表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
光が射す、その前に  作者: march


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/30

それでも、歩き出す

2025年4月26日


「転職の書類を実家に届くように手配したの。申し訳ないけど、確実に受け取って欲しい。急にごめんね。明後日、行くからね。よろしく」


「はぁー、そうなのか。まぁ、気をつけて来いよ。バイバイ」


定年退職して、もう10年以上経つ父の声を、久しぶりに聞いた。

“バイバイ”という結語を使うことで、父は無意識のうちに、僕を小学生くらいの頃だと錯覚しているのではないか。

少し心配になった。


3月末に退職を伝えてからは、退職交渉と引き継ぎに追われ、この地を離れる前に、友人たちとの食事会もいくつか重なった。短い間だったが、同僚たちが開いてくれた送別会もあった。


新しい会社、新しい住まい。

それらの準備を、超がつくほどの短い納期で片づけた。この忙しさは、嫌いではない。


真里との終止符。元妻との離婚。すべてを終え、平穏を求めてこの地にやってきた。

無機質な生活、感じることのない空気──振り返れば、それは確かに無意味に思える。


それでも、必要な時間だったのだ。


荷造りを終えた部屋には、ほとんど音がなかった。

カーテンを早すぎるタイミングで取り外したせいか、射し込む夕方の光が、鋭く、そして長く、床を照らしている。


ソファに腰を下ろし、ふとスマートフォンを手に取る。

何をするでもなく、親指だけがホーム画面をスクロールしていた。


気がつくと、連絡帳の“M”のあたりで指が止まっている。

そこにはもう、名前は残っていなかった。

それでも、なぜだろう。指はしばらく動かなかった。


今なら、もう少し違う言葉を選べたかもしれない。

今なら、少し笑って、何でもない話ができたかもしれない。


でも、たぶん、それを求めること自体が、間違っている。


そう思い直し、スマホを伏せた。


荷物の隙間に、1年半前に真里から送られてきた封筒が挟まっていた。

ぼんやりと眺める。


祖母と思しき住所。その住所も、なぜか訂正線で書き直されていた。

消印は、真里の街。

当時、僕を混乱させたその封書も、今見れば、彼女自身が混乱していたことの証のように思えた。


中には、鍵がひとつだけ。

何のメッセージもないまま、ただそれだけが入っていた。


僕にとっては、これが真里と過ごした日々の、唯一の「証」だった。

だから、どうしても捨てられなかった。


宛名には、僕の正しい漢字名が書かれている。

彼女が、僕の本当の名前を覚えてくれていたこと。


その事実だけが、胸に刺さった。


たぶん、どこかでボタンを掛け違えてしまった。

それだけのことだったのかもしれない。


外に出ると、風が冷たかった。

春の匂いに混じって、まだ冬の名残が残っている。


明後日、僕はここを離れる。

過去をひとつ、またひとつ、後ろに置いていく。


でも、きっと、それでいいのだ。


ふと空を見上げる。

どこかで、飛行機の音がした。

遠く、小さく、白い線を引きながら、見えない誰かを運んでいる。


僕もまた、見えない未来へ向かっていくのだろう。

誰のためでもない、自分自身のために。


静かに、歩き出す。

カギをかけたドアの音が、やけに大きく響いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