時狭間の章 4
「・・演目が嫌いなんです。」
少年の問いは談笑の隙をくぐった。静まった一同に戸惑ったように彼女は眉を顰めて、ぽつりと応えた。
戸惑ったように顔を見合わせた娘たちは、少しずつ表情を溶かして、くすくすと笑いが広がる。
「恰好いいじゃない、能登守さま。」
「平家の方々は、とても雅やかだったと、厨のはばさまが言っていたよ。」
「特に麗しかったのは、本三位中将様だったと、姐さまの姐さまが言っていたと聞いたことがあるわ。」
平家が滅んで二十年以上が過ぎているが、
「逃げ回る判官を、ぜひ捕まえて切り捨てて欲しかったわ。」
「ええ、怖がって逃げ回るなんて、」
「所詮は、奇襲や夜討ちでしか勝てないと自ら証立てているようなもの。」
娘たちが口々に言うのは、自身の思いではなく、受け売りに過ぎないが、都の人々は事あるごとに平家の人々と----彼らがいた時代を懐かしむ。彼らと共に在った世代は無論、話を聞いた次世代も。
それに同意しないということは、
「あなたのおうちは、源氏の側だったのかしら?」
「はい。」
彼女はあっさりと頷いた。京人の心情的はともかく、いまの世では平家方でなく源氏方であると公言するほうがたやすい。
「でも、能登守さまには判官さまこそ連れて行っていただきたかった。」
淡々と彼女は言い、薄い微笑みを口元に浮かべた。無表情で口数の少ない彼女の、それは冗談だと取って、みな、目を瞠って笑った。
「まあ、こんなにたくさん。」
包みを開いた女性は、にこにこ笑っている。
宿で見かける時は、小袖に湯巻という動きやすい姿だが、いまは品のいい袿を羽織って畳の上に脇息にもたれて座る姿は、大家の奥方でしかない。
実際、住居は、彼女が思っていたような長屋の少し大きめな一角ではなく、小路の奥まった位置ではあるが塀に囲まれ、門を備えた邸宅であった。
「まあ、羹がいろいろ。まあ、柑子も。こっちは・・蘇? 」
今日、彼女は施楽からの使いで、風呂敷いっぱいの差し入れを運んできたのだ。
「----良い匂い、」
葉のついたままの柑子を顔に寄せて、女性は微笑んだ。
「まあ、このイチジクの干したものは、」
吃驚したように言うから、
「・・お嫌いでしたか?」
「大好き。----もう!! 施楽ったら。」
幸せそうに笑う顔に、つい見惚れた。十以上は年上だが可愛らしい、と思った。宿の仕事はしているが、白拍子たちのように戦いにでることはない、大事に守られている奥様だ。
----母とは違う。
右袖の中に入れていた左の掌をきゅっと握りしめた。
「精が付きそうなものばかり。ありがとうと伝えてね。」
「はい。」
「食べなくちゃと思うんだけれど、煮炊きのにおいがきつくて、」
「お風邪ですか?」
何気に問えば、目が泳いだ。
「----悪阻なの。」
何故かばつが悪そうに女性は打ち明けた。
「え、」
「施楽には気づかれたけれど、・・・主人にも息子にもまだ内緒なの。あなたもお願いね?」
少年は養い子だ。女性にとって、夫との初子のはず。
「内緒って、」
「----もっと心配させてしまうから、」
ただ身の安全だけでも、かなりの気の遣われようなのに。
「いつもは、季節で庭師を入れているくらいなの。」
縁に控えている使用人を見遣って、女性は肩を竦めた。
「お仕事が、やや面倒になっているらしくて。誰か付けておきたいと言ってきかないから。」
「・・早瀬は?」
「あの子も最近は駆り出されているわ。当人は嬉しそうだけれど、これも、まだ早いと苦虫を潰していて、」
会ったことのないこの屋敷の主人は、なかなか家族思いらしいということは伝わった。たいそうな麗人というから、無機質で淡白な印象を勝手に持っていた。
「無事に終わったら嬉しさも倍々ということで、」
面倒ごとが何かさっぱりだが、妻の身に心を砕いている夫なら、知っていた方が身も入るのではなかろうかと思ったが、親しいわけでもない家庭のことだ。素直に頷くことにした。
「わかりました。」
「ありがとう。」
まだ目立たない腹に触れながら、女性は笑いかけてきた。
「すぐに戻らなくてはだめなの?」
「いいえ、特には。」
今日は施楽に宴が入っていない。
「じゃあ、ちょっとお話し相手になってくれない?」
「わ、あたしがですか?」
