誤字脱字
「うわぁ……間違えた」
一人だけの教室。部活動に勤しむ生徒達の声を聞きながら、日直の日誌を書いていると字を間違って記入してしまった。早く帰りたいという気持ちが、焦らせ手元を狂わせたのだ。
「待つしかないか……ん?」
ボールペンを使用していたが、僕は修正する為の道具を持ち合わせていない。もう一人の日直がゴミ捨てから戻るまで、成す術がないことを悟る。筆記具を机に置くと、不意に視界の端で何かが動いた。
「……っ!?」
虫が入って来たのかと視線を動かすと、『脱』という字が小刻みに震えていた。その字は先程、誤字として記入してしまったものである。
「なっ……」
僕が啞然としている間に『脱』は漢字の上部から体を起こした。次に紙から下部を引き抜くと、日誌のページの上に直立した。その動きは滑らかであり、意識を持ち合わせた生き物のようである。
他の字は列を守っているが、その『脱』だけは紙面から脱した。その証明に字の足元には影が出来ている。
「……動いた」
『脱』は下部の『はらい』と『とめ』の部分を足として活用すると、僕の机か飛び降りた。そして器用に教室の床を走ると、出入口である教室の前ドアを目指して駆ける。
教室のドアは閉められているが、『脱』の体の厚みは紙よりも薄い。ドアの隙間からすり抜けることは容易いだろう。
「あ」
ドアまで残すこと数十センチという所で、教室のドアが開いた。そして入って来た人物が『脱』を容赦なく踏み潰した。水の弾ける音が、不思議な現象の終わりを告げた。
「お待たせ」
「う、うん……」
もう一人の日直である彼女は、何事も無かったように微笑んだ。僕はただ頷くことしか出来なかったが、何故か彼女の名前が思い出せない。
黒板の日直当番の名前には、僕の名前だけが書かれていた。