1.真由の独り言
場面緘黙症は個人差が大きいようなので、あくまでこんな人もいるんだなぁくらいで見ていただけたら。あまり経験者側の話は見ない気がしたので。
ちなみにこの話は経験を基にしたフィクションです。
不公平だ、と思った。
何もかもが嫌になって、まず浮かんだのがこの言葉だった。
不公平だ、不公平だ、不公平だ…!
一体自分が何をしたというのだろう。
何をしたら、こんな目にあわなければいけないのだろう。
おそらく物心着いた頃からずっと抱えていた不平不満が、どうしようも無く溢れて来るのを止められなかった。
「貴女、ちょっとおかしいわよ」
うんざりしたように言ったのは、今日会ったばかりの初老の女性面接官だった。碌に受け答え出来ずにへらへらと笑顔を取り繕っていた真由に、呆れたように最後に投げつけてきた言葉がこれだった。事実を教えたかったのだろうか。それともわざわざ作った時間が無駄だった事への苛立ちから出た言葉だろうか。彼女が何を思ってこの言葉を真由に直接ぶつけたのかは真由にはきっと一生わからない。ただ、傷つけられた、この事実が一生残り続けるだけだ。
「おかしい、オカシイ、おかしい…」
知ってる。そんなことは、もうずっと昔から知っているのだ。わかっているのだ。わかっていてなお、そんなことは無いと、自分は普通だと、普通の人のふりをして振る舞い続けなければ仕事だって見つけることは出来ないのに。なのに改めて突きつけられる言葉に、いったいどうすれば良いのか途方に暮れる。
今日は何度目かの面接だった。
三ヶ月前に勤めていた会社が倒産し、真由は突然仕事を無くした。
会社の業績が良くないのは肌で感じてはいたが、それでも倒産の事実が告げられる前日まで通常通りの営業を行っていたから、それはまさに寝耳に水の通告だった。会社は嫌いだった。好き勝手に振舞う上司と、どんどん積み重なる仕事。長時間労働は当たり前で、そのくせ時間外は碌に残業代をつけて貰えず、給料も少ない。思うところは色々あったが、それでも辞めることは出来ず、気付けば十年近い歳月をこの会社で過ごしてしまった。
「おかしい…」
会社を辞めることは出来なかった。
辞めたら、またこの事実と向き合うことになる。
自分が普通では無いことを痛感させられることになる。だから、どんなに辛くても、苦しくても、前の仕事にしがみつき続けた。一通りの仕事を覚えて、毎日同じルーティンを過ごしていれば、こんな真由でも普通の人間でいられたから。
オカシイ。
いっそ、認めてしまえれば楽なのに。
私は普通の人間ではありません。私は普通の人と同じようには喋れないんです。私は普通の人が普通に出来ることが出来ません。
そう、言うことが出来たなら、今日の面接官も真由にあんな言葉を投げつける事も無かっただろう。もっとも、面接すらして貰えなかっただろうけれど。求人の募集をかけている企業が欲しいのは、普通のことが普通に出来る、普通の人だ。自分がそうで無い、と言ってしまえば、採用してくれる企業はぐっと狭くなる。仕事をしなければ、お金を稼がなければ、生きてはいけないのに。
認めたい。認められない。結果、普通じゃ無いくせに普通の振りをして振る舞い続けるしか無い。
鉛のように重たい心を引きずり、帰路につく。
まだこれで終わりでは無い。これが、仕事が新たに決まるまで続くのだ。真由は、明日の希望も見えずに大きく溜息をついた。死にたくならなければいいな、とぼんやり思いながら。
須藤真由の子供時代は、悲惨なものだった。
何かがあったわけでは無い。何も、無かったのだ。
人がするべき当然の経験が、致命的なほどに不足している。
物心着いた頃から、真由は家の外ではあまり喋らない子供だった。家の中では兄弟と煩いくらいに喧嘩し、大声を張り上げ、年相応の普通の子供だったが、保育園などで家の外へと出るとピタリと大人しくなった。
自分でも何故かはわからない。
