広告の一部のように、静かな風景にすっと馴染んでいた。観光客向けのアナウンスが流れ、この電車の歴史や周囲の風景を語っていたが、僕がただ


「ふーん」


と頷いていると、真里がそっと、僕の知らない物語を添えてくれた。どうして真里は、こんなにも多くのことを知っているのだろう。僕もそれなりに雑学には自信があったが、彼女にはまるで太刀打ちできない。

終点で降りると、テレビで見たという餃子の名店が近くにあることを思い出し、少し足を伸ばしてみることにした。辺鄙な場所にもかかわらず、店の外には長い列ができていた。餃子もまた、カレーと並ぶ僕たちの「話題の定番」だった。お互いにひと口ずつ味を確かめながら、まるで本物の食レポをしているかのように真剣に話し合う。そのたびに笑いが漏れて、少しずつ心が軽くなっていく。普段、仕事でぎりぎりまで追い詰められるような日々を送っている僕たちにとって、このささやかな非日常で心のつながりを確かめ合う。

でも、ふたとし時に、一瞬だけ、ほんの一瞬、綺麗な瞳の奥に影が落ちる。そんな事がたびたびあった。。

真里にとって、こうした「出かけること」が身体的に負担になっていたのかもしれない。

彼女の過去に何があったのか、何かを抱えているのか?

チャットルームの「闇」と称される一面について詳しく知ることはなかったが、僕は僕なりに彼女にとっての「光」でありたいと願っていた。


餃子を食べ終え、さらに高みを目指してケーブルカーの始発駅へ向かった。登頂したその先の向こう側には、僕が生まれ育った裾野が広がっている。途中で降り出した雨もあり、標高の高さからか、あたりは真冬並みの寒さに包まれていた。活火山が立ちのぼらせる煙や硫黄の香りが、どこか幻想的な風景を演出している。売店の片隅にある小さな喫茶スペースで温かい飲み物を買い、真里の冷たい手をそっと握り、温めようとした。彼女も何も言わず、その手を僕の手に委ねた。

しばらくすると、天気が急に晴れ、ふと視線を上げると、西の空に雲ひとつない雄大な富士が現れていた。その姿を僕と真里はただ静かに見つめていた。


どちらからともなく口にすることはなかったが、この光景が、そしてこの瞬間が、僕たちの心に深く刻まれることを強く感じた。


「そろそろ戻ろうか」


真里は静かに頷いた。僕たちは言葉にしないまま、お互いをお互いのできるスタイルで労い、心のどこかで永遠に続いてほしいと願いながら、その場をあとにした。


2023年12月

「やっぱり静岡から見る富士山は素敵ですね。見せてくれてありがとう」



スバル!

真里と共に充実した時期、仕事にも力を入れた結果、ある日、年下の上司から昇進を告げられた。外資系らしく年齢や学歴よりも成果が評価される環境ではあるが、僕にとってそれは手放しで喜べる知らせではなかった。特に、学歴も見識もない自分にとって、重荷でしかない気がしていた。周りには高学歴で聡明な人も多く、この昇進を快く思わない人もいるだろう。それも憂鬱の一旦であった。昇進に伴って業務範囲が広がり、他拠点の管理も任されることになった。その拠点は公共交通機関では通いにくく、移動時間もかかるため、車を購入することを考えざるを得なかった。

その夜、真里に伝えた。


「おめでとうございます。凄いですね」


その声には少し緊張したような色があった。彼女と僕は、一般社員と部長という立場の差ができてしまった。真里の仕事ぶりは僕以上で、周囲からも評価されていたが、外資特有の評価制度の中で、彼女にまつわる「ネガティブ」という一部の噂が影響しているのかもしれない。


「新しい拠点に行くことが増えそうだから、車を買おうと思っているんだ。ハイブリッドの中古車が良さそうなんだけど、真里は何かおすすめある?」


と聞くと、彼女は短く


「ジムニーか…スバル!!」


と即答した。その勢いある


「スバル!!」


に僕は笑みがこぼれた。

早速、ジムニーについて調べてみたが、納車までかなりの時間がかかることがわかった。すぐにでも購入したい僕にはジムニーは難しいとわかり、再度真里に


「スバルのどのモデルが良いと思う?」


「XVかインプレッサかな」


と教えてくれた。真里の父が自動車メーカーで働いていたこともあり、彼女は車種に詳しかったのだ。

その週末、僕と真里は中古車販売店へ行き、スバルのインプレッサを試乗した。内装はメカニカルで、僕の好みにぴったりだった。ボディカラーについて僕が


「紺がいいかな?」


真里はその日履いていた紺色のハイカットシューズをちらりと見せて賛同してくれた。

納車まで2か月かかると言われたが、心は既にその車と共にあるような気がしていた。

そして僕は、それからずっとその車のことを


「スバル」


とだけ呼ぶことに決めた。



羊とオタマ

無類の両生類好きである真里のために、彼女のベッドにいつもいる「羊さん」に仲間を増やすことを考えた。真里がニュージーランドに留学していた頃に買った、硬めの羊のぬいぐるみ——僕はそれを「羊さん」と呼んでいたが、羊さんには仲間が欲しいだろうと真里に伝えた。そして、ツノガエルの、一般的には少し気持ち悪いと評される柄の「カエル」と、それに寄り添うようなオタマジャクシの姿をリアルに再現した「オタマ」をネット通販で購入した。

