時狭間の章 5
安芸氏は架空です。
「神ならば」
誰かが歌っている。
「ゆららさららと降りたまへ」
その向こう、遠く近く繰り返される懐かしい音。何の音かとぼんやりと思う。
「いかなる神か」
聴覚の次に戻ってきたのは嗅覚。磯の香だと気づいた瞬間に、急速に意識は回復した。
「物恥はする、」
物憂げな声に、首を巡らした。
「----気づいたの?」
案の定、両腕はうしろで拘束されて、床に転がされていた。思いがけなかったのは、傍らに彼女が膝を抱えて座っていたことだ。
宙を見ながら、今様を口ずさんでいた彼女の視線が下ろされる。
頬を腫らしたその顔に、飛び出すはずだった罵声は、空気になった。
「----誰にやられた?」
「ああ、気にしないで。」
よくあることというように、肩を竦めた。
「あたしが悪いの。」
「おまえが使い物にならなかったら、頬を張るくらいでは済まさぬ。」
別の声が割って入った。気配は分かったいたから、少年はただ言葉を聞いた。何とか首を回そうとしたが、足首も縛られているから、どうにも上手くいかない。
「首を痛めそうだ。体を起こしてもいいか?」
「----ああ、手を貸してや・・・ッ!?」
確かに腕と足を拘束していたはずなのに、気がついた時には、少年は目の前にいて、男の喉元に開いた扇を突き付けていた。床には燃え落ちた縄があった。
「俺は早瀬という。京で扇師の見習いをしている。あんたは彼女の身内か?」
扇師の見習いとは思えぬ圧だった。突き付けられているのは、炎を纏った----炎の形の扇だが、燃え落ちる気配も臭いもしない。男にはまったく見えていなかったが、彼女は両手足を縛っていた縄が一瞬で燃え落ち、腰に差していた(武装ではなかったので)扇は、少年が引き抜き開いた瞬間に、炎を帯びるのを見た。
「安芸三郎実行----だ。その娘の母と、いとこになる。」
「彼女を白拍子宿に売ったのはあんた?」
「・・弟だ。」
「年端もいかない血縁の娘を路銀の足しに売って、そこで頑張っている娘にあやしい技の片棒を担がせるとは、腐り果てているな。」
手首に通された紐には、転移の術が織り込まれていた。舞で位置を描き、紐を対象者に持たせることで起動した。
「小僧が。」
炎は燃え盛っているが、熱くはない。見掛け倒しの手妻と決めつけて、男は少年を睨んだ。
「お前でも囮になるに違いないというから、海に投げ込まずにいてやったというのに。」
手首を捕らえて、引き倒してやろうと思ったのに、まるで蛇に睨まれた蛙のように、その体は動かなかった。
「へぇ。本命はあけので、狙いは・・か、」
少年は扇を喉元深くに近づけた。肌が焼ける音と匂い。そして、刃物を当てられたような切れ味の感触に、男は目と口を大きく開けた。恐怖だ。
「このままねじ込んで、燃やしてやろう。阿呆が。」
「待って!」
彼女の声に、少年は視線を流した。
「燃やすなら、あたしを。」
「あんたは、こいつに命じられたんだろう?」
「いいえ。あたしが、御当主さまにお願いしました。」
彼女は膝を揃えて座り、額を床につけるほど、深々と礼をした。
「そ、そうとも! その娘が、持ちかけた----、」
「うるさい、」
扇の要を、男の鳩尾に叩き込んで、気絶させるという、あり得ない力技を見せた少年は、崩れ落ちた体の向こうの彼女を見据えた。
「----話せ」
壁の向こうでは潮騒が誘うように、闇の気配が濃くなっていた。
立つように促された彼女は、そのまま少年を室外に誘った。
この場所は屋形船であった。気を失った男を置いて、二人は夜の中に出てきた。
穏やかなさざ波が船端を叩く。
「ここは?」
「壇ノ浦。」
「・・へぇ、」
目を瞠った少年は、興味深そうにただ昏い海を見渡した。
「ここが!」
「ええ。ここが、」
彼女は凪いだ海に視線を飛ばし、ゆるゆると少年に戻した。唇の端を少し上げた。
「最も、不名誉な死に方をした武士って誰だと思う?」
陸の方だろう。遠くから読経が聞こえる。
「不名誉?」
「そう、」
「---木曽義仲?」
やや考えて、その名を挙げたが、
「壇ノ浦で。」
と、条件を確認された。暫く考え込んでいたが、
「・・・総大将なのに、入水しても死ねずに拾い上げられ、鎌倉に連行された平宗盛は不名誉だと思う。」
「----内大臣も、新中納言も、能登守も、とても有名。安徳の帝、二位尼、建礼門院。」
彼女は、船頭に向かって手を振った。船が静かに進み始めた。
「ここでは、たくさん死んだ。平家も源家も。武士だけではなく、身の回りに召し使われる者たちも、女も、子どもも。」
口の端がまた上がる。今度ははっきり微笑みと判った。試し、あるいは挑戦のごとく。
「、どうぞ見てくださいな?」
----目が、眩んだ。
「御曹司!」
叫んだのは伊勢三郎だ。
「----あれを!」
