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樹海の底 ⑤

    義樹の手記④

 

 継母は当然のごとく私を育てあげた。血の繋がっていない私を、優しく包み込んでくれた。なぜ自分の子がいないのか私が知る由もないが、女なら子が欲しいと思うのが本能だろうと思う。けれども、父と継母の間には子供はいなかった。継母にはプライドがあったのだと思う。医師である男と結婚したというプライドだ。だから、私を受け入れたのだろう。神に近い職業の男と一緒になることで、他人と違う自分を作り上げたのではないか。時に、そんなプライドはどんな人間でも生きやすくする。錯覚するわけだ。ガラスをダイヤモンドと思い込むように、自分を何者か錯覚しさえすれば、この世は薔薇色にもなるものだ。もちろん、ダイヤモンドがダイヤモンドであるのであれば、本物のプライドに変わる。私の父は医師であったのだから、紛れもないダイヤモンドであった。誰がなんと言おうと偉人であり、周囲の人間より優れた人物であった。継母もそういう人の傍らにいて、そのブランド力に自分が染まっていったに違いない。男は美しい女に惹かれ、傍に置きたいと思うが、女は男のブランド力に惹かれるものなのだ。私の妻は若いときは美しかった。私には可憐で控えめにも映った。今現在は時とともに変化してしまったが……。私と同じように老い、性格も変化してしまった。それは仕方がないに違いない。私は教師をやってきて、先入観に似たブランド力があったと思う。医師も教師も似たようなもので、先生と呼ばれるブランド力。当時は妻も小学校の教師をやっていて、互いに尊敬し合える存在だった。私も妻におおいなる期待を寄せていたし、一目置いていた。若く、優秀で美しい女を手にしたことを誇りに思っていた。妻も私が教師であることを尊敬していただろう。先生と呼ばれる人間はそれだけに尊いのである。継母もそうだったであろう。周囲の人間がどう思うと、父の偉大なるブランドの傍らで血の繋がっていない私を育てあげたのだ。この家族は他人の家族とは違うのである、そんな特別な思いを抱いていたであろう。どんな子であろうと、人から尊敬される優秀な医師の子を育てるという魅力を感じながら私を成長させたに違いない。しかし、私は父を超えるどころの子ではなかっただけに、継母を惑わせてきた。神経質で弱かった。それでも私は父のブランドにすがった。医師であるという力強いブランドにすがり、心を奮い立たせた。人に言えば誰もがすごいと口にした。私は陶酔しながら育った。自分の家は崇高な家で、私はそこで育ったのだ。継母も同じ気持ちであったろう。私は今も思っている。私の家は素晴らしかったのである。

 父が死に、その遺言と共に家の敷地内の診察所を取り壊すこととなった。親類にはあの殿堂を取り壊すのかと反対する者もいたが、父の指示通りにすることにした。長年あった診察所はあっという間に破壊され、跡形もなくなったときは妙な淋しさに襲われた。これで、この家はただの家になったのだと悲しくもあった。我々は凡人になったのだ。凡人となった私と継母は原市場の家に取り残された気になった。あの診察所が取り壊されてから、空虚で力が一気に抜けたようだった。我々にブランド力を与えてくれた人間も消え、その象徴であった診察所が消えた。その虚しさが人に理解できるだろうか。私のプライドを満たす盾がなくなったとでもいうのだろうか。とにかく憔悴した。私はまだ若く、計り知れないものを失った喪失感はものすごいものがあった。

 原市場にはそれから長く住んでいたが、ふいに目の前の不便さに気づき始めた。それに加えて妙な疎外感にさえ襲われた。近所の人間が私や継母にたいして敬意を払わなくなったのを感じたのだ。継母はよく口にした。