僕らには僕らの世界があった。羊さんとカエル、そしてオタマと共に、僕と真里のささやかな時間が続いた。初めてのデートで訪れた標本館にも両生類の生体が展示されていて、真里の目がキラリと輝いたのを見て、彼女の両生類好きは相当なものだと改めて感じた。


電話口で真里のベッドにいるであろうオタマについて尋ねると、真里はユニークな口調で


「オタマちゃんと羊さんがコソコソまーちゃの文句を言ってますが、、」

思わず笑ってしまった。


“遠く離れた今も、きっとオタマは僕の代わりとなり、真里のそばにいてくれるだろう。そう願って止まない”




“さん“

2022年の初めから、僕たちは日曜の夜、大河ドラマを見ることが習慣になっていた。週末も日曜夜に別れるのではなく、月曜の朝に出勤するスタイルに変わりつつあったため、土日にはそれぞれのPCで仕事をしながらも、ドラマが始まるとPCを閉じ、ふたりで鑑賞する時間が自然と生まれていた。

真里は美人だが、どちらかといえば可愛らしさのほうが上回っている。そう感じていた僕は、大河ドラマに登場するヒロインと真里がどこか似ていると思い始めていた。最近では「真里」と呼び捨てにしていたのだが、ドラマのヒロインが役柄上「〜さん」と呼ばれていたこともあって、僕も


「真里さん」


と無意識に呼ぶようになっていた。我ながらなんて単純なんだろう。オタマと同じくらい単純な細胞レベルで真里を見つめていたのだ。その話をすると、彼女は微笑んで確実に僕を見下すような目を向けてきた。そして、流行りに乗って、僕の生まれ育った地域が大河ドラマの題材となっていたこともあり、聖地巡礼と称してゆかりの地、お寺や古い墓地を訪れ、僕らはまるで物語の中に吸い込まれるような時間を楽しんだ。



ケーキの食べ頃

7月の終わりは真里の誕生日だった。僕はそのことを知っていたが、その年の真里の誕生日は日曜日で、なぜかそのことを深く考えずに、前日には友人との予定を入れてしまっていた。真里と過ごす安心感にいつの間にか甘え、その特別な日を後回しにしてしまったのかもしれない。


「一緒に居てほしい。」


真里が、いつになくはっきりとした口調で要望を口にした。


「ん?どうしたの?」


「一緒にケーキを食べて欲しいの」


真里が直接的に願いを伝えることは珍しく、僕はその瞬間、何かを取り返そうとするかのように友人との予定をキャンセルし、彼女と過ごすことを選んだ。僕は心の奥底から愛しているのだろうか?頭の中で自問自答を繰り返し、答えは「YES」と、どこか無意識に出てくる。

でも、今思えば、あの瞬間にも僕はすでに気づかないうちに、大事なことをおざなりにしつつあったのかもしれない。



月に照らされた君

真里と僕はいつも一緒だった。手を繋ぐことは少なくなってきてはいたけど、物理的な距離よりも精神的な距離がますます近くなっていた。これは僕だけが考えていたことかもしれないが、真里を「真里さん」と呼び、美味しい食事を家でも外でも楽しみ、いろいろなところを散歩して、彼女が笑顔でいてくれるかどうか、ふとした瞬間に覗き込むように見ていた。彼女はとてもしなやかで綺麗、そしてとても優しい。言葉遣いが崩れることはなく、受信したメッセージの隅々に育ちの良さが自然と感じられる。真里も多分、僕がこれほどまでに観察し、彼女を理解しようとしていることに気づいていなかっただろう。彼女の背景や、その「闇」を丸ごと受け止めたいと僕が思っていることも。


大河ドラマを見て明日から新たな週が始まるから就寝も早めにしていた。僕の住む街は街灯が少なく、夜は真っ暗に近い。寝室にある縦長の窓に据え付けられた紺色のカーテンは、単身赴任を繰り返してきた使い回しで、寸法が、ほんの少し足りなかった。


真里の頬にそっと手を伸ばして触れると、二人の鼓動がゆっくりと重なり、静かな温もりが流れる。真里を癒し、彼女も静かにそれを受け入れる。僕らの身体はお互いが熱くなり、言葉をかけ合い、深い愛を感じ合った。


「真里さんは、明日から本格的に立ち上げが始まるんだね。大変だなぁ」


「現地の建物にも入れるようになったので、少し楽しみです」


「楽しみかぁ。さすが、仕事に妥協がないね。俺なんかそんなマインドすらないよ」


「まーちゃは素敵ですよ。本当によく頑張っています」


「そう?俺はうまく行かないとすぐ感情的になるし、自分も他人も許せなくなるんだよなぁ」。。。



静かな寝息が微かに聞こえ、なんとも言えない安らぎが部屋を包んでいた。僕は何もせずにただ、そこにいる彼女をじっと見つめた。


寸足らずのカーテンから差し込む月の光が、ベッドに横たわる真里をそっと照らし出している。


彼女の横顔が、まるで柔らかな彫刻のように浮かび上がり、その姿はあまりにも美しく、どこか儚げだ。それでいて、彼女が持つ凛とした強さが透けて見えるようで、僕は胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚に陥った。


僕はそのまま真里のそばに座り、彼女の寝顔を見つめ続けた。出会った頃のことや、過ごしてきた時間、そしてこれから訪れる未来のことが、頭の中でゆっくりと巡っていく。月に照らされる真里の姿は、まるで僕にとっての灯火のようだ。その光の中にいる彼女の存在が、どれほど僕の闇を照らし、癒し、深く刻み込まれているかを改めて感じた。


「真里、ずっとこうしていられたらいいのに。」


声には出さなかった。

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