それでも、歩き出す
2025年4月26日
「転職の書類を実家に届くように手配したの。申し訳ないけど、確実に受け取って欲しい。急にごめんね。明後日、行くからね。よろしく」
「はぁー、そうなのか。まぁ、気をつけて来いよ。バイバイ」
定年退職して、もう10年以上経つ父の声を、久しぶりに聞いた。
“バイバイ”という結語を使うことで、父は無意識のうちに、僕を小学生くらいの頃だと錯覚しているのではないか。
少し心配になった。
3月末に退職を伝えてからは、退職交渉と引き継ぎに追われ、この地を離れる前に、友人たちとの食事会もいくつか重なった。短い間だったが、同僚たちが開いてくれた送別会もあった。
新しい会社、新しい住まい。
それらの準備を、超がつくほどの短い納期で片づけた。この忙しさは、嫌いではない。
真里との終止符。元妻との離婚。すべてを終え、平穏を求めてこの地にやってきた。
無機質な生活、感じることのない空気──振り返れば、それは確かに無意味に思える。
それでも、必要な時間だったのだ。
荷造りを終えた部屋には、ほとんど音がなかった。
カーテンを早すぎるタイミングで取り外したせいか、射し込む夕方の光が、鋭く、そして長く、床を照らしている。
ソファに腰を下ろし、ふとスマートフォンを手に取る。
何をするでもなく、親指だけがホーム画面をスクロールしていた。
気がつくと、連絡帳の“M”のあたりで指が止まっている。
そこにはもう、名前は残っていなかった。
それでも、なぜだろう。指はしばらく動かなかった。
今なら、もう少し違う言葉を選べたかもしれない。
今なら、少し笑って、何でもない話ができたかもしれない。
でも、たぶん、それを求めること自体が、間違っている。
そう思い直し、スマホを伏せた。
荷物の隙間に、1年半前に真里から送られてきた封筒が挟まっていた。
ぼんやりと眺める。
祖母と思しき住所。その住所も、なぜか訂正線で書き直されていた。
消印は、真里の街。
当時、僕を混乱させたその封書も、今見れば、彼女自身が混乱していたことの証のように思えた。
中には、鍵がひとつだけ。
何のメッセージもないまま、ただそれだけが入っていた。
僕にとっては、これが真里と過ごした日々の、唯一の「証」だった。
だから、どうしても捨てられなかった。
宛名には、僕の正しい漢字名が書かれている。
彼女が、僕の本当の名前を覚えてくれていたこと。
その事実だけが、胸に刺さった。
たぶん、どこかでボタンを掛け違えてしまった。
それだけのことだったのかもしれない。
外に出ると、風が冷たかった。
春の匂いに混じって、まだ冬の名残が残っている。
明後日、僕はここを離れる。
過去をひとつ、またひとつ、後ろに置いていく。
でも、きっと、それでいいのだ。
ふと空を見上げる。
どこかで、飛行機の音がした。
遠く、小さく、白い線を引きながら、見えない誰かを運んでいる。
僕もまた、見えない未来へ向かっていくのだろう。
誰のためでもない、自分自身のために。
静かに、歩き出す。
カギをかけたドアの音が、やけに大きく響いた。