ただ、一つ言えるとすれば、保育園の先生は親ではないし、同じく保育園に通っている子供達は兄弟では無い、だから同じではないという明確な区別が、自分の中にあったと言うことだろう。保育園の先生、周りの大人は甘える対象では無かった。園の子供達は、兄弟達にするように自我を押しつけたり、我儘を言って良い相手ではなかった。だから、じゃあ、どうしたら良いのか?それが、わからなかった。
そうして口を閉ざし、閉じこもっている真由を、けれど周りの子供はあまり気にしなかった。真由自身もそう気にしてはいなかった。
喋らずともなんとかなったし、大きな問題も起こらなかった。けれど小学校に上がり、完全な集団生活の場に放り込まれたことによって、真由のこの喋らないという問題は自身の中で表面化した。
同じ保育園時代からの知り合いもいない中での小学校入園は、たった一人放り出された心地で全く心が安まらず、相変わらず誰とも喋れないどころか学校にいること自体がストレスとなる日々。友達など出来るはずも無く、休憩時間や昼休みは人目を避けて校内を徘徊したり、そうでなければ机から一歩も動けずにいた。誰に拘束されているわけでも無いのに、(今思えば真由自身が自分をその場に縛り付けていた)終始行動を制限され、拘束されたような心地で過ごしていたために何ひとつ楽しいと思えることのない学生生活の始まりだった。
真由自身としては大いに問題があった。
苦しかったし、辛かったし、友達だって欲しい。
けれど大人しく机に座って、言われたとおりに勉強をする子供は、周囲の大人達の関心を特別引くことは無かった。
少し大人しいけれど、特に問題も起こさない良い子。
そう評価されてしまえば、逆にその評価を裏切ることのないよう、期待に添えるよう、弱音は吐き出さずによい子であることを続けた。
広い校舎の中、楽しげな喧噪。
その中で、一人でいることを気付かれたくなくて、人に会いませんようにと願いながら一人で彷徨う子供心を、真由自身今となってはもう思い出せない。
ただ毎日が、囚われた牢獄の中に自分だけがいるようで、ひどくつまらなかった。
小学校の中学年頃に転校を経験し、また一人全く知らない人ばかりの場所に放り出された。
新しい場所でなら、今までの真由の事を全く知らない人たちの中でならやり直せるかもしれない。
そんな微かな期待を持って転校した先で待っていたのは、甘くはない現実だった。
むしろ全く喋れない状態が悪化し、そんな状態で友達も出来るはずも無く、より一人でいることにネガティブな印象が周囲も自分自身も強くなる年頃にあって、どうしても周りと関われない自分自身に孤独を募らせた。自分と同じように転校を経験した兄弟達は、すぐに友達を作り、遊びに行く約束や学校での楽しかった話を嬉々として語っていた。私だけが違うのだ。私だけが、オカシイのだ。
その現実を今まで以上にしっかりと突きつけられて、劣等感や惨めさ悔しさ悲しさに、必死で虚勢を張って何でも無い振りをし続けた。学校での姿がどうであれ、家での真由を変えるわけにはいかない。弱い部分は見せられない。それは一種の意地であった。
転校理由は祖父が亡くなり、一人になった祖母との同居であり、もともと嫁姑間の関係が良くなかった祖母と母は一つ屋根の下に住むにあたって大いに揉めた。
母は不満の多い毎日に追い立てられ、また仕事に子育てに変わった環境にと対応する事で日に日に余裕を無くしていった。学校で一言も喋らない真由にとって、唯一思い切り話が出来るのが母との時間だった。
真由は日中の間に留めておいた栓を抜いて中身を吐き出すように、夕食を作る母の後ろについて回り、どうでも良いような話を思い切り母相手に喋ることが一日の中での唯一の楽しみだった。しかしただでさえ忙しい時間帯に、子供の相手をしながらの夕食作りは母にとっては負担以外のなにものでもなかったのだろう。
そうして真由は、ある日とうとう母に煩いと叱られた。
