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光が射す、その前に  作者: march


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21/30

君がいた夏

2025年7月20日。参議院選挙の日だった。

朝の街は思いのほか静かで、蝉の鳴き声だけが規則的に空気を切っていた。

投票所へ向かう人たちの流れを横目に、僕は仕事のメールをひと通り片づけて、車を走らせた。

向かう先は、滝だった。


特別な意味があったわけじゃない。ただ、その場所に行けば少しは何かが整う気がした。

3年前か4年前か──記憶は少し曖昧だけれど、その滝には真里と一度だけ行った。

夏の真っ只中で、汗ばむ空気と普段の仕事の負担、それをすべて中和するようなジェラートの甘さが記憶の端に残っていた。


途中にある豚肉専門店の奇妙な名前を、真里が小さな声で読み上げて、笑った。

あのとき、車内にふわりと笑いが生まれた。それは僕の中では奇跡のような瞬間で、

たったそれだけの出来事が、今でもこうして思い出せるというのが不思議だ。


滝の手前にあるジェラート屋で、ブルーベリーのジェラートを食べた。

暑さであっという間に溶けて、指先から滴った冷たい雫が足元の石に落ちるのを、

僕たちはただ眺めていた。何を話していたかは覚えていない。というか、きっと何も話していなかった。


未来について語るのが怖かった。

お互いがそれを無意識に避けていた。僕も、真里も。

それが罪悪感だったのか、あるいはただの臆病だったのかは、今でもよくわからない。

でもあのときの僕は、目の前の真里の美しさにだけ、集中していた。

そうしなければ、何か大切なものが壊れてしまいそうな気がしていた。

今思えば、それこそが小さな嘘だったのかもしれない。目の前のことにしかフォーカスしていない僕の事実だ。


滝に向かう小道で、手をつないだ。

しぶきの向こう側にいる真里を、僕はひとつの風景のように眺めていた。

夏に弱い人だったけど、不思議と夏の記憶ばかりが残っている。

三軒茶屋の片隅のバーで、レモンサワーを何杯も飲んだこと。

暑さにうんざりして下北沢まで歩いた午後。

古い喫茶店でアイスコーヒーを頼んだら、驚くほど香りがよかったこと。


真里は、よく僕の目を見ていた。

まっすぐに見て、何も言わずに微笑むだけで、僕は何もかも見透かされたような気がした。

だから僕は、あまり目を合わせないようにしていた。


そして今、僕はその滝の前に一人で立っている。

空気の温度も、しぶきの匂いも、あのときと同じなのに、世界の解像度が違って見える。

真里の誕生日が近い。

一昨年も去年も何もできなかった。今年もきっとそうだろう。

でも、こうしてひとりで滝を見ていること自体が、何かしらの贈り物のような気もした。


もう、彼女の記憶の中に僕はいないだろう。

でも、僕の中にはまだ、君がいた夏が残っている。

それだけは確かに、失われていない。


帰り道、投票所の前を通り過ぎた。

風が少しだけ優しくなっていた。


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