赤池の錦の直垂に唐綾縅の鎧。四方に矢を放ち、太刀を抜き、白木の柄の大長刀の鞘をはずすと、左右の手に持って、出会う敵を次々に横ざまになで切っている。
「ありゃあ、だれだ?」
二十半ばの男。
「能登守だそうです!」
「清盛の甥か」
つまり平家の公達----にはみえない。
「一の谷で戦死したとも聞いたが、----壮健のようだ」
皮肉気な物言いになるのは、その凄まじい戦ぶりを見せつけられているからだ。
次々に、源氏の武士を切り捨てていく。鬼神が降臨したかと思うような血なまぐさい様子だ。突然、呵々と笑う声がして、あたりに聞かせる大音声で男は言い放った。
「新中納言(平知盛)は良いことを言う。なるほど、雑兵を幾ら斬っても今更おれの誉にはなるまいよ。」
太刀、長刀の柄を短めに持って、恐らく凄絶な笑みを刷いた。
「----源九郎義経!! 源氏の大将はどこにある!」
叫んでひらりと源氏の舟に乗り移った。
面識がないから、武具の立派な武者に目印に、舟から舟へ。
「----武士だな。」
「まことに。」
能登守の勢いに、周辺の小舟はあっという間に混乱状態だ。目立つ鎧兜の武士は次々に挑まれて、違うと判断されると、ポイと海に投げ捨てられる。重い鎧を着た主が沈まぬように、郎党は救助に奔走することになるから、戦どころではない。
「御曹司、」
その呼びかけは、どう迎え撃ちますかということだったが、義経はあっさり首を横に振った。
「端から命を捨てている、最後の花道を行くことしか考えていない、手負いのけものの相手などしていられるか。」
武士としては、甚だしく異質の台詞を言い放った。
「おれが欲しいのは、源氏の勝利。おれ個人の勲はそこについて来ればいい。」
一の谷も屋島も、終わってみれば、機転や勇気を讃えられるが、求めたのはただ勝利だ。
「----が、このまま放置するのは士気も下がるし、せっかくの潮目を不意にしそうだ。」
一の谷の急峻を見下ろしたときのような目をした。
「諦めてもらおうじゃないか。」
と、どこか悪戯っぽい笑いを浮かべる。
思いつきに見えて、彼はいつでも計算している。計って、準備して、奇策を練り上げる。
義経は周辺の舟へと伝令を出した。それから、なぎなたと大兜は預けて、小太刀のみを携えた。傍らの伊勢三郎に頷く。
「怯むな! 敵はただ一人ぞ! 押し包んで捕らえよ!」
その音声に、能登守も振り向いた。赤糸縅の大鎧は平泉の御館からの餞の品で、華やかな平家の公達たちの鎧にも劣らぬ逸品だ。能登守にもそれが分かったろう。その時、捕らえていた武士を海の中に突き落とし、獲物を見出した猟犬のごとく、船の上を走りだした。平家の、部屋を浮かべたような御座船や、盾を備えた大型の戦船ならともかく、なれないは立つにも苦労する喫水の浅い舟だというのに。能登守は軍装を半ば解いて身を軽くしているとはいえ、全く体幹がぶれない。別の船に迷いなく飛び移り、距離を驚くほどの早さで詰めてくる。
「これはまことに、」
感心というより、驚愕の呟きだ。
清盛が権力を握って後に育った世代の一人だ。騎射武芸より、書と和歌と楽を嗜むことをよしとしていった一族に、こんな猛将が牙を隠していたのかと。
ほぼ同年代のふたりだ。
絶世の美女といわれた母を持つ義経は顔立ちこそ悪くないが、幼少期の栄養不足もあって、小柄で痩躯。対して、能登守は長身に筋肉が形よくのっている。
そこには明らかな腕っぷしの差がある。
能登守は太刀を、義経は小太刀を互いに向けた。
「覚悟!」
剣圧が重い。その太刀を義経は受けなかった。身を躱し、小太刀を手に、その横をすり抜けた。
ひらり。別の舟に飛び移る。
「おのれ!」
当然、能登守も追って跳ぶ。能登守の跳びもそのあたりの武士には真似できないものだが、義経は次の舟へ、そしてその次へと、ひらりひらりと舞人の袖が翻るがごとき軽さで、鳥が羽ばたくように渡っていく。
因幡の白兎(鎧は赤だが)のような軽やかさで、白兎は最後に鮫に逆襲される失態を犯したが、義経はあっという間に見えなくなった。
「----なるほど、」
ぞっとするような声だった。
「我のような一部将では、総大将の一騎打ちの相手にはならないか。」
新中納言を呼ぶべきであったかと、あざ笑ったのは、逃げた相手か逃げられた己か。ぎり、と歯を鳴らして、そして周囲を睥睨した。
太刀と長刀を海に投げ入れた。続いて、かぶとを脱ぎ捨てる。解けた髪はそのままに、鎧の草摺も外し、胴ばかりを身につけた姿となった。
気でも触れたかと取り囲んだ一同は思ったが、にやりと笑ったその顔は落ち着き払っており、ぎらぎらとこちらを見据えていた。
もう見えない義経にさえ届けとばかりの大音声で、
「我と思う者は、さあ、我に組んで生け捕りにせよ。 おばあ様の温情を仇で返した頼朝めに、一言申してやろう! さあ、我を捕らえて、鎌倉へと連れていけ!」
「壇ノ浦」を書くことになるとは^^;




