時狭間の章 6
若干の性的なニュアンスがあります。
気をつけてお進みください。
膠着した状況となったが、いさおしを求め、誰かよりも多くの恩賞を求めるのが武士というものだ。
総大将が真っ向勝負を回避したこの敵将を討ち取れば、名が上がり、所領も増えるに違いなかった。取り囲む船のあちこちで、計算が始まっている。
彼らはそんな中の一組だった。
地所は土佐。もともとが平家の勢力下、西国だ。一の谷と屋島での有様を聞いて、取り急ぎ源氏方として参陣したわけだが、もう戦はしまいになりそうで、功に焦っていた。
「どんなに勇猛だといえども、我ら三人がかりであれば敵わぬことはあるまい。」
安芸の郷を治める安芸実康の息子、安芸太郎実光が言った。地元では三十人力と名高く、重い太刀を得意とする。先ほど義経に振るった能登守の剣筋を見て、我が上であると確信していた。
「あれが丈十丈の鬼となったとしても、我らが勝る。」
「そうとも。兄者。我ら三人で、能登守を討ち取って見せようぞ!」
弟の次郎と、兄弟に劣らぬ武勇を持つ郎党は、能登守のいる舟に自分たちの舟を横付けした。気づいているだろうに、能登守はちらともこちらを見ない。払う余地もないコバエが来たとでも言いたげだと、彼らは頭に血を上らせた。
殿上人で、畏れ多くも帝の身内でもある能登守にとって、一地方の地下人など視線を向ける価値もないものだろうが、今からそのもとに下るのだ。下剋上の喜悦を込めて、
「お覚悟!」
兜の錣を傾ける勢いで、太刀を抜いて、三人はうちかかった。それまで動かなかった能登守は、いっさいの予備動作もなく、振り向きざまに、まずはかかってきた安芸の郎党の膝裏に、自分の足をかけるようして体勢を崩させると、そのまま海に蹴り入れた。
能登守は薄く、薄く、笑っている。
それでも、動きは的確だ。切り上げる刀で安芸太郎の首に一太刀入れた。呻いて前かがみになったところの腕を左の脇に挟み、返す刀で同様に次郎の肩に斬りつけ、こちらは右の脇に挟んだ。
ぐ、と肘を締めて、兄弟ふたりを引きずって船端に寄る。
「射れ! 早く射殺せ!」
と、どこかの舟でだれかが叫んでいる。
しかし、もう能登守を留めるものは、ない。
地獄の底を見下ろす獄卒のように、迷いがない。
「いざ、おのれら、おれの死出の供となれ!!」
と、武士二人を抱えて、船端を蹴った。
平清盛の異母弟教盛の次男。『平家物語』に数々の武勇伝を記された教経は、この時に消息を途絶えさせる。二十六歳であった。
幻視から少年は静かに還ってきた。血統のせいか、義経にかなり引きずられたが、良い土産話になったから、よしとしよう。
「----彼らか、」
舟の舳先に建つ彼女が、振り向く。
昏い波間を青白い舟が浮かんでいる。いま見てきた光景が、その舟で繰り返されている。
大きな影の左と右に抱えられて、船べりから海へと身を投げる----道ずれに海底に引き込まれる。断末魔の声が波間に消える。
それは一度ではない。繰り返し。繰り返し。
沈み、消え、また船端に戻る。
「----血の池地獄とはこういうものか?」
浮かんで、獄卒の槍に沈められる無限の苦しみのよう。
「このお二方を解き放ちたい。けれど、壇ノ浦の闇は幾重にも絡み合いすぎて、生半可な拝み屋では到底叶えられない。」
「・・ああ、」
「母の嫁ぎ先、あたしの生家は屋島に近くて。舟から身を投げ続けて、海面を彷徨う女房の亡霊は有名だった。それが、パタリと止んだ。京から招聘された術師が払ったのだと聞いた。」
「----ああ、」
「京の、という他には、若い男が二人でうら若い娘が共にいたのを見た、という証言程度。それでも、近隣の呪い師が、それほどの力がある者なら、都なら鬼市を訪ねてみるのがいい、と助言をくれた。」
「父と叔父は、ただ武士として立派に戦った。その結果、討ち死には仕方ない。」
よろよろと屋形から出てきた安芸の現当主が口を差し挟んできた。