叱られ、母にも喋ることが出来なくなった真由は、完全に自分の気持ちを喋る場を無くした。
そうして、喋ることを諦めた。人と関わるべき時期に関わらず、言葉を学ばず、人間関係を構築する術も知らない。
どうやって話したら良いのかがわからない。
普通に声をかけて、普通に喋れば良いと周りは言うけれど、そもそものその普通がわからないのだ。
急に話しかけたら驚かれてしまう。タイミングを見て、今は他の人といるから、一人になったら…そんなことをつらつらと考えているうちに、タイミングなんてのはアッサリ逃してしまう。
そうしてようよう声をかけられたとしても、喋らなければと言うことに集中しすぎてしまい、頭は真っ白になって言葉どころか声も出てこない。
結局真由は喋れないことに頭の中ではパニックにパニックを重ね、傍目には俯いて黙ったまま、相手を怪訝な表情にさせて終わりなのだ。
人と対峙した時、常に不安がつきまとう。
相手を不快にさせていないか、自分の話じゃ退屈じゃ無いか、そもそも自分は上手く話せているのか。上手く話せないことにより、これまでに向けられてきた数多の言葉よりも雄弁な相手の視線が、表情が。(この人はおかしいんじゃ無いか?)という声なき言葉が、真由が誰かと話をする場面になる度に一斉に向けられる。
これは、恐怖だ。
喋らなければならないと感じる度に襲う恐怖を抱えて、だから真由は人と話すことに楽しさを見いだすことは出来なかった。
そうして話せない代わりに、表情や相槌でその場をやり過ごすというのが真由のこの困難な状況を乗り切るための処世術となった。
今日の面接でもそうだ。
部屋に通され、面接官の女性と対峙した途端にせり上がってきた恐怖をなんとか宥め、表情だけは取り繕ったものの、言葉のキャッチボールを初対面の人と満足に続けられるほどのスキルは真由にはない。その事にさらに恐怖と焦りが増し、取り繕うように場違いにヘラヘラと笑うしかない真由に、面接官の女性はあの言葉と共に、また過去何度も向けられてきた声なき言葉を突きつけてきた。
真由が傷ついたのは、「おかしい」と言う言葉以上に、あの普通では無い人に向ける視線だった。
何も変わっていない。
学生時代から、何も。
その事実が、真由を打ちのめす。
むしろ悪化しているとすら感じる。普通じゃ無い人間が、普通の人生を送れず、劣等感と年齢ばかりが増した状況で普通に振る舞うことはもはや難しい。人との関わりを恐れる自分が、もはや結婚など出来ないであろう事はそれこそ小学生の頃から自覚していた。
結婚・妊娠・出産・子育てと、ライフステージに当然あるべきものとして語られるそれら全てを真由は早い段階で諦めていた。だって、どうしたら良い。そもそも、仮に親密な関係を築ける相手が現れたとして、結婚は当人だけの問題では無い。双方の親族にも関わってくるし、その新しく増えた親族達との良好な関係を築いていかなければならないし、相手側の交友関係とも大なり小なり付き合いが出てくる。自分がそれらをうまくこなせるとは、とても思えない。
そうして子供が生まれたら、今度はパートナーとは違い、その自分と全く別人格の、自分の好き嫌いと全く関係無い形で家族になった子供という個を受け入れていかなければならない。
まだ子供の小さいうちはどうにかなるだろうとは思う。
しかし、成長し、反抗期を迎える頃の子供と向き合い、関係を築いていくという事が真由には到底出来るとは思えなかった。自分の子供だ。それまで育ててきた愛おしさも過去もあるだろう。
もしかしたら大丈夫かもしれない。子供の性質・性格にも大きく影響される。
しかし、もしダメだったら。
ダメでした。ごめんなさい。産まなければ良かったなど、決して言うことは許されない。
万が一、子供の人生を真由のせいで大きく損なうことになってしまったら。
