時狭間の章 7
水音は二つ。
大きな水柱が立った直後に、船尾の方から叫び声がして、もう一つの落水音が続いた。船べりから昏い海面を覗き込んだが、何も見えない。
「くそっ、」
飛び込もうとしたその肩を、後ろから掴まれ留められた。
気配は一切なかった。
「----麻生どのは?」
「二人で留守にはできない。」
武家の被官のような簡素な直垂姿だが、いまは抑える気もない存在感で、この場に君臨している。
「帰るぞ。あけのが心配している。」
「いやいや、」
どうしてその台詞になるのだろう。
「いま見てただろう!?」
「まあおおよそは。」
「ここは彼らを救って、あれを浄化するところじゃないか!?」
「どうして?」
「はあ!?」
「お前を攫って、あけのに心労をかけ、・・・勝手に海に飛び込んだんだろう?」
「それは、でも、」
少年は養い親の顔を見、それから昏い海と蒼白く光る亡霊を見遣る。行くぞ、と差し伸べられた手を睨み、腰の扇を引き抜くと船べりに片足をかけた。
掲げた扇が炎を纏う。
「----早瀬、」
水と焔。相性は悪い。それでも、少年は腕を振り切るようにして、海中へと扇を投げ込んだ。松明を投げ込んだのなら、ジュッと音がしてたちどころに黒くなるが、炎の扇は煌めきながら、海の底へそこへと落ちていく。
朱金の螺旋。まるで糸のようだ。
頬を紅潮させ、汗を流しながら、少年は手元の糸を指先で操る。漁師のように。
じりじりと時が過ぎ、いつしか膝を折って船べりから半身を海に乗り出すようになっていた少年の腕が痙攣するように震えて、指先から朱い糸がするり、と滑り、離れた。
「あ、」
と、絶望の声に、溜息が重なった。水面に落ちる寸前のその糸を、背後から差し込まれた太刀先が絡めてすくい上げた。
「頑固者が。」
青年は、まるで釣り竿を扱うような動作で、太刀を振り上げた。
海中から朱い糸に巻かれて吊り上げられたのは、黒い靄のようなひとかたまり。
「殆ど、堕ちているな。」
此の世と彼の世の境目。此の世の者ならば触れられない、能登守の舟上に彼らは載せられた。
「仕方ない。まとめて、送ってやる。」
太刀が白く輝きだすのに、肩で息をしながらその様子を見ていた少年が慌てて青年を振り仰いだ。
「待って!」
「浄化しろだの止めろだの、どっちなんだ?」
呆れたように何度目かの溜息をついて、それでも青年は場を被保護者へ譲った。
船べりに両腕をついて、少年は何とか立ち上がる。
お構いなしに、入水を繰り返す安芸の兄弟。
黒い靄を纏った彼女は、その靄が綱のように為って縛られた二人の男を重ねて、天邪鬼を踏み付ける護法神の像さながらに足下に置いていた。
「おい!」
黒い靄の下、真っ白な面がこちらを向く。
「そいつら、大っ嫌いなんだろ!? そんなことをしたら、ずっと一緒にいる羽目になるぞ!?」
青年が額を押さえて首を振った。
「こんなところで死ぬことも----生きることもない。」
少年は真っすぐに彼女を見据えて、手を差し出した。
「あんたは宿の他の娘たちと違って笑わないし、ちょっとしか表情を変えなくて、どちらかというと無愛想なヤツだけど、」
青年は養い子の口のききかたに一言あるようだが、割って入ることはしなかった。
「でも、いつも真面目で一生懸命だった。顔には出なくても、態度がそうだった。少なくとも俺はそう見たし、施楽どのもちゃんと見てた。だから、あけのへの遣いがあんただった。同輩の娘たちだって、俺に紹介したり、あんたを受け入れていた! あんたの居場所はちゃんと在る。」
震える手で、何とかもう一本の扇を帯から抜き取った。
「あんたは、俺と違っていらない、と言われたんじゃない。胸を張って、そいつらを捨てて、新しい場所に生こう!」
少年の手から離れた扇は、ふわふわと(あるいは力なく)と海上を渡っていく。薄っすらと朱い光を帯びて、まるで蝶のように見えた。
彼女の視線が、その蝶を追って、揺れ、動く。
「----娘、」
青年の声が渡った。
「妻が感謝していた。」
傾げられた首が訝しさを伝える。
「重い荷をもって遣いにきてくれたこと、話し相手になってくれたこと、舞いを見せてくれたこと----そして、散々躊躇った挙句に自分を攫わなかったこと。優しい娘だと言っていた。」
「あけのがそう言うのに、あっさり引き上げようとしたのかよ、あんた。」
船べりにへたりながら、少年は首を振る。
「結果的に、おまえが攫われることになったわけだが、もしおまえが間に合っていなければ、おそらくそのまま姿を消したに違いない、と。」
「間が悪いやつですみませんね!」
「おまえはやたらに突っ込むな。おまえを狙う輩が起こしたことなら、とうに殺されていた。」
「・・・はい、」
しゅんとなった養い子の頭を、とんとんと触れて、
「私は妻に甘い夫で、二人でこの子を可愛がっている。」
朱い蝶は、彼女の手が届く範囲に舞い始めた。
「だから。」
右手には太刀。環頭のある柄。長さは三尺余り。武士たちの腰の太刀とは違い、反りのない、真っすぐな造りの太刀の刃身は、目映いばかりの白い光を帯び始めた。
「心のままに選ぶと良い。思うままに。」
不名誉な死の挙句、縫い留められた先祖を悼む思いも。
自分たちの苦しみの形代に、弱い彼女を甚振った親族への怨み、報復の意志も。
いつか、見習いではなくなった少年に自分だけの扇を作ってもらって、舞う明日を夢見るのも。
靄が晴れる気配はない。
武士ふたりは、今夜もう幾度目か分からぬ海中へ身を投じられようとし、彼女は踏み付ける足から力を抜かない。
----蝶に、指先が触れた。
それが答えだった。
「然として。」
下から上に走る、雷のような光が夜空に向かってに立った。轟音と突風。そこから、放射状に朝日のように鮮やかな光が海面に拡がって、総てを皓く染め上げた。
神が降りて、舞いをひとさし。そのように、冥府への境が溶け、あちらとこちらが渦を巻いて、収斂していく。
その中で、青白い姿の武士ふたりの拘束は解けた。両脇に抱えられていながら、ずっと見えていなかったきょうだいの顔を見つけて、ふ、と頬を緩めた。
安堵か哀しみか、知る由もない。
刀は振り下ろされる。
光は収斂し、藍色の海が戻ってきた。
「能登守の最期」は、とても格好いい場面だと思っていますが、「いやその道づれはちょっとかわいそう」と、かねて思っていました。