君がいた夏
2025年7月20日。参議院選挙の日だった。
朝の街は思いのほか静かで、蝉の鳴き声だけが規則的に空気を切っていた。
投票所へ向かう人たちの流れを横目に、僕は仕事のメールをひと通り片づけて、車を走らせた。
向かう先は、滝だった。
特別な意味があったわけじゃない。ただ、その場所に行けば少しは何かが整う気がした。
3年前か4年前か──記憶は少し曖昧だけれど、その滝には真里と一度だけ行った。
夏の真っ只中で、汗ばむ空気と普段の仕事の負担、それをすべて中和するようなジェラートの甘さが記憶の端に残っていた。
途中にある豚肉専門店の奇妙な名前を、真里が小さな声で読み上げて、笑った。
あのとき、車内にふわりと笑いが生まれた。それは僕の中では奇跡のような瞬間で、
たったそれだけの出来事が、今でもこうして思い出せるというのが不思議だ。
滝の手前にあるジェラート屋で、ブルーベリーのジェラートを食べた。
暑さであっという間に溶けて、指先から滴った冷たい雫が足元の石に落ちるのを、
僕たちはただ眺めていた。何を話していたかは覚えていない。というか、きっと何も話していなかった。
未来について語るのが怖かった。
お互いがそれを無意識に避けていた。僕も、真里も。
それが罪悪感だったのか、あるいはただの臆病だったのかは、今でもよくわからない。
でもあのときの僕は、目の前の真里の美しさにだけ、集中していた。
そうしなければ、何か大切なものが壊れてしまいそうな気がしていた。
今思えば、それこそが小さな嘘だったのかもしれない。目の前のことにしかフォーカスしていない僕の事実だ。
滝に向かう小道で、手をつないだ。
しぶきの向こう側にいる真里を、僕はひとつの風景のように眺めていた。
夏に弱い人だったけど、不思議と夏の記憶ばかりが残っている。
三軒茶屋の片隅のバーで、レモンサワーを何杯も飲んだこと。
暑さにうんざりして下北沢まで歩いた午後。
古い喫茶店でアイスコーヒーを頼んだら、驚くほど香りがよかったこと。
真里は、よく僕の目を見ていた。
まっすぐに見て、何も言わずに微笑むだけで、僕は何もかも見透かされたような気がした。
だから僕は、あまり目を合わせないようにしていた。
そして今、僕はその滝の前に一人で立っている。
空気の温度も、しぶきの匂いも、あのときと同じなのに、世界の解像度が違って見える。
真里の誕生日が近い。
一昨年も去年も何もできなかった。今年もきっとそうだろう。
でも、こうしてひとりで滝を見ていること自体が、何かしらの贈り物のような気もした。
もう、彼女の記憶の中に僕はいないだろう。
でも、僕の中にはまだ、君がいた夏が残っている。
それだけは確かに、失われていない。
帰り道、投票所の前を通り過ぎた。
風が少しだけ優しくなっていた。




