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光が射す、その前に  作者: march


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サヨナラすばる

2026年4月9日


新しい土地に来てから四ヶ月が経った。

僕の生活のリズムは、相変わらず何の足音も立てないまま過ぎていく。十二月にここへ来た。年を越え、真冬を過ごし、雪がちらつく日もあった。

夜明け前、フロントガラスに積もった雪をスバルがワイパーでかき落とそうとすると、ガリッ、と嫌な音がした。僕は慌てて運転席から降りて、半分凍りついた雪を手で払った。手はすぐにかじかんだが、澄み切った空気の中で、その少しの痛みだけは妙にはっきりしていた。走行メーターは十三万キロに届こうとしていた。こまめにメンテナンスをかけていたおかげか、不具合らしい不具合はひとつもなかった。今年の九月には車検を迎える。だから二、三ヶ月前から、この車を乗り続けるべきか、それとも買い替えるべきか、ぼんやり考えるようになっていた。


紺色のスバル。

僕はただの移動手段としてこの車を買ったわけではない。


この車を買った頃の僕には、まだはっきりと熱があった。

真里のことを考えない日はなく、少しの沈黙や小さな違和感だけで心が崩れそうになっていた。スバルは、そんな時期の僕を、何も言わずに乗せていた。彼女がこの車に乗った回数は数えるほどしかない。三回だったか、そのくらいだったと思う。それでも、この車の助手席には、真里のいた気配だけが妙に長く残った。


ただ、今となっては、毎日のように真里を思い出して苦しむ、などということは、ずいぶん遠い昔のことのようにも思える。愛情を失ったのかと問われれば、多分そうではない。けれど、あの頃のような、胸の奥が崩れ落ちそうな怖さや、少しの沈黙にも耐えきれないような苦しさは、いつの間にか綺麗に消えてしまった。やはり人間というものはそういうものなのだと思う。


結局は、忘れていく。


いや、忘れるというより、毎日そこにあったものが少しずつ遠ざかっていくだけなのかもしれない。見えなくなるわけではない。ただ、触れなくなる。


プジョー508に決めたのは、そんな頃だった。

少し逆の背伸びをした選択だと思う。年齢相応と言えばそうなのかもしれないが、僕のような人間には少しだけ洒落すぎている気もした。けれど、あの低く構えた姿と、流れるような線の美しさに、心が動いた。新しいものを迎えるなら、少しくらい今までと違うものでもいい。そんな気持ちもあった。

決めた時、僕は思っていたよりもあっさりしていた。

スバルと別れることにも、新しい車が来ることにも、もっと大きく心が揺れるかと思っていたが、実際にはそうでもなかった。人はもっと劇的に何かを失ったり、何かを得たりするものだと思っていたが、現実はたいてい静かだ。

ところが、プジョーに決めて五日後のことだった。

珍しくエンジンをかけると、スバルが警告音を鳴らした。


最初は何のことかわからなかった。

見慣れないランプがひとつ点いていた。これまで大きな不具合もなく、いつでも当たり前のように動いてくれた車だったから、僕は少しだけ戸惑った。こんなことは初めてだった。

そして、その警告は消えなかった。


今さら、、、コイツ。。と思った。

いや、本当に今さらだった。

十三万キロ近く、これといった不満も言わず、黙って走ってきた車が、僕が手放すと決めたあとになって初めて声を上げる。まるで、決めてしまってから何かを伝えてくる人みたいだと思った。


そんなふうに感じる自分が、少し馬鹿らしくもあった。

車は機械だ。警告灯はただの警告灯でしかない。そこに感情も意図もあるはずがない。けれど、人は別れが近づくと、無機質なものの中にさえ意味を見ようとする。あるいは、意味を見なければ、静かに終わっていくことに耐えられないのかもしれない。


