3.過去の発掘/だんまり
居場所を間違えると自分にも周りにも大惨事になる。
理解しているから、踏み出せない。
わかっているのに、逃げ出せない。
喋れない・動けない・頭が真っ白になる。
この三拍子は、どうにも真由の学校生活を難しいものにした。
緊張や焦燥から来る動揺は、一瞬で不安を膨れ上がらせ、ますますまともな思考を阻害する。そうしてそれは、苦手な人前で発言をする、という状況に追い込まれた際によく発現した。
ただでさえ苦手意識のある発話しなければならないシチュエーション、周囲の子達は難なくこなしていくことへの焦燥。それに劣等感や失敗することへの恐怖と重なれば、爆発的に不安は高まり、あっという間に頭は真っ白になって言うべき言葉を見失う。そうなったらもう、何か言葉を絞り出すのは不可能だった。出来るのは、どうすることも出来ずに黙って立ちすくみ、その状況から解放されるまで耐えることのみ。
身じろぎ一つ、恐ろしくなる。
一度失敗すれば、もう次からは同じシチュエーションになるだけで頭が真っ白になった。何度も何度も失敗の歴史は強化され、最終的には人前で話さなければならないと言うだけで逃げ出したくて仕方なかった。
しかし学生生活というものは、基本的に苦手なシチュエーションの宝庫である。
授業中の発表はもちろん、グループを組んでのディスカッション、最も嫌だったのは卒業式に全校生徒と保護者の前で名前を呼ばれ、たった一言「はい」と返事するだけの、あの一瞬だ。
あの瞬間の為に、真由は本気で卒業式が無くなれば良いと願っていた。
もちろん叶うことはなく、蚊の鳴くような声で返事を絞り出したが。
ああいった状況では、緊張のあまり、発声の仕方すらわからなくなってしまう。どうやって喉から空気を出し、「は」の音に変えるのだったか。どうやってどもらずに音を通すのだったか。当たり前のことが不安になってわからなくなり、結果喉に言葉が詰まってしまう。
それ以外でも、人と人とのコミュニケーションが必要な以上、人前で発言するという事態は学校では往々にして発生した。
中学で入部した運動部では、周りとの関わりで軽減されていた完全なだんまりを発露させてしまう事態があった。
帰宅部、もしくは入っても文化部のつもりだった真由にとって、そもそもこの運動部への入部自体が最初から大きな間違いだったのだが、たまたま放課後教室に残っていたら、新入生の勧誘に来た先輩達に体験入部に誘われ、断れもせずついて行ったらいつの間にかそのまま入部は決定事項となっていた。
そんな状態で入部したものだから、根っからのスポ根体質だったその部活動との相性は非常に悪かった。
すぐに辞めたら良かったものの、辞めていく子達に対する陰口や非難を聞く度、これが自分に向けられると考えれば動けなかった。嫌われたり陰口を叩かれるより、合わない環境に身を置いて耐える方が真由には楽だった。
そうやって耐えた結果は、結局真由自身も、周りの真面目に部活動を頑張っている子達もどちらも幸せにはしなかった。
真由も先輩の立場になり、後輩が出来、そんな中、士気の上がらない下級生相手に一人一言ずつ指導をするという流れになった。重苦しい空気の中、ずらりと並んだ下級生と、それに対峙する形で並んだ同級生達に挟まれての発言。最悪である。
一人ずつ、順番に下級生に対しての問題点を注意していく。
一言で良かった。何か一言、先輩として指導すれば良いだけなのだ。
けれどこの時も、真由はとうとうなにも言葉が出てこなかった。
真由の番になり、落ちる沈黙。何か言おうと唇は動くものの、声は、言葉は、出てこない。そもそも発言しなければならないことばかりに気をとられていたので、何を言うべきかも頭の中で纏まっていない。
何も出てこない。冷や汗が浮かぶ。鼓動が早くなり、顔に熱が溜まる。言葉が出てこない時間が続けば続くほど、その沈黙に焦りは募る。何か言わなきゃ、何か、何か…!
