嫌いな僕との過ごし方
7月も、気がつけばもう1/3が過ぎていた。
「悩みながら生きていく」なんて、もはや自分の代名詞だと開き直ってはいるけれど、
ここ数週間の不調は、それにしたって少し重たかった。
頭痛、腰痛、寝ても疲れが抜けない感覚。
加えて、どうにも拭えない焦燥感と、不安と、正体のない空虚。
それら全部が、しっかりと混ざって、なんとも言えないだるさになっていた。
でも、不思議なことに「今日はもう無理です」とは言えないのだ。
いや、言おうと思えば言える。でも、言わない。
なぜならこれは、僕にとっては「平常運転」だからだ。
心のどこかで“またか”と思っているし、“そんな日もある”と割り切っている。
だから、誰にも心配されることなく、ただ通り過ぎていく──そんな日。
今日は健康診断の予定があって、実質ほぼ休日のような平日だった。
朝、いつもよりゆっくりと目を覚ましたのに、条件反射のようにメールアプリを開く。
そこには、昨夜遅くまでかかって仕上げた資料へのフィードバックが届いていた。
「差し戻し」と4文字。
ほんの数秒で、昨日の努力はゼロに戻された感覚。
でも、今日はPCの使えない環境だ。
仕方ないので、部下に指示だけを飛ばして、それ以上考えないようにした。
頭の中から、“それ”を追い出す。
……そういうふうに自分を訓練してきた。
でも、本当はちょっとだけ思う。
いや、何度も思っているのかもしれない。
僕がいないと、このプロジェクトは回らない──なんて、思い上がり。
実際は、誰だっていいのだ。
誰でもいいように、仕組みはできている。
それが、組織というもの。
それが、現実というもの。
世の中は「個性を大切に」なんて耳障りのいい言葉で溢れているけれど、
結局のところ、属する場によっては、個性はむしろ邪魔になる。
プロセスじゃなくて、結果だけが重視される世界。
正しいかどうかじゃなくて、使えるかどうか。
好きか嫌いかじゃなくて、役に立つかどうか。
だからみんな、自分に都合のいい解釈をして生きている。
僕だって、そうだ。
むしろ、その傾向が強い人間だと思う。
そういう自覚があるだけに、自己嫌悪に陥るのも早い。
……もし僕が他人だったら、僕を好きになれるだろうか。
たぶん、ならない。
こんな偏屈で、神経質で、合理主義を気取ってるくせに、すぐ傷つくやつ。
他人から見たら、めんどくさいと思うかもしれない。
いや、きっとそうだ。
でも、そんな自分と折り合いをつけながら、今日もこうして生きている。
それも、平常運転のうちなのだ。
もう少し理不尽に怒れたらいいのに。
もっと器用に生きられたら、笑ってやり過ごせるのに。
それができないから、僕は今日も静かに不貞腐れて、
諦めたような顔で、諦めきれていない何かを心の奥で握りしめている。
──だから、くたびれている。
でも、それでいいのかもしれない。
今日はそういう日だった。ただ、それだけだ。
それでもちゃんと朝は来たし、夜になれば静かに眠るだけ。
特別なことは起こらないし、誰も慰めてはくれない。
真里。君は今何をしているんだろう?
記憶も時間も距離も気持ちも、遠くにある。