何を意図するのか。

そんな言い方をすること自体がおかしいのはわかっている。

でも僕は、その小さな警告音に、少しだけ胸を突かれた。


もう少し早ければよかったのに、と思う。

まだ手放すと決める前なら、僕はこの車にもっと違う感情を向けたかもしれない。

あるいは、そうではなくて、全部決まってしまった後だからこそ、こうして最後に一言だけ発したのかもしれない。


別れというのは案外そういうものだ。

終わる前には何も言えず、終わると決まったあとにだけ、急に言葉のようなものが漏れる。


真里のことも、少しだけそうだったのかもしれない。


あれほど心を占めていたのに、失う過程そのものよりも、ずっと後になってから、その不在の形だけがじわじわと輪郭を持ち始めた。僕はもう、真里を毎日求めているわけではない。会いたいと強く願うわけでもない。ただ、人生のある時期に、確かにあの人がいたという事実だけが、時間の表面に薄く張りついている。そして、その事実を完全に剥がしてしまうほど、僕は器用ではない。


そんなことを考えていた頃、久しぶりに長澤から連絡が来た。

長澤まさみに似た長澤。静岡の会社で初めて見た時、綺麗だなと思った人だ。


彼女は結婚していて、子供もいる。もちろん、そこに大げさな意味を持ち込むつもりはない。けれど、時々こうして連絡をくれると、僕はほんの少しだけ昔の空気を思い出す。もう辞めた会社のこと、その中にいた頃の僕のこと、うまくいかなかった人間関係のこと。長澤からの連絡は、そういうものまで一緒に運んでくる。


今回の連絡もそうだった。

僕の部下だった、あの自分を押し通す年上の男が、退職することになったという話だった。


彼は、何があっても自分を譲らない人だった。

周りと噛み合わなくても、自分の正しさを前に出す人だった。だから僕は何度も手を焼いたし、正直、理解しきれないまま終わった。けれど、その彼が辞めると聞いたとき、僕は少しだけ黙ってしまった。


僕が辞めて、まだわずか四ヶ月だ。

彼も彼で苦しかったのだろうか。

自分を押し通し続けることに、嫌気が差したのだろうか。

それとも、そんな簡単な話ではないのかもしれない。


人はやはり表面的なものだけでは理解できない。


彼は強情で、不器用で、いつもどこか人を疲れさせる人だった。

でも、やはり心はあるのだ。

当たり前のことなのに、少しだけ意外に思ってしまう自分の浅さが少し嫌だった。


僕自身がこうして毎日、自分の過去や、失ったものや、どうにもならなかった時間を反芻しながら生きているのだから、彼だってそうなのだろう。長澤だってそうかもしれない。真里だって。みんな、表には出さないだけで、その日その日を、自分なりの理想に少しでも近づこうとして生きている。あるいは、理想になれないと知りながら、それでも今日を終わらせている。


長澤のことを、ふと思い浮かべることがある。

恋心などという言い方は、さすがに違うと思う。

でも、何か少しだけ引っかかる。

それが彼女の見た目なのか、時々見せる物の考え方なのか、僕にもよくわからない。まだ何かを望んでいるようでいて、どこかで人生を少し諦めてもいるような、そんな気配が彼女にはあった。そういうところに、僕は勝手に自分と似たものを見ているのかもしれなかった。


スバルの警告灯は、その夜も消えなかった。


小さな光がメーターの一角で静かに点いたままになっている。

それを見ていると、この車が僕に何かを訴えている、などという感傷はやはり安っぽい気もした。けれど、それでも僕は思ってしまう。黙って役目を果たしてきたものほど、別れ際の小さな異音や小さな光が、妙に胸に残るのだと。


何も言わずに去っていくものもある。

最後になって、ようやく遅れて何かを知らせるものもある。


僕はハンドルに手を置いたまま、しばらく動かなかった。

次に来るのはプジョーだ。少しだけ洒落ていて、今の僕には不釣り合いかもしれない新しい車。きっと僕はそのうち慣れるのだろう。新しいハンドルの感触にも、少し低い視線にも、見慣れないスイッチの位置にも。そうやって人は前へ進む。


でも、進むことと、何も残さないことは違う。


それがただの故障表示なのか、遅れてきた挨拶のようなものなのか、僕にはわからない。

ただ、そう思いたくなる程度には、この紺色のスバルは僕の時間の中にいた。

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