「葛湯を運ばせるわ。嫌い?」
「いいえ!」
つい本音が溢れた。
甘いそれは、ほんのちょっとだけ飲んだことがあるが、忘れられないものだ。
「では飲んでいって? そして、お話を聞かせて? 生国とか旅のこととか。あなたは西から----四国の出だと聞いたの。 私は殆ど京洛からでたことがないの。」
「お生まれも京で?」
「いいえ。ずーっと北。でも小さくて、途中のことは何も覚えていないから。」
「早瀬は、海の近くで生まれたと言っていましたけど、」
「あの子、そんな話をしたのね。」
仲良しね、とふふと笑う。
「いえ、ただの話の流れです。」
「そぉ? 私はぐるっと山で囲まれた平野の、大河を見晴らす丘の上で暮らしていたわ。」
「海はご存じ、ない?」
「一度だけ、屋島の海を見たわ。夜は、何もかも飲み込んでいくような深い色で、朝は、すべてを弾いてくらきらしていた。においと、音が独特ね。寄せては返して、ザブーンザブーンと何もないところから、ふ、と頭をもたげて、やってきては、砂の上で砕ける。」
「屋島、」
「ええ、御存知よね?」
「はい。・・・よく。」
葛湯が運ばれてきた。
ほのかな甘い匂いがするそれをゆっくり口に含んだ。宿で特別だよ、と出されたものより、ずっと香りが立って、味も深い。詳しくはないからこそ、いいものだ、と判った。
「----あの、」
なんで、宿の仕事しているのだろう? 仕事、しなくても、十分な屋敷と生活基準は高い。早瀬も、扇師見習いと言っているけれど、普通、見習いなら、彼女たちのように住み込んで下働きしながらだ。
優しい夫と、養い子でも闊達な息子がいて、これから赤ちゃんが生まれてくる。きっと、その赤子は愛情を浴びて、罵られることも折檻されることも食事のないひもじさも感じることはなく、温かい眼差ししか知らないで育つのだ。
いいな、と胸奥で囁いたのはだれ? ちりちりと、燃え広がっていく。
羨ましい、なんて今まで考えたこともなかったのに----考えようとしなかったのに。
「----帰ります」
「もう?」
「舞の、練習をしたくなって。」
「そう、」
名残惜しそうに吐息をつくから、
「・・・あの、」
唇を湿らせて、迷いを断ち切った。
「良ければ。あたしの舞を、見てはいただけませんか? まだ始めたばかりで、ぜんぜん上手くないけれど。・・・人前で踊るのに慣れろとも言われてて。たくさん、見てらっしゃいますよね? だから。」
突然の申し出だったが、宿に出入りしていて、白拍子を幾人も見てきた女性が断るわけはないと確信していた。
白拍子の舞には、笛や鍾等の楽器も用いられるが、それは上達して後の話だ。優れた白拍子は即興で謡い舞うというが、見習いに入ったばかりの彼女は、既存の歌を幾つか覚えて、振りつけられたままにまず踊れなくてはならない。
----実のところ、まだ歌いながら舞う、ということが難しい。
「舞へ舞へ蝸牛」
彼女はまず歌い、
「舞はぬものならば」
それから、覚えた通りに舞う。
「馬の子や牛の子に蹴ゑさせてん」
この拙い舞いを、女性はとても真摯な眼差しで見つめてくれている。
「踏み破らせてん」
とても有名な一節だから、女性の唇も歌詞を刻む。
「真に愛しく舞うたらば」
「----あけの!!」
坪から、少年が駆け上がってきた。
「なにが!?」
血相を変えて室内を見渡し、扇を手に待っている彼女を見て、眉を寄せたのは一瞬。緊張を漲らせると、養母を背に庇うように、彼女の前に立ちはだかった。
「あんた、何を・・!?」
「華の園まて遊ばせん」
扇を閃かす。もどきでも、禹歩は正確に踏んだ。
「・・残念、」
女性には手が届かない。
扇から手を放す。ひらり、と舞い落ちるそれを少年の視線が追った一瞬、開いた逆の手の中に合った組紐で作った輪を、捕まえようとこちらに伸びてきていた少年の手首に通していた。
「ごめん、」
こんな時なのに出た声は平坦で、それが自分でもおかしいのに、表情はぴくりとも動かない。泣きそうな感じと思うのに、涙が出てくる気配もない。
腸がねじれるような強烈な不快感と、夢の中で落ちるあの感覚。
少年の顔は見ていなかった。
自分と、少年の名を交互に、必死の形相で呼ぶ女性の顔が見えて、
興奮はお腹に悪いのに-。
---ごめんなさい、を言う資格はない。