「あの診察所を残しておけば、何も変わらなかったのに。あの殿堂は私たちを守ってくれたのに」

 そんな言葉であったと記憶している。たしかに守ってくれただろう。どんなに朽ちようと、私たちを守り続け、凡人という卑しい立場の人間になど変貌さえはしなかったのだ。そして、それと同時に、私たちは父からの恩恵を受けていたことを知る。恩恵は私や継母の立場を軽くしてくれた。その当時の歪んだ屈折感から逃げるように、私と継母は東飯能駅の近くに居を構えた。すべては父の遺産からである。もう診察所のない原市場に住む意味もなくなり、私たちは新たな生き方を選んだのである。しかし、今も診察所のなくなった家を手放すことはなく、異彩を放ったブランドの家を残している。原市場にひっそりと残しているが、やはり守るべき家というのは存在しており、私はその使命を任されたと思っている。その後、私は結婚し、継母と妻と三人で暮らし、その数年後継母は病気で他界し、そしてあの娘が生まれた。私の父ほどのブランド力はないが、私も妻も教員という立場、継母は医師の妻であるというプライドは強力な引力があったと思う。継母は妻によく言って聞かせていた。

「私たちは他の家と違うのよ。あなたもプライドを持って生きなさい」

 私はその通りだと妻に何度も言った。妻はどう思ったかはわからないが、自分も自負があったはずであり、受け入れてくれていたとは思う。しかし、今は亡き継母の言葉など忘れてしまい、目の前のことに心騒ぐ日々に変わってしまった。

 あの悪魔のような娘のせいで、困ったことになった。川西家の血筋になぜあのような娘がと思う。現代っ子とでもいうのだろうか、私には理解ができない。教員をやってきて、あのような生命を感じさせない子と出くわしたことはなく、どう扱ってよいやら困り果てるのだ。

 ただ、私は父親として子育てをしてこなかった。外の子には熱心になったが、家では疲れてあの娘とは向き合ってこなかったかに思う。外で働くことはそんなことでもある。自分の身を守るために、何かを犠牲にしなくてはならない。家という船の舵をとるために私は存在し、外で厳しい環境の中一日仕事をしてくる。金ととってくるとはそんなものだ。妻も私に父親業を期待はしなかっただろう。とにかく余裕がなかった。思い起こせば、私の父も子育てらしいものはなかった。抱っこなどしてもらったことはなく、互いに遊び合ったり、触れ合ったりなどしなかった。一家の大黒柱とはふらふらと浮かれたことはしないのだ。だから、私もそうであった。父親の威厳だけを振舞った。何の後悔もない。やはり、子が父に敬意を表すのは当然のことであり、それができないあの娘は悪魔なのだと思う。

 親は亡くとも子は育ち、愛情のような甘いものに浸らずとも人は生きていけるのである。私がママと触れ合うこともなく、存在しない愛など求めず育ったように、子は育つのだ。継母が私の人生を指南してくれただけである。あの甘えったれの娘はどうかしているのだ。自分の立場をわきまえ、自分の人生を踏み外さないように生きることがなぜできないのであろう。私には甚だ疑問である。あの娘の考えていることは理解できない。いや、理解しようとしては負けなのだ。理解してもらって頭を撫でてもらおうなどと期待されては困るというものだ。私が自分自身の人生を歩んできたように、あの娘も歩まねばならない。ねばならないのである。

 こんな窮地に思う。私のママならなんて言葉をかけてくれるだろうかと思ってしまうのだ。若く、美しく、この世を生き急いであの世に旅立ったママの声が私に聞こえそうである。麗しい人ほど夢にすら出てこないものだ。私に何も語りかけない。それとも、自分で判断せよと言っているのだろうか。せめて夢にでも出て、快い目覚めの朝を迎えたいものだ。

 私はママに伝えたい。

『あの娘をどうかあの世に連れていってください。私や妻が楽になります。私たち二人で旅行に出かけることもできます。あの娘のせいで今後の人生が取り乱され、泥沼の中に入れられ、あの娘のナイチンゲールのような立場で生きたくないのです。私はあの娘のために、教員という職を終えて図書館へ仕事に向かっているわけではないのです。六十過ぎの人間が、若くエネルギーの余ったあの娘ために生きたくないのです。なぜこんな理不尽なことが起きるのでしょう。正しく生きてきたはずが、なぜ私を苦しませるのでしょう。なぜ、あの娘はこんないい環境の元でおかしな行動をとり、しっかりとした道を歩むことができないのでしょう。私には理解に苦しみます。たったひとつの願い事も叶えてくれないこの世なら、私はこの世を恨みます。あの娘をあなたの元に連れていってほしいのです。』

