闇
チャットルーム“闇”
僕らは同じ会社に勤めている。
勤務している拠点は違うが、同じ部署ということもあり、会社のチャットツールを使って頻繁に連絡を取り合う様になっていた。先週、初めて会って以来、
「おはよう」
「おやすみ」
他愛のないメッセージのやりとりから、その日の食事の内容や業務の忙しさによる疲れを共有することまで、少しずつ距離が縮まる日々だった。
僕には妻と娘がいる。妻との婚姻関係はすでに破綻しており、結婚してから20年弱が経つ中で、半分以上は単身赴任という形で事実上、別居していた。僕は娘が自立するまでは離婚しないつもりで、経済的な支援や相談相手としての役割を果たし続けている。振り返ると、この出会いは、僕にとって大きな転換点だったのかもしれない。
チャットを通じて真里とやりとりをしているうちに、驚くべきスピードで彼女に惹かれていくのを感じた。それが仕事を超える感情だと気づいていて、それを自制しなければならないと考え始めた。
真里が作ったチャットルームの名前は「闇」。
なぜその名前を選んだのかはわからなかったが、彼女の同僚たちからは「ネガティブ」「メンヘラ」といった噂が流れていた。人の噂は表面の一部分から派生するはずで、大体の人のその解釈で合っているかも知れない。
それでも、彼女との会話はどこか魅力的で、特に業務の相談をするために初めて真里と会話した時、想定外の印象であった彼女に対して、冗談交じりに
「明日デートしてみようか?」
現実となった。
初デートの後、僕たちのチャットの頻度はさらに増し、まるでお互いを惹きつけ合っているかのような会話が続いた。しかし、僕は既婚者であることや、これ以上進んでいいのかという不安もあり、なにか引っ掛かる感覚があった。
「もうこのチャットルームは終わりにします。僕は既婚者だし、、、」
妥当だろう。そんなメッセージを書き込む。。
いつまで経っても返答がなかったので、僕はチャットルームを削除した。だが、数秒も経たないうちに、真里は再び同じ「闇」のチャットルームを作り直した。
「もう。。。」
小さくつぶやき、その日はそれ以上メッセージのやりとりはなかった。
その翌日も、またその翌日も、結局は元に戻った。
「あーあ、本当に仕事、大変ね」という。
「そうですね。」
「真里って、さらりと仕事するよな。」
「そうですか?」
「大変さが伝わらないもん。これはもちろん良い意味で」
「よく言われるんです。良い意味か、そうで無いかは、私にはわからない」
「深いねw。それはそれで俺は楽しいけどね。」
「私は楽しく無いですよっ」
「良いのだよ。ありがとね」
“まーちゃ“
週末が来て、僕は部下の女性と東京で飲むことになっていた。その女性は既婚者で、旦那さんから昼間のお酒は許されていたので、昼過ぎから飲み始めた。16時頃にお開きとなり、お酒の勢いもあって、真里に連絡をした。
「真里さん、今東京にいるんだ。一緒に飲まない?」
「もちろん構いません。」
すぐに返事が返ってきた。丁寧な言葉の選択だ。
真里の住む街に着いた。記憶に残っている風景もほとんどなく、20数年前に訪れたことがあったが、ほとんど蘇るものはなかった。
1週間前は真里が僕の住む街を訪れ、今度は僕が彼女の街を訪れていた。駅に着くと、真里は恥ずかしげな笑みで迎えてくれた。
お酒が入っていた僕は、
「会いたかったよ。真里さん」
少し陽気な口調で言った。酔った勢いでもあった。
僕たちはそのまま飲み続けた。ふと気づくと、彼女の視線が、僕の手元にあるグラスの中の氷をじっと見つめていた。僕は彼女の綺麗でしなやかな指先、わずかに揺れるその影が、彼女の心の揺らぎを映しているような気がした。ふと、言葉が口をついて出た。
「好きになっちゃう。。。」
言ってしまった、という気持ちと、言いたかった、という気持ち。
真里は、自身のグラスの縁を指でゆっくりと触りながら、僕の方を見た。僕の視線とぶつかると、ほんの一瞬だけ、彼女のまつ毛が震えたように見えた。そして、
微笑みを浮かべ、静かに頷いた。
それが、答えだった。
その後、真里のマンションへ行くことになった。真里の家はとても落ち着いた空間で、整えられた部屋や良い香りが漂い、ベッドやタオルまでが神経質な僕の好みにぴったりだった。酔ったままの僕は、シャワーを浴びた後、真里のベッドに潜り込み、いつの間にか眠りに落ちていた。
何時間が経ったのだろう。真里がパジャマに着替えて僕の隣に横たわった様だ。目が覚めていたが、寝ているふりをしていた。
しばらくして真里の小さな手が僕の肩に微妙に触れ、彼女の頬が僕の背中にしっとりと寄せられるのを感じた。。
僕の中の感情は一気に溢れ出し、振り向いた。止めることができなかった。
翌朝、窓から柔らかな光が差し込む中、僕が目を覚ますと、真里も同時に起きた。
「おはよう、まーちゃ」
彼女は僕の名前に親しみを込めた呼び方をつけて呼んでくれた。僕が逆の立場であれば少し照れくさそうにいうであろう、その場面も真里は何事もなかった様にさらりと言った。いったい、いつ考えたのだろう。。
僕の心はとても軽くなり、これから始まるであろう真里との未来に、何かを勝ち得た様な、気持ちになった。
彼女の住む街は、彼女が育った街でもあり、僕はさらに真里のことを知りたいと強く思った。
「真里の街を紹介してよ」
