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彩り

新宿

どちらかというと真里の自宅で過ごす週末が、約束もしていないのにいつの間にか定番となっていた。夏の始まりとは言え、近年の異常気象のせいで40度近くに達し、耐えがたい暑さが続く。


「新宿に行こうよ」


と提案すると、真里は小さな声で


「良いですね」


なんだか声に元気がなくて気になったが、深くは考えず、シャワーを浴びた彼女の身支度をぼんやりとテレビを見ながら待っていた。


「お待たせしました」


「じゃあ、行こう」


電車に乗ると、休日のため座る席もなく、たかだか15分の立ったままの移動だったが、どこか落ち着かない気持ちがあった。新宿に近づくにつれて、過ぎゆく有名な街の風景に気を取られていた。昔、僕も東京に住んでいたことはあるが、真里の住む地域とは縁がなかったため、この街の様子は新鮮だった。


新宿に着き、自然と足は歌舞伎町の方へ向かった。30年ぶりに訪れた歌舞伎町は、独特の匂いやざわめきが昔と変わらず漂っていて、僕はその感覚に集中していた。しかし、その時、突然真里に腕をぐっと引っ張られた。その強さに驚き、思わず顔をしかめた。


「なんだよ?急に引っ張るなよ、びっくりするじゃん」


「ごめんなさい。向こうから、まーちゃに向かって歩いてくる人がいて…」


「うるさいな。だからなんだよ?」


冷たい声を出してしまった。いつもと違う自分に自分自身驚きながらも、収まらない苛立ちを抑えられなかった。

朝からどこか真里の返事が歯切れが悪かったことや、出かけるまでの時間のかかり方、電車内での無言の間。なぜか、どれも引っかかっていた。


「もういいよ、気分じゃなくなった。帰ろう」


真里は何も言わず、ただついてきた。電車に乗り込むと、僕は敢えて彼女の隣に座らず、少し離れた席に腰を下ろした。駅に着き、真里の自宅へ向かう道すがら、苛立ちはさらに膨れ上がっていった。


「行きたくなければ最初からそう言えばいいだろう」


強い言葉がつい口をついて出てしまった。その時、心のどこかで自分の言葉に驚きながらも、どんどん意固地になっていく自分を止められなかった。真里の家に着くと、


「今日はもう帰る」


気持ちにない言葉だったが、これ以上素直になれない自分が、どうしようもなくなっていた。引き返すのが恥ずかしくなり、足早に駅へ向かう。自分に対する言い訳のように、勝手に怒りを募らせていた。


「待って!待ってよ!」


振り向くと、普段は履かない古いサンダルで真里が駆け寄ってきていた。目が潤んでいるのが見えて、胸の奥がちくりと痛んだ。


「ねぇ、嫌だよ。本当に嫌だ」


僕は我に返った。手を取り、引き返した。


心の中で自問する。どうしてこんなに怒ったのだろう?何に苛立っていたのだろう?真里は、僕に新しい視点や価値観を教えてくれる。そんな彼女が眩しくて、時に嫉妬に似た感情を抱いていたのかもしれない。彼女がいつもはっきり意思を表さないとき、もしかしたら僕の知らない視点で僕をどこか見下しているのではないか、とさえ感じてしまう自分がいることに気づく。


こんなに愛しているのに。


か弱く、美しい存在なのに。。


彼女に支えられていると知りながら、なぜか彼女の前では素直になれない。今でも、自分のあの日の行動が思い出すたびに憎くて仕方ない。



豊かな生活

食事というものに対して、僕はこれまで「エネルギーの補給」程度にしか考えたことがなかった。単身赴任を続けてきたこともあり、妻との未来を期待する思考すらなく、なかば人生全般にどこか諦めがちな自分がいたことも影響してか、食生活はひどいものだった。食べたい時に、味が濃くて油っぽい、安いものをただ食べる。栄養価や食べる時間帯など気にせず、ストレスの発散にも似た食べ方をしていたせいか、健康的とは程遠い食習慣が身についていた。学生時代まで「もやしっ子」と呼ばれていた僕が、20代に比べ15キロは体重が増えたのも無理はない。自分の体がどこか見知らぬものになったような気さえする。そんな僕が「カレーの奥深さ」を知ったのは、真里がきっかけだった。彼女は大学が御茶ノ水にあったこともあって、カレーの聖地、神保町界隈のカレー店にとても詳しかった。リーズナブルな店から高級な店まで、神保町には様々なカレーの名店が集まっていて、ネットで評判の店を見つけることもできるけど、真里と出会ってからは、真里が体験した情報や一見さんで入店することを繰り返し、自然とその話題が僕たちの微笑ましい期間を支えた。