 ママに私の声が届いてほしい。届いてほしいのだ。それとも、私が間違っているのだろうか。返事をしてほしい、ママ……。何でもいい、私に答えをください。




 由依は自分の部屋の窓から空を眺めていた。空は高く、澄んだ青で、綿のような大きな雲が広がっている。今この時間、学校という世界から離れていった人たちは一体何をしているのだろうと思った。この空を見上げているのは自分一人だけだろう。こんな昼間に、見ているのは次のステップに進む足元だけだろう。空は退屈だ。風さえ起きなければとまったままの風景。雲も動いているようなそうでないような、青い背景に留まっている。どこにも染まらない白い雲と、澄み切った青は平行線だ。由依には退屈な空を見れば、虚しくなった。自分はたった一人で、この狭い空間の中にいる。誰とも関わらず、この家の中も閉鎖空間だ。父も母も同じ毎日をひたすら繰り返し、冷ややかな視線を自分自身に向けている。食事を作ろうと、風呂掃除をしたり、洗濯物を取り入れて畳んだりしても、母のありがとうの一言も心に響かない。父は当たり前だと言わんばかりで、帰宅すればスリッパの音をわざと立て、自分の存在感を苛立ちとともにアピールし、顔を背けてばかりだ。由依が和室でテレビを見ながら食べる夕食は気楽ではあったが、どこにも存在しない自分は窮屈で憂鬱だった。こんな生活を送っているうちに、外で他人と交わりながら行動し、外の世界へ羽ばたいている同じくらいの年齢の人間が羨ましく思えた。テレビの中の人間がそうで、遠い世界を生きている。おしゃれで可愛くも美しい同性の彼女たちは、テレビからは近く見えるが、遥かに遠く手に届かないのだ。外見も内面も魅力的で異性にも相手にされるだろう。同じ生きていながらこうも違うのだ。自分という不確かな存在は日陰にひっそりと不気味な影を宿して生きている。何の変化のない生活を選び、何も望まない日々を生きる。父と母と三人で家の中の規則正しいルーティンだけをこなし、互いの不平不満や苛立ち、怒りを小さな家の中で渦巻いているだけなのだ。やり場のない空間で、やり場のない生き方と、やり場のない心と体をとりあえず維持している。それしかできない自分を由依は悔しくもあった。ただ、どうすることもできない。いつまでも変化のない空を見ると、空虚で悲しかった。

 由依は空を見るのをやめ、本棚から小学校時代のアルバムを取り出した。付箋の部分を迷わず開け、赤野美代子の顔は二重画鋲で潰されているのを見ては溜息をついた。画鋲を取り除いても潰しても赤野美代子の顔はもう見えない。カウンセラーの橋本にあなたは悪くないと言われようと、犯人探しはやめろと言われようと、憎いものは憎かった。誰が自分の気持ちを理解してくれようか。自分自身が幸せを感じられる人生を送るなど不可能のようにしか思えずにいた。

「先生のせい、全部……。私がこうなったのも全部」

 由依は冷淡な目をし、アルバムの中の画鋲を一心に見つめた。誰も問いかけてはくれない。この写真を破ることはしない。先生が憎い。その気持ちだけが心を支配していた。

 由依は二階からおりてきて、洋間に座り込んでうたた寝をしている和子の元に行き、言った。

「……薬は?」

「え? 薬、どうかしたの?」

「前に、医者が薬を飲んで訓練してって言ったから。たとえば喫茶店とか、そういう場所に」

「何の訓練よ、訓練って、なぁに。妙に重々しいわね」

 和子は薬のことが頭に過ったが、由依に安易に渡したくなかった。頓服の十回分なんてあっという間だ。息抜きには少なすぎる。それに、由依に自分が飲んでいるなんてばれたら立場がない。ほんの数回利用しただけで日常的でないにしろ、由依には知られてはならないと思った。