普通の人であれば受け入れられたはずなのに、真由の元に生まれたばかりに上手く受け入れられずに子供の成長を阻害してしまうようなことになってしまったら。
考えるだけで、恐ろしい。
子育てに失敗など、絶対にあってはならないのだ。
そう思えば、真由に自分の家族を作るなどと言う選択肢は端から存在しなかった。真由の性質は、下手をすれば子供が引き継いでしまう恐れもある。逆に、引き継がずに全く真逆の人間に子供が育った場合、人との関係を構築する術が心許ない真由では、相手を上手く理解出来る自信が無いし、子供の方も真由を理解出来るとは思えない。
物心ついた時から、真由はずっと孤独だ。
真由を育ててくれた両親がいる。愛情を向けて見守ってくれた人々がいる。こんな真由でも辛抱強く側にいてくれた人たちがいる。けれど、誰一人として喋れない真由を理解できない。そもそも、真由自身が自分を理解ず、説明出来ないから、喋らない真由を受け入れてくれる人がいないのなんて当たり前なのに。
こうしてまた自分の性質と向き合うことがある度に、真由は繰り返し普通とはかけ離れている自分に打ちのめされる。
死にたい、は過去に何度も思った。
けれど、自分は案外図太いらしい。何が楽しくて生きているのかわからない毎日でも、夢も希望も見いだせない人生でも、どこかしらに小さな希望を見いだして毎日をなんとか生きてきた。
そうしているうちに死にたい、は次第に声を潜め、いつの間にか聞こえなくなっていくけれど、やっぱりこうしたふとした瞬間にぽつりと浮かぶ。
以前のように、頭に張り付いているような病的な囁きでは無いけれど、こうしたふとした瞬間に込み上がってくるものの方が、気力もやる気も奪っていってしまうことを真由はよく知っていた。
(疲れているなぁ…)
私は、いつまでこんな自分に縛られるのだろう。
もう、楽になってしまいたい、という気持ちと。それでも生きなければ、という気持ちに挟まれて、真由はそっと目を閉じた。
夢を見た。
夢の中では、一人一人その背にみんな翼を持っていた。
そうしてその翼で自由に空を駆け回るのだ。良いなぁ、羨ましいなぁ。
そんな感情と共に、真由は地上から楽しく飛び回る人々を眺めていた。
真由の背にも翼がある。けれどそれはとても小さかった。そうして力が無いから、真由一人の体重を持ち上げられない。ぎこちなく翼を動かして見れば、不格好に多少体が持ち上がっただけだった。
一人残された地上から、楽しげに飛び回る仲間を見る。なんだ、現実の真由のままじゃ無いか。そう思うと笑えてきた。
一見、真由の背にも翼があるから飛べるように見えるけれど、実際にはその翼は機能していない。だから周りの人達も、翼があるのに飛ばずにジッと地面に這いつくばっている真由を、不思議そうに、怪訝そうに、理解が出来ないと見てくるのだ。
いっそ、この出来損ないの翼をもいだらどれほどスッキリするだろう。
どれほど楽になるだろう。その途端に、きっと周りの人達も真由が飛べないのだと理解し、なんなら同情して手すら差し伸べてくれるのかもしれない。端から貴方たちとは違うと示せたら、こんな苦しい思いをしなくて済んだのに。
そう思えば、いよいよ本当にこの翼をむしり取りたくなった。ただのお飾りの羽など、自分にも周りにも有害でしか無い。そうして掴んだ羽の根元に思い切り力を込めれば、夢の中なのに思った以上に痛みを感じた。
「痛…」
これは、夢なのだろうか。
自分は、本当に眠っているのだろうか。そもそも、いつの間に眠ってしまったのだろう?この世界が夢で、真由の願望やら現状やら羨望やらを潜在意識が見せているとして、真由が今、そうしようとしているように、実際に自分は翼を---声を、無くしてしまいたいのだろうか。
喋れないのに、喋れるから周囲の認識との差に齟齬が出る。
真由がもし、そもそも本当に喋れなくなれば---そうすれば、最初から誰も真由に喋ることを期待しないし、強要しない。
喋れるのに、喋れない。
喋れるはずなのに、喋らない。