「あのお店のカレーのスパイスが効いていて…」とか、「駅の北口の店と南口の店、どっちの方が美味しかった?」とか。


カレーの話が尽きることはなく、その中には「また次はあそこに行こう」という未来の予定も含まれていた。僕にとって「食事を楽しむ」という感覚を教えてくれたのも、やはり真里だった。彼女に連れられて初めて入った渋谷のお粥専門店。そこでは黒酢の酸味が効いた深い味わいを体験した。また、真里の家から徒歩5分の定食屋では、薬膳素材をふんだんに使ったしゃぶしゃぶ定食が、僕にとって罪悪感なく楽しめる健康的な一皿となった。週末に真里の自宅を訪れた後、平日はほぼ毎日、深夜まで仕事をした僕たちが向かったのは、真里が昔から通っていたという鉄板焼きのお好み焼きと焼きそばの店だった。あの店で過ごす時間は、忙しい日々の中のささやかなご褒美であり、僕にとってどれも新しい発見だった。

手料理も彼女はプロ並みの腕前だった。


「このご飯、すごくお米の味がする…美味しいね」


「釜で炊いたから」


と真里は少し照れながら言った。彼女が作ってくれる手料理は質素で薄味、だがとても深い味わいがあった。高価な食材ではないけれど、毎回どれも満足してしまうほど美味しかった。何より、僕がそれを嬉しそうに食べると真里も微笑んでくれる。その時間は、どこか温かい空間に包まれているようで、心にぽっと火が灯ったような心地がした。真里の料理やそのひとつひとつの選択に、何かしらのこだわりが感じられることで、僕の中の「食べる」という行為が徐々に彩られ、少しずつ変わっていったのだ。


紺色

小田急線沿線には、古着や雑貨、音楽、舞台といったクリエイティブなカルチャーが根付いた街がいくつかあり、僕たちは真里の自宅からわずか10分ほどの距離にあるその街へ、よく出かけていた。僕が特に気に入っていたのは、複数のスポーツブランドのシューズを取り扱うお店で、いつもここでお気に入りの靴を見つけては買っていた。


真里は標準的な女性よりも少し長身で、細身の体にすらりとした脚がよく映えていた。彼女の指先は長く美しく、どんな靴も彼女の脚をさらに引き立てるようだった。ある日、僕は彼女に似合うと思って選んだ紺色のハイカットシューズを試着するようにお願いした。普段は控えめで、あまりファッションにこだわりを見せない真里だったが、ためらいながらもその靴を履いた瞬間、お店のスタッフも僕も思わず


「すごく似合ってる!」


と声を揃えてしまった。真里は、褒められることに慣れていないのか、照れくさそうに苦笑いを浮かべるだけだった。僕は「日頃の感謝」と称して、その靴をプレゼントすることにした。彼女がその靴を履いている姿を見るたびに、僕はどこか誇らしい気持ちでいっぱいになった。


その靴は最後の日も履いてくれていた。



出口のない入り口

仕事はとても忙しい。役職という肩書きが中途半端に与えられたおかげで、メンバーがやり残した仕事も、自分自身が集中力を極限まで使うべき仕事も全て引き受けなければならない。業務の合間に唯一、安息を感じられるのはトイレの個室に腰を下ろし、ため息を繰り返す時だけだ。そんな日々が続き、夜遅くまでかかる仕事を終えると、まるで逃げるようにして最終電車に飛び乗る。真里に会うために東京に向かう時も、何度も駅まで走った。気がつけば彼女と出会った頃から、仕事の重圧がぐっと増していた。

安くはない給与をもらい、離れて暮らす娘には何不自由のない教育機会を与えることができる。だがそれが本当に自分のためなのか、誰のためなのかさえ、反復運動の様で思考は停止していた。真里もまた職位を超えた業務量に耐えていた。彼女は責任感が強く、何事もやりきる誠実さを持っている。見識も広く、頭の良さも際立っていた。自分よりも業務量が多いように見える彼女の姿に、僕は気づいているつもりでいながら、結局、自分のことで手一杯になっていたのかもしれない。