 由依はたった今必要ではなかったが、お守りのような安心を得たかった。医者が言うように喫茶店に出かけてもいいのではと思ったのだ。たった一人なら負担はない。明日でも明後日でもいい。たった三人の家の中は居心地が悪く、息が詰まるのだ。夜は息を潜めて寝ることも辛い。父のスリッパの音も耳障りだった。大学が辛くて辞めたのに、今度は家の中も辛い。あちらもこちらも居心地が悪い。ならば外に出るしかなかった。一日のほんの一時間でもいいと思った。

「薬なんて必要ないわよ。もっと重要なときに渡すから。喫茶店なんてコーヒー一杯なんてどうってことないでしょ。飲んでも飲まなくても一杯だけ。一人で飲むだけ。何の技術も必要ないじゃないの。バカらしいわね」

 和子は鼻で笑って言った。飲みかけのシートは渡せないが、カットして一錠なら渡してもいいと思った。けれども、自分にとっても必要な薬。それに、由依には前科がある。やはり渡したくない。どうにかしてそんな話を追いやってしまいたかった。

「もっと大切な場合は一個だけあげるから。だって、あなたは前にひどいことしたでしょ。お母さんね、心配なの。薬は毒でもあるしね。絶対必要っていうわけではないんだし、これから外へ出て、もっといろんなことにチャレンジして、大変になったら渡すから。それまでまだまだでしょ」

 由依はそれを聞き、少し捻くれた。

「だったらやめる、喫茶店いくの。そうだよね、コーヒー一杯なんて意味ないもの。一人だし、つまらないし、コーヒーのためにお金払って飲んで、薬も飲んでって意味ないもんね」

「そう、そうよ、由依。よくわかってるじゃない。意味のないことより、意味のあることをするの。たとえばアルバイトとかね」

 和子は自分の言うことが正しいとばかりに頷きながら、由依を見上げた。由依は冷ややかな視線を和子に向け、黙り込んだ。

「ハローワークにはパートとかいろいろ出てるし、由依が知らないことっていっぱいあるのよ。何でもやってみるといいわよ。そうしたらお母さん嬉しいなぁ。たまにはお母さんを喜ばせてよ」

 そんなとき、散歩に出ていた義樹が玄関の鍵をガチャガチャと乱暴に開け、中に入ってきた。

「あぁ、面倒臭い」

 大きな欠伸をして家中に響くような声をあげた。

「何が面倒臭いの?」

「何がって、この世の野暮用だよ」

 呆れた声をし、洋間に入っては由依の存在を知って立ちどまった。義樹は和子と二人ばかりと思っていたが、由依がぼんやりと立ち尽くしているのを見ては苛立ちが増し、わざと咳払いをした。

「……いたのか、……知らなかった」

 義樹は溜息をついてがっかりし、あぁあとまた声をあげた。由依は自分に向けられる父の不穏な態度を察し、洋間を飛び出して階段を駆けあがった。

「まったく、面倒臭い」

 由依に聞こえるように、義樹はそう声を張り上げた。

 由依はそのままベッドに倒れ込んだ。洋間で義樹が何か言っているのが聞こえたが、耳を塞いで聞こえないようにした。疎外感だけに包まれ、無償に淋しくなる。誰かが頷いてほしかった。由依はそっと体を起こして立ち上がり、両親の寝室の枕元に置かれた電話の子機を手にし、また自分の部屋に戻った。そして、アドレス帳にメモられていた田村咲の電話番号を何も考えずに押した。なぜかわからなかった。友達のような知り合いに何を求めているのか。由依は少しばかり混乱しながら期待をしていた。自分にたいして頷いてくれる存在だったのか自覚もなく、ただその相手しかいない気がした。近く会ってくれた人、近く話をしてくれた人、その程度だ。けれどもその程度の人でよかったのだ。

