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光が射す、その前に  作者: march


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29/30

ほんの少し痛い

11月30日の朝、引っ越し前の最後の片付けをしていた時、ベッドの端を少し持ち上げただけで腰の奥が「ぐきっ」と鳴った。ぎっくり腰。派手さのない痛みほど、人生の節目にそっと入り込んでくる。


荷物は少ない。前回の引越しから荷解きすらしていない段ボールもいくつか残っていた。6ヶ月しか暮らしていない街なのに、生活の痕跡は驚くほど淡かった。辞めた会社のタスクだけが薄膜のように頭のどこかに貼り付いたままで、“あの場所”の影だけが剥がれてくれない。僕がいなくても、物事は惰性的にうまく進むのだろう。箱をひとつ閉じるたびに、「まだ終わっていないもの」と「もう終わったもの」が混ざっていく感覚だけが残った。


腰を抱えながら実家へ車を走らせ、ようやく駐車場に着いた。父の車も母の車もあるのに、いつもなら僕の車の音を聞きつけて外に出てきてくれる二人が、今日は誰も出てこなかった。寝ているのだろうか、と思いながら歩いていると、水洗い場のあたりで父が何かを洗っている後ろ姿が見えた。


「おい、帰ってきたよ」と声をかけると、父は少し驚いたように振り向いた。「ああ、帰ってきたんだね」。車の音すら聞こえなかったのか、耳が遠くなったのか――そんな不安が、ほんの一瞬胸を刺した。シンクの中には大量のキノコ。「キノコ洗ってるんだね」と言うと、「さっきお母さんと取りに行ったんだよ」と穏やかに笑った。


勝手口から家に入ると、台所でも母がキノコを洗っていた。「帰ってきたよ」と声をかけると、母は少し遅れて「ああ、帰ってきたんだ」と返した。二人とも、以前よりわずかに老いたように見えた。


その日の夕食は驚異的な16時スタートだった。さっき洗っていたキノコの入った豚汁、母の手料理がいくつも並び、僕は全部食べた。昔は何も感じなかった味が、妙に美味しく感じられた。


実家で二泊した夜、浅い眠りの中で長澤が一度だけ夢に出てきた。特別な意味はない。ただ、夢の中の彼女は僕の名前を知っている人の声で話していた。


入社直後、自己紹介のあとに

「どちらの地域のご出身ですか?」

と何気なく聞かれた時、ふと“きれいだな”と思った。


そのあと、少しずつ距離が縮まり、

「つぅーかさー」

と砕けた声で話しかけてきたり、僕が「今日は目元が華やかですなw」といじるように言ったときに見せた、あの少し照れた笑顔。そういう断片だけが、今もつまづきそうな小石みたいに胸の奥に残っている。


深夜、風呂上がりのリビングでひとり佇んだとき、娘たちに「そろそろクリスマスだね。欲しいものあるかい?」とメッセージを送った。しばらく既読がつかず、1時過ぎに次女と三女から「考えてから連絡する!」という短い返事。受験の時期だ。もう何年も会っていない。僕と娘たちは半年に一度、いや四ヶ月に一度くらいのプレゼントやお年玉のやり取りだけ続いていて、それすらお互いのルーティンになっている。


会社のことも長澤まさみ似も、そのうち薄れていくだろう。人の温度や記憶は、上書きされていくものだ。

本当はそんな風に忘れてしまう自分に、どこか抵抗があるのに。(嫌だ。嫌だよ。)


父と母、娘たちは、その上書きの層とは別のところにいる。でも成長や老いという形で、少しずつ僕から離れていく。僕は孤独になる。そんな感覚が胸に差す。けれど、それもどうしようもない自然の距離だ。


12月2日、新しい街へ越した。まるで長澤の目元のように華やかな街だったが、腰の鈍い痛みを抱えてソファに横たわると、ネオンのざわめきの中で過ぎた6ヶ月の重さがゆっくり沈んでいった。その重さが痛みなのか余韻なのか、自分でもよくわからないまま。

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