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4.未来へ伸ばす手


「真由」


声が聞こえた。


自身が手を離し、背を向けた誰か。

傷つくのが怖くて、その手を離してしまった誰か。


「そんなんで、人生楽しいの?もっと、楽しまないと」


本当に不思議そうに聞くから、ただ、あいまいに頷くしかなかった。

本気で理解できない彼女に、当たり前に人生は楽しむものだと信じている彼女に、真由のこの苦しみをわかってもらえるとは思えなかった。色々な過去が積もり積もって出来た真由という人間は、酷く歪で不完全で、見苦しい。自分自身ですら直視することを避けて向き合えずにいるのに、それを他人に見せることはなおさら出来ない。そうやって結局大事な人にすら、自分の本当の言葉を話せず、見せず、勝手に抱える孤独によって人を遠ざける。


―――ああ、本当に馬鹿だ。


ぼんやりと目を開けたら、柔らかだったはずの日差しがいつの間にかカーテンの隙間から強く差し込んでいた。室内に差し込むその光の筋に、朝方に一度覚醒してから、ずいぶん時間が経っている事を知る。


仕事を辞めてから、意識的に変えないようにしていた生活習慣がここ最近、乱れに乱れている。


目が覚めるのは早い時間帯なのに、そこから身体を起き上がらせるのは困難で、そのまま起きているようなうたた寝しているような中途半端な状態で数時間を過ごしてしまう。ようやく布団から起き上がれるようになるのは、もう昼近い。仕事していた時も、最期の方は特に似たような状態になっていた。あの頃は仕事の時間が迫れば起きたくないなど言っていられないから、無理矢理布団から身体を引き剥がしていたが、仕事がなければその気力すらなくなる。毎日が、怖い。起きたくなくて、一日を始めたくなくて、そうして布団の中から動けなくなる。


会社に行きたくない。

以前はそう思っていた。


今は、縛られるものがないのに、どうしてこんなに辛いのだろう。

自分の必要とされない世界を始めるのは、酷く気が重い。


食事も以前は一日三食食べていたのが、朝を抜いて一食になり、昼も食べる気になれず現在は一食。

お腹はたしかに空いているのに、食欲がわかない。食べる気になれない。

仕事に忙殺されていた頃にあんなに渇望していた自由が、今は真由を苦しめる。時間があればやりたいと思っていたあれこれも、将来の見えない不安に押しつぶされた今となっては全く楽しめもせず、手をつける気にもならなかった。望んだものが手に入ったはずの世界は、なんてままならないのだろう。

そうしてまた必要とされたくて社会に戻って、仕事に忙殺されるだけの日々に自分の人生が削られていくと思うと、本当に何のために生きているのだろうと泣きたくなってくる。

真っ黒な思考に押しつぶされて、楽な方へと逃げたくなる。何もしたくない。何も考えたくない。消えてなくなってしまいたい。グルグルと渦巻く不安を、これ以上一人で抱えておく事は難しかった。


―――もっと、楽しまないと。

そう言った彼女のその言葉の意味を、今になってようやく知った。

皆、笑うために生きているのだ。

生きる事だけで必死だった真由には気付けなかったこと。知らなかったこと。

きっと仕事しているときは、どんなに忙しくてもどんなに辛くても、たとえ愛想笑いでも少なからず多少は笑って生きていただろう。だから気付かなかった。

仕事がなくなって外に出なくなり、誰にも会わず、笑うことが全くない毎日になって初めて人は笑わないと生きていけないのだと知った。心が、本当に壊れてしまう。

だから笑って生きるために、人は人と関わり続けるのだ。その、努力を続けていくのだ。

真由が、ずっとないがしろにして、逃げていたこと。


頭に過った友人の姿に、真由はスマホを手に取った。


夢の中で、久しぶりに声を聞いた。大好きだった真由の友達。元気で、ひょうきんで、人を笑わせる事が好きで、いつも周囲を笑顔にしていた真由の大事な友人。

高校の頃、真由の過去を誰も知らない所に行きたくて、地元から離れた場所に進学した。

それまでの暗く陰気な真由を知る人はいない。そんな場所で一からやり直そうとした高校生活は、当然のことながら甘くはなかった。元々の性質が変わってないのだ。あっという間に友達作りの和に乗り遅れて、あっさり独り者の高校デビュー。


ただ一人、机に座るだけの日々。周囲に馴染めなくて、空気になりたいと、誰の記憶にも残りたくないと本気で願っていたそんな真由に、声をかけてくれたのが彼女だった。


喋るのが苦手な真由を、それでもなんら他の子と変わらず接してくれる彼女の存在が、真由を真っ暗な部屋の中から引っ張り出してくれた。それは、毎日開かないドアの前で、声をかけ続けることに近かっただろう。中に本当に人がいるのかもわからない、真っ暗で静かな部屋。その部屋に向かって、声をかけ、笑って、隔てられていてなお、まるで本当の真由が見えているかのように接してくれる。真由の外に出せない感情を、何の疑問もなく在ると信じてくれる。

だから、真由は暗い部屋から外を覗けた。反応を返せた。周りと同じように接してくれた彼女の対応が、真由も自分を普通だと思っていいのだと、そう、自信をくれたから。

そこで見た景色が、どれほど美しかったのか。そこから見えた世界が、どれほど輝いて見えたのか。当たり前に真由の手を取ってくれるその掌の暖かさに、どれほど心が救われたかわからない。

だけど、そんな彼女にすら、真由は本当の言葉を伝える事が出来なかった。


「…助けて」

スマホに打ち込んだ、たった3文字の言葉。


それすら、言えない。嫌われないように、離れていかないように。そうやって相手の顔色を見ることが当たり前になりすぎていた真由は、結局彼女のことを何も見ていなかったし、何も自分の本当の言葉を伝えていなかった。そのことに気付いて立ち止まった彼女に向き合えなくて、そうして真由が手を離した。


助けて。


今の、真由に必要な言葉。


この言葉を言える勇気が、伝える勇気が、何よりも今の真由に必要なもの。ずっと今まで逃げてきた。


向き合う事から、直視する事から、傷つく事から。何も言わなければ、なにもしなければ、何もなければ、変わらない毎日が続き、傷つく事はなかったから。

ずっと自分の性格を言い訳にして逃げてきた、だれかと本当の意味で向き合い、信じて、言葉を伝える事。

今更だと思う。ずるいと思う。でも、今こそ変わる為に、その勇気を出さないとと、そう思う。


声を大にして、叫ばないといけない。


助けて。気付いて。私はここにいる。


私は空気なんかじゃない。私は生きてここに居る。


ずっと胸の中に在った、口に出来なった言葉達の墓場。真由の口から出る事が出来ずに、さりとて消える事も出来ずに、降り積もって、バラバラになって、次々と胸の奥に溜まり続けてきた、形にならなかった真由の感情の欠片達。ここに居る。ここに在る。もう、抱え込めない。


―――助けて。


真由を、扉の外へと出してくれた彼女。

真由の弱さから、遠ざけてしまった彼女。

都合が良すぎると、怒るかもしれない。もう二度と会いたくないと、言われるかもしれない。


それでも、最後でもいい。


最後でも良いから、真由の言葉を聞いて欲しいと思った。


そうして真由は、初めて自分の言葉を伝えるために、スマホの送信ボタンを押した。

何も変わらないかもしれない。何も変われないかもしれない。


それでもこれは、真由がようやく踏み出した大きな一歩だと、そう信じて。

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