 電話には誰も出なかった。そのまま留守電になり、川西ですと咄嗟に言ったまま電話を切った。それきりだった。夜中になっても折り返しかかってくることはなかった。由依はその通りだと思った。誰もが忙しいのだ。人に期待をしてはダメなのだ。私のために誰かが優しい言葉を注いでくれる……そんな淡い期待を抱くのはやめようと思った。




 西誠治は俯いたままの由依に向かって、淡々と言った。

「食ってのはただ食べれはいいというわけではないんですよ、動物とは違って。ただ食べて空腹を満たせればいいというわけではなくて、社会で生きていくためのコミュニケーションでもあるんです。仕事だってそう、友人関係だってそう、他のいろんな場面でも食事って必ずあるんです。皆でお腹が空いたから食べようとわけではなくって、コミュニケーションの一環に食事の場面があるんです。それができないと、社会生活を送るのは厳しいんです。だから、ちょっとしたことからでも始めてほしいって言っているんです」

 由依は聞き流していたが、ただ食べるという行為が社会で生きるためのコミュニケーションであるとは初めて知ったことであった。自分は食べることだけに集中していたが、それ以上の背景が広がっていることが恐ろしく感じた。ふいに、それを避けては生きれないのだと言われている気がし、突きつけられる現実を知って頭が真っ白になる。

「じゃぁ、どうしたら……」

 由依は心細げに西誠治のほうを見る。

「だから、訓練というか練習をするっていうことですよ。頓服もあげてるし、それを飲めば気持ちも和らぐだろうから、飲んで人と一緒に食事にでかける。そういう恐怖や不安に突き進むことです。それ以上のことは私ができるわけでもないし、どうすることもできないんですよ。……私が言えることは、練習をしてくださいとしか」

 西誠治は冷静に言い放った。由依の心は動揺し、生きるための選択をすべて取り上げられた気がした。どんよりとした頭を、灼熱のコンクリートの路上に叩きつけられたようだった。目を閉じると、底のない泥沼に落ちていくような絶望感さえある。医者にそれしかできないというなら、自分には何の手腕も思いつかない。目の前の西誠治という医者に、何を求め、向かい合っているのだろう。黙っては、長い沈黙の時間を噛みしめていた。

「……でも」

 と言って口をつぐんだ。これ以上話すのも無駄に思える。けれども、人に求めたがってしまう。自分に心の内と、生きるための術を万能であろう医者に求めてしまうのだ。

「じゃぁ、それができなかったら、私はどうなってしまうのですか?」

 由依は恐る恐る聞いた。西誠治は困った顔をしたが、由依から目を逸らさなあった。

「できないのではなく、努力をするということです。自分をあるがままに受け入れないから、不安や緊張だらけになるんですよ。最初は苦痛でしょうが、薬を飲めば余裕だってでてくるわけで。何事だって人は最初は臆病になりますよ、私だってね。でも、一歩出てみると、案外大丈夫なんだって思うことがほとんどです。もしその一歩も進まないとなると、何もないってことになります」

 由依は西誠治が言うことは正しいと思った。医者の言うことは何ひとつ間違ってやしない。けれども、自分が抱えている恐怖や不安で自律神経が狂って精神が混乱する。薬は私の過去も覆すほどの魔力を持っているだろうか。田村咲と食事をしたことを思い出す。あの苦痛を二度味わえるだろうか。薬で緩和できるだろうか。いや、無理に違いない。一瞬の薬の効果よりも、自分が生きてきた年月のほうが長く、不安や恐怖のほうが強いと思った。

「私は……、生きれないのでしょうか」

 由依が思いつめたように言う。由依は目の前の医者が自分にそう言っているように思えてならなかった。食事が人とできなければ、社会生活が送れない。それは今後の人生がないのと一緒だった。生きるために食べる行為は複雑な意味をもつ。由依に受け入れ難かった。

「そんな思いつめなくてもね。だって食事でしょ。……あなただって、生まれたときから何も食べずに生きてきたわけじゃない。食欲は元々生き物に備わっているものだし、楽しい欲なんだよ。本来そういう欲があってあなたは成長してきたんですからね。深刻に捉えすぎなんじゃないですか?」

