時狭間の章 終幕
蛇足かなと思いつつも後日談です。
風にあたってきます、と漸く言い置けて、渡殿の方へと抜けてきたところ、思わぬところから呼び止められた。
欄干の下を覗き込めば、ポンと水筒が飛んできた。
警護の武士を装っているが、すっかり人生の相方になった青年が腹の立つ笑みを浮かべていた。
とりあえず、水筒の栓を外して中味を口に含んだ。どうやっているのか、たいへん冷えた水で、ほんのりと塩と柚子の風味がして、酒と熱気と人の欲に纏いつかれて、酔いかけた頭が、しゃきっとした。
「似合っているぞ、守どの。」
「ぬかせ。」
鬼市の守として、表の初仕事だ。公家の前に出ておかしくない服装だ。
「なんで、お前じゃないんだ!」
「私はどうやら父似らしいぞ。どこで足を引っ張られるか全く予想もつかないから、混乱要素を持ち込むのは避けるべきだ、とお前も納得したじゃないか。」
「分かっているよ。愚痴だよ。ちくしょう!」
大きな大きなため息を、青年に落としたものだ。
「鬼市ではちゃんと前に出る。悪いな。」
「ああ。頼りにしている。」
広間では今様が始まった。白拍子の舞に入る前の、鈴と笛、鐘の前奏だ。
『春霞たち交りつつ稲荷山越ゆる思ひの人知れぬかな』
「施楽だな。」
「ああ、」
当代一とも言われる歌声にしばし耳を傾けた。
「施楽は、今度この宿を買い取るそうだよ。」
それ自体は特に驚くことでもない。
「少しずつ表に立つのを減らして、後進を育成するそうだ。その傍らで、新しい≪取次ぎ≫を引き受けてもらえるよう交渉中だ。」
「彼女ならば適任だが、」
金だけもらって取次ぎを拒んだという今回の件を受けて、現在の≪取次ぎ≫は一斉に取引停止だ。審査後、継続するか永の別れとするか決めるが、おおよそ半分は入れ替えが必要だと彼らは概算している。
「----あの娘はどうする?」
とりあえずはもとのまま白拍子宿で療養中だ。
彼女には、魅惑の才があった。訓練をしていないから、全く無意識の領域でしかないが。目覚めの次期は恐らくは安芸に引き取られてから。辛い生活が引き金になったのだろうと推察している。
兄弟が彼女の願いのまま都へと旅立たせたのは確かだ。さらに施楽も惹きつけられて引き取った。
「成長期でもあるし、これから強く出てくる可能性も高いが、このまま気持ちが落ち着けば、不意に消えてしまうことも考えられる。とはいえ、現時点では制御を身に付けさせる方向で、鬼市として見守る必要がある。」
何より今回の一連は、彼女のその能力以外は、明らかでないことが多い。
狭間に落ちた彼女の記憶が曖昧になっているためである。
転移の紐を与え禹歩のやり方を教えたのは、そして、彼女が探していた「屋島」の術師があけのの夫だと知らせたのは、----だれか。
黎が術師であることは、宿では知られたことだが、そこから一足飛びに「屋島」の件に結び付けられるはずはない。
なのに、彼女は「屋島」と同様にあけのを標的にして、おびき寄せようと試みた。「屋島」の顛末を知る何者かが、いつどうやってか、彼女に接触したことは確かだ。因みに「屋島」で嘴を突っ込んだ黎の(一応)師は、数年前に鬼籍に入っている。
彼女の記憶の回復次第だが、実際期待はできないと思っており----恐らく、その方が幸せだろう。
「どうしても、あの娘を遣いにしてあけのに届け物をしなくてはならない心地になったのだそうだ。あけのに危険を近づけた自分の不甲斐なさを怒ってはいるが、子どもがしたことだから、と、娘を気味悪がったり疎ましく思ってはいないようだ。で、魅惑の力なんて、うまく使えれば白拍子として最強だとかそろばんも弾いていたから、≪取次ぎ≫として加わるのなら、このまま保護を任せたいと思う。」
「そう、だな----しかし、」
と、欄干の下を見遣って、鬼市の新守はにやにやと笑った。
「ぜんぶ叶えてやるとは、らしくなく優しいじゃないか?」
安芸兄弟を浄化し、現在の兄弟から記憶を抜き、彼女を都に連れ戻った。大盤振る舞いだ。報酬もないのに。
「なにせ、浮かれているんでな。」
からかうつもりだったのに、青年が臆面もなく言い放ち、本当に幸せそうに笑うから、・・・麻生はぴしゃりと己が額を叩いた。
「おまえ、その顔をぜったいに他で見せるなよ?」
「どうした?」
「お前にも魅了の力が十分だという話だ。」
元から(生まれのせいか)人を惹きつける雰囲気を醸し出す青年だが、いまの幸せに満ちた表情は磁場のようだ。
妻から打ち明けられて、じっくり着実にを即日放棄して、危険(とおぼしきこと)は即座に一切排除の方針へと切り替わった。
力押しになった弊害は、今後解決していかなくてはならない----が、そんなことは分かっているだろうから。
「----守どの! 守どのはいずれや!?」
長めの中座が気に喰わない程度に違いない、と思いつつ、「いま参ります」と声を張って応えた。
「じゃあ、明日にでも?」
「ああ、」
ひら、と振られた手に、ひら、と返す。
一応、心配して警護の格好で潜り込んだに過ぎない。本物の警護に行きあたらぬようにと歩き出し、青年は言い忘れたことに気づいた。相方の背は、随分遠くなっている。
「----急ぐ話ではないしな。」
呟いたのは、急いている己が胸の内を落ちつかせるためだ。
喉にささった魚の骨のような、違和感を聞いてほしかった。
能登守の供になった二人を浄化した。そこに、彼らを道ずれにした男はいなかった男はどうしたのだろう----往生した、というのか。
どんな男だったかと思い出そうとしても、たくさんの中のひとり、覚えているだれかの背景のような記憶だ。
さもありなん、彼は正五位下に過ぎない。清盛は従一位、嫡子宗盛も同様、その弟の知盛が従二位。次の三位の中将重衡までか、個人的なやりとりを思い出せるのは。
平家の中では傍流のひとり。されど、『平家物語』こそ知る世の存在感はどうだろう。
「能登守平教経、」
そっと呟いたその名は、出番を待つ刃のようで、ひやりと胸に差し込まれた。
海上には赤旗、赤印投げ捨て、かなぐり捨てたりければ、竜田川の紅葉葉を嵐の吹き散らしたるがごとし。
汀に寄する白波も、薄紅にぞなりにける。
主もなきむなしき舟は、潮に引かれ、風に従つて、いづくをさすともなく揺られ行くこそ悲しけれ。
お読みいただいてありがとうこざいました。
前作と「京洛御伽草子」シリーズも、同じ世界観です。読んでいただけたら嬉しいです。