他者との齟齬で、一番辛いのはそこだった。
真由の中で、喋りやすい人と喋りにくい人というのは明確に存在していた。自分でも具体的にどう区別しているのかはよくわからない。話しやすい人には、明るい人もいれば、そうで無い人もいる。よく喋る人もいれば、一見、苦手意識のある人もいる。
喋りにくいと思う人には、真由が好ましいと思う誠実そうな人も多かった。自身の人の好みとはまた別に、やりとりのしやすさの基準があるらしい。
ただ、喋りやすい人は共通して"他の普通の人同様"に接してくれる人だし、喋りにくい人は話がうまく出来ない真由への気遣いを含めて、"明らかに他者と分けて真由に接してくる人"だった。
上手く話せないからと言って、嫌っているわけでは無い。
けれどそれを、自分では上手く伝えられない。
もういっそ、言葉なんて無ければ、どちらに対しても同じ反応しか出来なくなるのだ。現実的に声を潰す方法は何だろう…などと馬鹿なことを本気で考えていたのは、学生時代の話だ。
上手く話せない自分を誤魔化す方法を考えて、考えて、考えて…。本当に、最初から声を出せなければいいと望んだし、風邪などの病気になって声が出なくなれば嬉しくなった。
これで本当に喋らなくてもいい。そうしていても、不審に思われない、と割と本気で考えていたものだ。
やはりあの頃から大して成長していないなと溜息をつく。
現実では実現は無理そうだけど、今、この夢の中ではこの馬鹿な妄想の答えを見ることが出来るだろうか。痛みに引っ込めた手を再び羽根に伸ばし、とりあえず手近に掴めた羽根を一枚むしり取る。
やはり、思った以上に痛かった。
掌の中にある、毟られた羽根の根元には肉片と血が滲んでいた。
痛い。痛い。
あるものを、無くすというのは痛みを伴うものらしい。あっても仕方のないものなのに。いらないのに。捨てることも、生半可な覚悟じゃままならない。辛い、と思う。捨てることも、捨てられないことも、捨てたいと思わなければいけないことも。全て、全て。
私でいたかった。
不格好な羽根を持ったままの自分で許したかった。
けれど周囲との齟齬を埋めるためには、偽った自分か、本当に羽根を捨て去るしか道は無い気がしている。生きるために、死なないために。
私は私を殺すしか無い。否定するしか無い。受け入れてあげることが出来ない。そうしてまでして手に入れる物も、結局は偽りでしか無いから、苦しさは形を変えて続いていく。
「もう、どうすれば良いの…」
これだけ長い年月を生きても答えは出ない。
いつだか歌の歌詞の中で聞いた、進むことも戻ることも出来ない、舞台上の道化のピエロ。周囲の人は、どんどん進んで変わっていくのに、真由だけは何も変われず、一歩も進めず、舞台の真ん中で立ち尽くしたまま。そうして何もできないまま、無数の観客席の視線と、対峙している。
真由は、彼と一緒だった。彼が見た世界は地獄だったろう。真由の見ている世界も、それと大して変わらない。
再び目が覚めた時、今度は水の中にいた。
水の中とは言っても、そのまま海の中というわけでは無い。普段の生活の場そのままに、ただ、周りにあるのが空気では無く水なのだ。
苦しい---…訳では無い。ただ、なんだか呼吸がしにくい。
上手く息が吸えず、肺の中に空気が溜まらない。
それは、普段の真由の日常に似ていた。水の中にいるような、あるいは自分の周りだけ空気が薄いような。思い切り、酸素が吸えないような感じ。周囲の人々は、まるでそれが当たり前かのように、何の苦も無く通常通りの生活を送っている。違うのは、真由だけ。真由だけが、異質。
また、胸が苦しくなった。
一体何なのだ。
何だって今日は、こんな夢ばかり見てしまうのだろう。
昼間の面接官の言葉が、封印していた過去ごと見ないようにしていた真由の本質を穿り返してしまったのだろうか。
自分だけが違う。自分だけが居場所が違う。