 西誠治はカルテをぼんやりと捲りながら、右手のボールペンを暇そうに眺めながらカルテを突いている。患者に酷なことを言っているわけではない。そうするしかないと事実を言っているのだ。受けとめられない患者をどう説得するか考えると、一人の人間としてやる気を奪われる気がした。

「じゃぁ……、頓服薬を二倍出しましょうか。そんなに真剣になってしまうなら、二倍飲めば気持ちが楽になるでしょうし。前にあげたデパスね。一回に二錠飲んでください。そうすればいいでしょう」

 結局、薬は切り札だ。西誠治には自信があった。薬を処方できるという強みがある。それで患者は納得するはずだ。目の前の小動物のようなか弱い患者もうまく操ることができる。自分にできることはそういうことだと思った。

 由依は戸惑っていた。二倍であろうと三倍であろうと、母がとりあげてしまうだろう。母が求めているのはこの世で意味のあるもっと高いハードルで、喫茶店にいくような小さなことではない。心許なかった。そして、自分は人が求める正しさに戸惑うばかりだった。子供の頃から周囲の言うことは聞いてきたつもりで、カウンセラーの橋本が言った虐待をした赤野美代子以外は、自分自身に正しい言葉を投げかけたはずだ。しかし、それが苦しい。目の前の医者もそうだ。こうするしかないという態度だ。由依はいつもの癖で、人よりも自分を恨んだ。

「カウンセリングのほうはうまくいってるんでしょ?」

 西誠治は自分の役目は終えたと言わんばかりに、優しく声をかけた。由依はテーブルの中央あたりをぼんやりと見つめていた。今、不安も緊張もなく、体も強張ってはいない。けれども、この世界を生き抜く手段が見つからない。見つけようにない。医者がくれる薬だけが頼みの綱で、それにすがって一歩歩く。それしかない気がしていた。

「……カウンセリング、ですか?」

「はい。話のほうはしているんでしょ?」

「……はい」

「だったら、ねぇ……」

 拍子抜けしたように西誠治は椅子に背中をもたれ、見上げた天井に向かって静かに長い息を吐いた。退屈であった。

 由依の頭の中は、食はただ食べればよいのではないという言葉がぐるぐる回っていた。学校での皆で揃って食べる給食も意味があったのだ。それだけに、赤野美代子が学校という小さな社会で私に怒りをぶつけ、皆の前で恥をかかせた。そして、自分は死を目前にした生き物のようにむせび泣いたのだ。ふつふつと怒りが湧いたが、情けない自分が生まれてきたことを呪った。愛情などと無縁の父も、自分が家にいることが許せず容赦ない。母も認めはしない。心がぎゅうぎゅうに絞られている感覚がする。人に話しても、どんなものか確かではない。目に捉えることのできない不確かな心は誰のものでもなく、ただ宙を浮いているだけなのだ。

「薬が必要ならいつでも来てくださいな。出してあげますから」

 西誠治は冷淡に言った。同情もしない、感情を寄せない。それが医者というものだ。小さく頷いた由依を見て、西誠治はホッとした。これ以上の話はなかったからだ。

「……ありがとうございました」

 子供のように従順でか細い声で、由依は礼を言って頭をさげる。それを見て、

「何かあったら、また来てくださいな」

 と、心にもないことを西誠治は言う。

 由依は診察室を出た。崩れ落ちそうな重い体を引きずった。薬だけを貰い、絶縁状を突き付けられた気になった。そして、人生そのものの終焉を感じた。だが、その先の死への意欲は湧かなかった。なぜかわからない。けだるさしかない。誰もいない孤島に放り出され、薬を持ってそこで生きろと言う。世界中の人間がそう言っているかに思えた。

 夕方、薬は洋間のテーブルの上に置いておいた。和子が帰宅してしばらくし、台所で両親が談笑しているときには、テーブルの上はきれいに片付けられていた。




 日曜の昼過ぎ、電話が鳴った。運よく由依はスーパーに買い物に出ていて、家には和子しかいなかった。電話に出た和子は、少し声を詰まらせながら驚き、赤野さん?と聞き返した。相手は赤野美代子だった。