そんな二人が週末の夜に会う時、全てが平穏なわけではなかった。僕は話し出すと止まらず、真里は言葉少なに僕の話を聞くことが多かった。お互いの業務量が増え、金曜から土曜の朝にかけての時間は、しばしばぎこちなく難しいものになっていた。僕が主張し、真里は黙って控える。気づけば僕が一方的に発散している形になり、


「真里はどうなの?」


と投げかけてみても、彼女は答えないままだった。

ある日、土曜のお昼に近所の蕎麦屋で昼食を取ることにした時もそうだった。徒歩で7、8分、僕は先を歩き、愚痴をこぼしていた。彼女の返事がないことには慣れていて、特に気にすることもなかった。だがふと横を見て、真里が30メートルも後ろを歩いているのに気づいた。その時、僕の心に浮かんだのは

「暑いのだから早く歩けばいいのに、早くクーラーの効いた店に入りたい」

自分本位な思いばかりで、彼女の様子を見ようともしていなかった。

別の週末、真里が東京から来ることになっていたが、僕は金曜日の夜も午前様まで仕事をしていて、土曜の朝になってもそのままパソコンに向かっていた。しばらくしてドアホンが鳴り、慌てて開けるとそこには真里が立っていた。


「なんで連絡くれなかったんだよ」


「ごめんなさい」


と小さく答えた。その後、携帯を見てみると、彼女から朝早くから「到着見込みです」「着きました」「向かいますね」というメッセージが届いていた。僕は表面上


「ごめん」


と謝ったが、どこか気持ちが入っていなかった気がする。その時の真里の気持ちを、ただそのまま通り過ぎていた。


背景

彼女とのデートは、都心のあちこちを巡ることが多かった。車を持たない僕には、公共交通機関が移動手段の全てだった。車を所有できる余裕はあった。でも面倒だと感じる自分がいて躊躇していた。そのため、真里の住む街から始まる都内デートが僕たちの定番だった。皇居へ行くと、真里が江戸城や皇族にまつわる話を語り始めた。文学や歴史に精通する彼女の話は僕にとって新鮮で、興味をそそられた。深大寺を訪れると、森林の静けさに包まれた真里の笑顔を確認し、僕も安心したように微笑む。耳元で


「今日もカワイイね」


と囁くと、彼女は照れくさそうに頬を赤らめた。交際から半年が経っても、僕たちはそんな風に穏やかな時間を過ごす時の方が多かった。


ある日、僕らは真里の住む街の隣町にオープンしたばかりの立ち飲み屋に入った。小さな店内には新しい木の香りが漂い、一品300円程度という手軽さから、僕たちはつまみを際限なく頼み、お酒も進んだ。真里はいつもより酔っていて、普段よりもよく話してくれた。彼女の言葉の端々に、ふと見せる切ない表情があった。

彼女には、同じ街に住む母と湘南でサーフィンを趣味とする父がいる。両親は長年別居しており、真里は一時期、僕の住むエリアにいる祖父母と暮らしていたこともあると聞いていた。彼女の家庭は複雑だったが、現代においては特段珍しくない背景だと僕は思っていた。


「お父さんとは、たまに会っているの?」


僕がそう聞くと、真里は少し間を置いて答えた。


「先日、久しぶりに会ったの。今の私のこと、全部話したの」


「へぇ、今のことって?」


「…家庭のある人と付き合っているってことも」


その言葉を聞いた時、胸が少しざわついた。


「そうか。お父さんは反対したんじゃない?」


内心で言葉が詰まっていた。僕の立場をどう表現しても、結局、今はただの「将来的に」という言葉しか言えない無責任なものだった。

しかし、真里はその問いに応える前に、ふいに涙を流し始めた。


「父は…それでも肯定してくれたの。『真里がその人を愛しているのなら、パパは応援する』って…」


その言葉に、僕の胸が鋭く刺された。真里は、その場で泣き崩れるようにして涙をこぼしていた。その涙には、答えのない恋に翻弄され、将来への漠然とした不安に苛まれる彼女の姿が重なっていた。適齢期という言葉で簡単に片付けられない彼女の不安が、僕にとっても痛いほど理解できた。そして、そんなにも僕を愛してくれていることが嬉しいと同時に、今の自分に何も具体的な約束を示せない無力感が、僕を責め立てた。

その夜、真里は飲み続け、僕たちはふらふらになって彼女の自宅へ戻った。扉の前で解放された真里の顔は、涙でくちゃくちゃになっていた。僕は何も言えず、ただ彼女の隣に立つことしかできなかった。

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