お願いした。
人が何かを感じる時、その印象はその時の気分に大きく左右される。例えば、以前の僕なら、30分待ちのクレープ屋の列に並ぶことなど、まったく価値を感じなかった。しかし、今は違う。真里と立ち話をするだけで、何時間でも待つ価値があるように思える。彼女と一緒にいられる時間は、すべてが特別なものに感じられるのだ。
その日、僕たちが歩いていたのは、世間的には高級住宅街と呼ばれる場所だが、そこにしかないであろう古びた団地の横を通り過ぎると、突然懐かしさが胸を満たした。思わず口に出して
「この場所、なんだか懐かしい感じがする」
すると、真里は少し考えた後に
「生きづらい人はどこにでもいるし、それは彼ら自身が望んだことじゃないんだよね」
突然だったが、彼女らしい見解と思った。
僕たちの感じ方には、どこか共通するものがある。でも彼女といると、僕は自分が見逃していた世界の一面、もう一歩先を少しずつ知っていくような感覚があった。
明日からはまた仕事が始まる。僕はこの街を離れ、帰らなければならない。小田急線に乗ると、その線路は僕を終点まで連れて行く。しかし、車窓を眺めながらも、心は真里の隣にまだ寄り添っているような気がした。
「逢いたいよ」
何度もメッセージで交わした。
恋が、確実に愛へと変わっていくのを感じる。僕たちはまだ物理的には離れていて、孤独な時間もあるけれど、真里とのやりとりは僕の心を満たしてくれている。
“まーちゃ”
呼ばれた事のないユニークなあだ名を僕は忘れることは無いだろう。
それぞれの評価
会社に登録されている真里の写真は、肩甲骨の下まである長髪だった。それが最初のデートで会った時にはショートボブ程度の髪型になっていた。その時は特に気に留めなかったが、ある日ふと
「そういえば、真里は髪が長かったよね」
「まーちゃに会う前に切ったの。ちょうどその頃、ドネーション目的で」
そして、約40年ぶりに開催された東京オリンピックの開会式を2人で見ていた時、
「多様性って、少数派の意見を反映させることが目的なのかな?」
ぼんやり言うと
「普通以上の人は、いつもスポットライトを浴びていられるの」
世界的な寄付を呼びかけるCMを見て
「この子、本当にかわいそうだね。なんとか助けてあげたい」
「この人はタレントだよ。出演料をもらっていると思う」
僕はいつも表面的な部分に感性が働いてしまい、見えないところにフォーカスするのが苦手だった。
けれど、人の深層心理にはなぜか興味があり、その点で真里がくれる新しい視点や見解には、深い魅力を感じた。次第に僕は、彼女の考え方にどこか尊敬の念を抱くようになり、言葉を受け止め、耳を傾けることが自然になっていった。どちらかといえば昭和的な家庭環境で育ったことを言い訳にして、男尊女卑的な考えを持っていた僕が、いつしか彼女の言葉を聞き入り、深く耳を傾ける。
「メンヘラ」
一言で片付けられがちな彼女が、本当はそんな単純な存在ではない、、、彼女が本当に抱えているものは、その言葉だけで説明できるほど単純なものではない。。きっと彼女は、もっと深いところで、考え、折り合いをつけながら生きているのだろう。それでも、そんな彼女が僕を愛してくれる。誇らしかった。
感謝
今住む街には、当然馴染みはなかった。会社の指示で住むことになったこの場所は、僕にとってただの
“働きに帰る場所”
であり、住むには少し広すぎる部屋、物足りない生活環境。けれど週末に真里が来てくれると、その空間は少しだけ温かみを帯びる気がしていた。
彼女が駅に着くころ、僕はいつもの道を通って迎えに行く。駅から家までの道のりは、交通量が多い割に歩道は狭く、僕があまり好きでない道のひとつだ。
僕の家に招きはしたものの、この街には東京にあるような充実した選択肢があるわけでもなく、僕たちはテレビを見たり、散歩をしたり、シンプルに時間を過ごしていた。帰り道に立ち寄ったスーパーで、簡単な食材を買って食事をし、その後、お互い溜まっていた仕事を片付けていた。そして夜になると抱き合い、明日の別れが訪れるまで、ただ彼女がそばにいる空間を感じていた。
週末の終わりを告げるように、日曜の夕方、僕たちは駅へ向かって歩いた。夕日が落ちかけたその道で、僕らは自然と歩き、真里と手を繋いでいた。冷たい指先を大事に、何気なく手を強く握りしめると、彼女も静かに握り返してくれた。小さな幸せを感じていた。
真里が東京に帰った頃、彼女からメッセージが届いた。いつもの「ただいま」の一言かと思って画面を開くと、
「さっきは私を大切にしてくれてありがとう」
不意を突かれた気持ちで、そのメッセージを読み返した。
「えっ?…大切って?」
そう返信すると、少しして彼女から再びメッセージが届いた。
「まーちゃが、車道側に立ってくださったでしょ。守ってもらえている感じがして、なんだかすごく嬉しかったんです。」
心がざわついた。彼女ほどの年齢なら、過去にそうした経験があっても不思議ではない。けれども、彼女は小さなことで感謝を伝えてくれた。
これまでの人生で、優しさを向けられることが少なかったのかもしれない。
悲しくもあり、彼女が伝えてくれる一言一言が、僕にはどこか温かく、深い感情に感じられた。
その夜、ベッドに横たわり、スマートフォンの画面を何度も見直し、充足感で満たされていた。