「久しぶりね」

 赤野美代子は、冷静でありがながらどこか朗らかな声だった。幼友達に偶然出くわしたような声に、和子はうろたえ、しばし黙った。和子は赤野美代子から六月に送られてきた葉書の返事を書いたものの、結局投函はしなかった。毎年そんな調子だった。奇妙で不気味な句を思い出しながら、赤野美代子の夫の自死を思い返したが、それも遠い過去のことで今同情の視線を向ける気もなかった。夫の死の原因がマザコンだったからとわざわざ言いにきた赤野美代子の平然とした態度が目に浮かび、もろともしない精神力は私とはまったく違う別人格だと思った。過去の傷もはねのけてしまっているだろう。たとえあんな句を自分に送ってきても、和子は赤野美代子のメンタルの強さを思うと、何もなく平気なふりをした。

「あら、久しぶり、本当に」

 和子は少しの臆病を見せずにからりと言った。

「何をしてるの?」

 赤野美代子は唐突に言った。和子は内心どきりとしたが、なんだか強気になって、何が?と堂々と聞いた。和子は由依のことではないかと少し動揺した。

「専業主婦なんだっけ?」

 何の屈託もなく、聞いてくる。

「……えぇ、そんなもんよ。学童にパートでいってるけど」

「へぇ、そうなの。私は校長になってから八年になるのよ。校長になる前はアメリカの学校に視察に行ったし、いろんな経験したけど、今はすごく満足してるわ。でも、若い教員たちは私の言うこと聞かないのよねぇ。教育の基本がわかってないっていうか、子供に甘くって、友達感覚っていうのね、全然ダメ。私が一生懸命指導してるんだけど、子供っぽい教員は反発したりして、難しいっていうか。でも、私は校長なんだからね、校長は会社の社長と同じだものね。服従するのが当然なんだわ、たまに頭にくることが多いけど、なんとかかんとかやってるわ」

 赤野美代子は感情を込めずに淡々と口にする。

「あぁ、そうなんだ。赤野さんは校長になるくらいだから、すごいわね、何でも完璧で……」

 和子はお世辞を込めて言う。赤野美代子が自分には到底辿り着けない校長という立場の器を持ち合わせていることに感服し、またこの人ならやりかねないと思った。男より男らしさのあるこの人は特殊でもあり、気の強さは誰にも負けない。龍のごとく天に昇っていくのだ。夫の死など意味のない産物として捨て去っただろう。和子はそんな地位のある相手にたいし、少し距離を置き、緊張した。

「そうかしら。そう、自分でやれることは全部叶えたいと思うし、そんな気持ちがあるからここまできたのかもしれないわね。あなたも私もまだ教員やってたときは、平和だったわね。子供だって従順だったし、躾もしっかりできたし。子供は先生を尊敬してたわよね。そんな時代がよかったわね。とにかく気持ちがよかったわ。子供を前にして教鞭をとるってのはぁ」

 そう言い終わると、赤野美代子はケラケラと声をたてて笑った。和子には何がおかしいのか理解できずにいた。自分は、言うことを聞かない子も多くて教員に向いていないと思うときも多かった。けれども、赤野美代子は違う。由依が言ったように、思うよういかなければ叩いたりしたのだろう。子供たちを怯えさえ、自分に服従するように仕向けていたのだろう。

「ねぇ、どうしてる? あなたの作品」

 急にそんなことを言われ、和子は戸惑った。

「……作品? え、何のこと?」

「作品よ、あなたの、いやねぇ」

「作品って何のこと? 何の作品も作ってないわよ、絵だって何も描いたことないし」

 赤野美代子は突然笑い出した。

「ごまかさないでよ、作品っていったら、由依ちゃんのことじゃないの」

 和子にとっては初耳だった。自分の子供を作品という呼ぶ人がいることに面食らった。しかも、私の子供が作品で、それが由依であると当然のごとく言われ、口籠った。作品でなく、私が育てた一人の人間である由依。由依には心がある。死のうとし、かろうじて生き延びた。大学を辞め、今は精神科医の世話になり、家にいる。赤野美代子の言う和子の作品は、世間に誇れない存在でもあった。

