ソウルの光と影
少々、緯度的には北側に移動したせいか、ソウルの空気は羽田を出た時よりひんやりしていた。
地下鉄のホームに立つと、湿った鉄の匂いと唐辛子の甘い残り香が混ざり合い、
その匂いが「ここは韓国だ」と静かに告げてくる。
地上に出て歩きはじめると、巨大なモニタにアイドルが映っていた。
光の粒をまとったような、いかにも韓国らしい完成された笑顔だ。それを見た瞬間、長女の成人式の日の写真がふと頭をよぎる。あの少し“寄せている”雰囲気は、きっとこういうモニタの向こう側を意識した彼女なりの遊び心なのだろう。モニタの中の誰かと、現実の長女が一瞬だけ重なって見えた。
腹が減ってきたので、灯りの多い路地に入り、適当な店に腰を下ろす。
鉄板の上でサムギョプサルがじゅうじゅうと音を立て、皿の上のトッポギは赤く光っている。
十年以上前、ハン・イェスルがチャミスルの広告塔だった頃のCMを思い出す。
彼女のしなやかな雰囲気や、韓国のポップカルチャー特有の色彩は、当時の僕にとって遠い国の輝きだった。今、こうしてその国で豚肉を巻き、甘辛い餅を噛みしめている。ヤンセジョンの「愛の温度」に出てきたグッドスープのような小綺麗な店も好きだけれど、生気レベルが低空飛行中の中年期終盤の僕には、新橋や新宿のゴールデン街と大して変わらない、この雑多な場所の方が似合っている気がした。
肉を咀嚼しながら、ここ数年のことを俯瞰する。
真里のことを考える時間は減った。
物語の序盤を振り返ると壊れてしまいそうだった感情、二十代前半のような不安と脆さは、今ではソウルの夜空の下に伸びた、ささやかな影のように見える。
それでも、その影を完全には消したくない僕がいる。
「ソウルの春」という映画を一年前に観た。
政治の裏側と、人の欲と、強引な進め方。
あれほどのパワフルさがなければ歴史には名を刻めないのかもしれない。
でも、ああいう力の使い方は、どう考えても僕には不向きだ。人を陥れてまで何かを得ようとは思わないし、実際そうして生きてこなかった。
それでも、結果的には色々な人を巻き込み、不幸にさせたのだと思う。
元妻に対してもそうだ(実のところを言うと僕は傷つけられた方だと認識しているけど)。
僕が悪かったのか、彼女が悪かったのか、そんな単純な話ではないのかもしれない。ただ「うまくやれなかった」という事実だけが、今も薄い痛みとして残っている。真里とのあっけない終わり方にも、申し訳なさがある。僕が要因であるかどうかは解らず仕舞いだが体調崩した彼女を支えることが叶わなかった。仕事を辞めて、タスクを引き継いだ同僚たちに背負わせた負担を想像すると、胸の奥に小さな石ころがひとつ沈んだまま、動かない。
人は懸命に生きている。
どうせ百年後には、生きていた証すらほとんど残らないというのに。
それでも今日のことで悩み、明日の不安に足をとられ、誰かを傷つけ、誰かに傷つけられていく。俯瞰してしまえば、娘が生きて、彼女がまた誰かにつなげてくれれば、僕の役割はそれで終わるのだろう。
歴史に名を刻むような「ソウルの春」の強引さは持ち合わせていないけれど、世代をひとつ渡した、という事実だけはそっと残る。
店を出て、夜空を見上げる。
ソウルのネオンが雲の裏側をうっすらと照らしている。
長澤のことが、ふと頭をかすめる。
特別な何かがあったわけではないが、あの少し不器用な言葉や冗談めいた自嘲が、胸のどこかをわずかに締めつける。
でも、次に見る東京の夜空では、同じ感情もまた、違った角度から見えるのかもしれない。
そんなことを考えながら、僕はソウルの夜の中をもう少しだけ歩いてみることにした。