そんなの、ずっと昔から自覚し、受け入れてきたことなのに。今更こんな夢にまで見せて、蒸し返さなくても良いじゃ無いか。そう思えば、なんだか腹が立ってきた。
真由だって、好きでこんな風になったわけでは無い。
好きで、こんな性質で産まれてきたわけでは無い。
どんなに頑張ったって、自分は周囲には馴染めない。心の中で、自分自身で鍵をかけ、閉じこもってしまう。けれど、その鍵の開け方も、扉の場所さえわからないのだ。どこをどう開けたら人と近づけるのか。あまりに近付きすぎても、心の底からどこか人を信じ切れない自分では、きっと上手くいかない。いつだって、親しい人といる時でさえ、真由の心の中には今まで向けられてきた声なき視線が存在している。
(おかしい、おかしい、おかしい…!)
そんなこと、知っている。
もう、本当に気が狂いそうだった。
真由だけが違う。
生きている場所。
持っている羽根。
そもそも、人なのだろうか。
人の中に混じった、人の姿をした何か。
宇宙人とか、犬とか、猿とか、猫とか。人の姿をしてはいるものの、その中身は全く違う生き物だから、同じになれない、理解出来ないのだろうか。そんな自分が、普通になりたいなんて願うから、苦しむことになるのだろうか。気付けば、ポロポロと涙がこぼれていた。ずっと、現実では泣かなかった。酷い言葉を言われても、それは真由がオカシイから。
受け入れられなくても、それも真由が普通では無いから。真由が悪い。真由で無ければ、相手だってこんなことは言わない。拒絶されるのも、仲間に入れて貰えないのも、無視されるのだって、喋れない真由に原因があるから。だから、周りは悪くない。迷惑をかけているのは自分なのだから。だから、自分に泣く資格など無い。そうやって、涙と共に感情自体も封印してきた。感情が無ければ傷つくことも無い。感情が無ければ全て受け入れられる。感情が無ければ、自分が飲み込んでしまいさえすれば---…!
そうして得たのは灰色の世界だった。
ある時、ふと気付いた。
誇張でも何でも無く、本当に世界が灰色だったのだ。
色はある。空は青い。木々は緑。夕日はオレンジ。個々の色は認識出来ても、そこにあったはずの輝きが何も無かった。まるで昔のまだ画面の画素数が豊富では無かった時代のテレビでも見ているような、どこか作り物じみた世界。色が無い。輝きが無い。全く、自分の生きている世界だと実感出来ない別の何かだった。
その世界では、全てが真由と薄い膜一枚隔てた向こう側にあった。
傷つけられるような言葉も、日々のストレスも、負の感情も。
泣きたいとは思わなくなった。不満を感じながらも、なんとか毎日をこなせるようになった。嫌な感情も、すぐに蓋を出来るようになった。
けれど代わりに、好きなものもわからなくなった。
世界からは色が消え、輝きが消え、そして真由からは感情が消えた。
望んでいたものだった。それは、真由を確かに今までよりは楽にしてくれた。けれど、色の無い世界は、死にたくなるくらいツマラナイものだった。その頃から希死念慮が増え、まるで呪いのように、頭にしにたい、の四文字がこびり付いて離れなくなった。普通に生きて、普通の振りをして、表面上は特に問題の無い毎日なのに、しにたい、は頭の中から消えて無くならなかった。
そんな過去の記憶を思いだし、真由はボロボロと溢れ出す涙を呆然と見つめた。まだ、自分がこんなに泣けることが意外だった。泣きたいと思っても、嗚咽が出るばかりでここ最近はまともに涙が溢れることは本当に無かった。
(私、まだ、泣けた…)
当たり前の事だろう。
それこそ周囲に言えば、怪訝な表情をされるだろう。
けれど、真由には特別なことだった。死んだと思っていた感情が、まだこの中にあったのだ。それに気付けば、その感情の蓋をもう少し開けてみたくなる。幸い、ここは夢の中だ。何をしたって、何を言ったって他者に何かを言われることはない。けれど、自分にはどうだろう?