「……えぇ、いいじゃないの。由依は由依で自立して生活してるわ。私は何も心配していないし、あの子に全部任せているから」

 言葉を濁しながら、相手に伝える。赤野美代子は具体的なことを聞いてくるだろう。和子の胸の鼓動は高鳴った。おおっぴらに言えない娘の存在。世間から秘密にしたい。誰にもこの檻の中に住む由依の存在を刺激したくない。そして、自分自身のプライドが傷つくことを避けたかった。引け目しか感じない。ネガティブな材料が揃いすぎると、自分だけを守りたくなる。由依が自ら踏み外したレールにもう戻れない現実を、和子は受け入れたくなかった。

「私はとっても幸せ。子供の頃から、礼子ちゃんは優秀で、勉強も一番、マラソンも一番、書道も立派な賞を毎年とって、何でも一番だったのよ。あなたも知ってるでしょ? 私の子が優秀だって。私にとって礼子ちゃんは誇りでしかなかったの。だって私の作品だもの。私の教えをしっかり守ってくれて、それに一生懸命取り組んで他の子より優れた子になったの。高校も勉強が一番だから校内推薦でA大学にストレートに入ってくれたし、母親思いのいい子でね。純粋に私の言うことを守って頑張ってくれたの。あまりに出来すぎる子だったから、私はすっごく幸せでね、つい自慢したくなっちゃうの、ごめんね。フフフ……」

 赤野美代子は、希望の光を見出したように甲高い声で勢いよく言って笑った。和子は快く思えなかった。赤野美代子の作品は娘で、幼い時に一度会ったことがあったが、そんなふうに育てていったのか。すべてが一番であるなら、さぞかし優秀なのだろう。自慢の娘である。この人のことだから、娘も期待に応えるために必死だったのではないかと頭を過る。けれども、羨ましい。今の由依の姿を見れば、ただ羨ましくてならない。赤野美代子の娘とは違う自分の娘は、人に大きな声で言える存在ではないからだ。

「由依ちゃんは私の娘より二歳年下よね、まだ大学生よね。あなたは変な見栄はって、大学名教えてくれないけど……フフッ、バカにしないから教えてくれたっていいのに」

 赤野美代子は嬉しそうに嫌味っぽく言う。

 和子は閉口した。相手は私から何を聞きたいのだろう。証明できる事実を知りたがっている。的確で世間が頷いて受け入れてくれる証明書でなければならない。自分の口から由依のことを正しく知らせれば、赤野美代子は心から喜ぶに違いない。この人はそういう人だから、人の不幸を喜ぶ人だから……、和子は何も言えなかった。

「やっだわぁ。変に黙っちゃってぇ。あなたと私の作品は全然違うってことよね。川西さんが、私に大きな声で言えないってことはそういうことなんでしょ。作品の違いは母親にあるってことも言えるわね。そう、私は自分の作品に力を注いできたから。あなたは母親業頑張ってきた? 作品が自分に応えてくれないのは頑張ってこなかったってことなのよね。……まぁ、それが今の証明なのね」

 赤野美代子は当然といった具合で話す。

 和子は呆れた顔をしながら、受話器を握りながら、手が微かに震えるのを感じた。なぜ震えるのかわからない。相手への怒りなのか、由依への不満なのかわからない。ただ、赤野美代子への違和感しかない。何か言いたいが、言葉が出ずにいた。

「今度、食事でもしましょうよ。何年会ってないのかしら……わからないけど、話くらいしましょうよ」

 悪びれることもなく、赤野美代子は言う。

「え、……えぇ」

 和子は顔を強張らせ、とりあえず曖昧な返事をする。

「じゃぁ、またね」

 そう言い、赤野美代子は一方的に電話を切った。和子は茫然とした。受話器を持つ手が激しく震えている。なぜかわからず、左手で震える右手をぐっと掴んだ。




         


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