そうして動揺が完全なピークを迎えると、もう、完全に喋れない・動けない・思考停止。そうしてあまりにも続く沈黙に、同級生の呆れたような溜息が落ちた。そうして真由の番が飛ばされる。
その時感じた確かな安堵と、それ以上に自分だけが出来なかったという失望。
やらなきゃいけなかったのに、先輩なのに、私だけが出来なかった。やらなかった。良いわけが無い。この場から逃げ出したかった。消えてしまいたかった。けれど硬直したように動かない体も声も、どうにも出来ないまま、居たたまれなさに身を竦め、地獄のようなその時間が過ぎるのをただ待つしか無かった。
そうしてそんな真由の態度は、やはり許されるものでは無かったらしい。
同じ状況が何度か繰り返され、それでもその都度スイッチが入ったように黙り続けた真由はある日、部活の顧問に声をかけられた。
部員の子達になにも部のために発言しない真由を、無視して良いか相談されている、と。
もちろん止めて宥めたけれど、という顧問のその後の言葉は真由の耳に入ってこなかった。
無視される。そうしたいと、言われている。その事実は当然ショックだった。もし本当に実行されたらと思うと、恐ろしかった。けれど、同時にそうされても当然だとも思った。みんなの言うことはもっともだ。
先生だって、その状況で頑なに黙り続ける真由に問題があると感じているからこそ、こうしてみんなの不満を伝え、発言を促してきているのだろう。
場を乱しているのは真由で、先輩としての役割を果たしていないのも真由だ。いっそ辞められたら自分も周りも楽になるのに、そうわかっているのに、そうしたらまたその事で何かを言われてしまうと思うと怖くて、結局真由は辞めることも出来なかった。
その状況で耐え続け、みんなに迷惑をかけ続けることを選んだ。自分のために。
逃げることも、話すことも出来ない。歓迎されていないのに、居座り続ける自分。場を乱し、迷惑をかける自分。まともに話せない自分は、迷惑な存在なのだ。周囲は、仕方なく真由を許容している。
この思考は、その後のどんな組織に所属しても必ず頭の中の一番根幹部分に存在し続けた。
---だから、踏み出せない。
平日の午後、ハローワークの前まで来て、真由は立ち止まった。
応募したい求人は決まっている。後は相談員の人に話して、面接の日程を決めて貰えば良い。
そうわかっているのに、次の一歩が踏み出せなかった。
先日の面接での失敗が頭をよぎる。仕方が無い。あれは上手く受け答え出来ない真由が悪かった。今度は、もっとちゃんと聞かれそうなことを想定して、考えをまとめてーーー…。
けれど、考えておいた返答は答えられるけれど、緊張している状態で、全く想定していなかった質問に対してアドリブで答えることは、真由は非常に苦手だった。すぐに頭が真っ白になって思考停止してしまうところは昔から変わっていない。どころか、むしろ悪化しているような気さえする。面接では想定していた質問より、想定外の質問の方が多い。
相手の人となりを見るのが目的なのだから、当たり前だ。だから自分のことを上手く喋れない真由にとって、面接へのハードルはエベレスト級に異様に高い。
しかし問題は奇跡的に採用して貰えた後、実際に働き出してからの方がはるかに多いのだ。
もし仮に採用して貰えたとしても、コミュニケーション能力がポンコツな自分は、また周りに迷惑をかけることになるだろう。仕事の話や必要な会話は出来る。けれど、雑談や、それに伴う自己開示が真由は非常に苦手だった。いくら仕事をする場とは言え、一緒に働く人達との人間関係はないがしろにして良いものでは無い。
端から見ればコミュニケーションをとる気が無いととられる真由の態度は、周りの人の不快を呼び、また場を乱すだろう。
仕事をしっかり覚えて、仕方なくその存在を許容して貰えるようになるまで、一体どれくらいかかるのだろう。
オカシイ人に向ける目。アレを思いだして、真由の身が竦む。
一度組織に入ってしまえば、どんなに辛くても、会社に問題があろうとも、自分から逃げる事は非常に困難であろう事も今までの経験からわかっていた。居場所を間違えれば、また、周囲も自身も不幸になる。
職場選びに失敗は出来ない。
だけど、そんなの実際に働いてみないとわからない。
完全な運任せだ。
真由が普通の生活を掴むまでの道のりは、長く遠すぎて途方に暮れてしまう。
どうしてこんなに弱いのだろう。情けないのだろう。
周囲に迷惑をかけ続けているとわかっていながら喋れないのも、動かないもの、逃げれないのも。全ての行動の根源には自身の保身があることが情けなくて仕方が無かった。嫌われたくない。変なやつだと思われたくない。陰口を言われたくない。
そうして黙ることで結果的に逆効果となっているのに、わかっているのに、それでも込み上がってくる恐怖を消す術がわからない。
「明日…明日こそは…」
そうして今日も、真由はそのまま建物に背を向けてトボトボと歩き出した。
この一歩を踏み出す勇気を、明日こそは出せると信じて。