感情と向き合うことは、その感情をぶつけることは、長らく逃げてきた自分には耐えられるのだろうか?
「私…」
声が出た。
酷く震えた、情けない声だった。
真由のよく知る、真由の嫌いな声だ。
「私、頑張ったのよ…」
酷く情けない。しかも、誰に言ってるのかも、何に対しての主張かも、よくわからない。言いながら、真由自身よくわかっていなかった。ただ、言葉がポロリと溢れてきたのだ。
不平不満、恨み辛み。溜まった感情が出てくるのだと思っていた。
不公平だと、ずっと思ってきたじゃないか。どうして自分ばかりこんな目にあうのだろう。どうしてこんな思いをしないといけないのだろう。
まるで人生自体が罰を受けているみたいだ。きっと自分は前世でなにか重い罪を犯し、この今世はその罪を償うための、罰を受けるためにあるものなんだろう。そんな馬鹿な妄想を、散々しなければやっていけないほどの不条理さをため込んでいたはずなのに。出てくるのは、もっと暗い雑言だと思っていたのに。
---そっか、頑張ったんだ。
すとんと、腑に落ちた。
頑張った。
それを、一番に認めて欲しかったんだ。誰よりも、自分自身に。
すんなりと、そう思えた。
親でも、周囲の誰でも無い。私自身に。
---そっか。ごめん、本当にごめん。
周りに認めて欲しかった。私もここに居て良いと言って欲しかった。頑張ってることを知って欲しかった。でも、それ以前に、私は私にずっと頑張っていることを認めて欲しかった。
ごめん、こんなに長い間、それに気付かなかった。ずっと責め続けていた。ごめん。頑張ったよね。こんなに辛い思いをしながら、たった一人で、ただ私に認めて貰うために。周りじゃ無い。私が認めれば良かっただけなんだ。誰よりも頑張る、自分のことを。
一番近くで、一番誰よりも知っていたはずの、私が。
「うん、頑張ったよね」
応える声も、真由の嫌いな情けない声だ。だけど、今はいつもほど、嫌いじゃ無い。
「ちゃくちゃ頑張ったよね。わかる。知ってる。だってあの人、怖かったもん。ずっとこっちを見下した目で見てさ」
自分の不満ごと寄り添うように応えれば、苦笑が漏れた。笑ったのは、訴えた真由か、応えた真由か。わからないけれど、気持ちかすっと軽くなる。
「頑張ってくれて、ありがとう」
私は私を労うことを、ずっと忘れていた。
パチリと目が覚めた。
窓の外からは、気持ちの良い太陽の日差しが差し込み---と、ちょっと角度が高すぎるようだ。一体どれくらい寝ていたのだろう。
昨日の面接での撃沈に、あれだけ深海の奥深くまで沈み込んでいた心が嘘のように今日は軽い。素晴らしく良い目覚めだ。
一晩寝てしっかり急浮上したらしい。なんだか夢を見ていた気もするが、いつものごとく、目覚めと共にその内容は霧散していた。大きく伸びをし、いやにスッキリとした気持ちで真由はつくづく思う。
---やっぱり私って、図太いわ。
そうじゃないとやっていけない毎日があるから、仕方が無いのだ。