「命を惜しまず挑み、散った。立派な最期のはず。なのに。父らの名を聞くと、«ああ、あの、能登守に首根っこをひっつかまれて重石代わりにされた?»と半笑いで返される。怯懦の誹りだ。」
「当時、彼らの姉だったあたしの祖母は、面目を失った家の女は要らぬと幼い娘ともども離縁されて、安芸に戻された。あたしの母も、嫁ぎ先であの安芸の、と嘲られて体と心を壊して帰らぬ人になった。後妻になる女は、臆病者の血を継ぐ姉がいると自分の子どもたちが肩身が狭くなると言い張って、父にあたしを追い出させた。」
「平曲は----平曲だけなら、まだいい。父と叔父が武士として挑み、しかし、能登守の武勇にかなわず、謡われようによっては、その武を能登守が認めて供にしたと思うこともできる。」
「----あたしたちはずっと誹られる。」
絶望の、恐怖の絶叫を迸らせていることが明らかな形相で、彼らは海に落ち続けている。
「----怖かったろうな。」
ぽつりと少年は言った。開けっ広げで人懐こい、宿で見せる顔には浮かばぬ、いのちの瀬戸際を知っているような老成さえ感じさせる表情であった。
「無念で、苦しくて、諦めきれない----認められない、死というものが、壇ノ浦には溢れている。」
少し目を動かしただけで、青白い炎が海面を漂っている。これも、ただのその一つ。
屋島の女房も、この兄妹も、何とか解き放ってやりたいと願う人たちがいるだけ、いい、だろう。
「地所も、作物に虫がわいたり、土砂崩れや川の氾濫も続いて、すっかり呪われた一族扱いだ。縁どころか取引相手にも事欠く。このまま行けば、どうせじり貧になり夜逃げするばかりだ。この娘の、提案に乗ってみることにした。しかし、無駄足になった。弟がとぼしい伝手をなんとか伝って、鬼市に取次ぎを頼めるところまではいったが、いまは新規は受け付けていないとけんもほろろに断られ----そこまでかけた金は無駄になった。」
巡り合わせの悪さだな、と少年は聞こえないように呟いていた。
これも、この一族の運の悪さ、なのかも知れない。
「帰りの路銀まで失って、その娘をはした金で売るはめになるとは。」
やや同情に傾きかけていたのだが、吐き捨てるような現当主の台詞に、少年は再び鋭い目を向けた。
「やはり早く売っておけば良かったのだ。そうであれば、少しは家の役に立ったというのに。帰りの路銀ぶんなど、買い叩かれおって。あの阿呆。」
弟に苛立ちを向け、
「ようやく、例の術師たちに繋がる女を見つけたというから、なけなしの銭をかき集めてこの舟を用意したというのに、連れてきたのは女ではなく、ガキひとり。それでも囮にはなるというから海に投げ込まずにいたというのに、さあ、いつ役に立つというのだ!? お前は本当に何の役にも立たない! ごく潰しめ!!」
酷い罵りの言葉を、柳に吹く風のように聞いている。彼女にとって特に珍しいことではなく----彼女の表情が動かない理由をくみ取って、少年は怒りの声を上げようとしたが、その前に、彼女が一歩前に、当主の方に進んだのだ。
「御当主様。あたしを引き取って下さった恩は忘れていません。」
「いい心がけだ。」
「衣服はそのあたりから着古しをもらってきていただいて、朝から晩まで、家事から農作業まで、働かせてくださって、三郎さまと小五郎さまの残した食事を片付けながらいただきました。その方が高く売れるから、という理由で夜這いだけはありませんでしたけど、」
虚ろに頬を歪めたところから、何となく察して、少年は更に苛立つ。
「----お礼をしたいと、ずっと思っていた。」
彼女は当主の前にたち、そうっとその胸へとしなだれかかった。
「だれも安芸を笑うことがないようにしたい、と。」
「お、おう。」
鼻の下を伸ばす当主を、間近に見上げて、彼女ははっきりと笑ったのだ。
「それはつまり、」
「? っ! よせっっ!!」
「安芸が無くなればいい!」
少年の制止と、彼女が渾身の力で当主を突き飛ばしたのは同時。海上へと浮いた体に飛びつくようにして腕を絡めたのは重石となるということか、海中へと転落した。