➀三度来福。田辺薫と大介の軌跡
田辺来福。
2002年某月某日、大学時代の友人田辺薫こと愛称カヲルは、福岡の地へ降り立った。
彼の郷里広島から福岡まで、新幹線でおよそ二時間の旅だった。
私は彼から携帯電話で到着の連絡を受ける。
博多駅のアナウンス、雑踏の音が受話器ごしから聞え、彼の甲高い声が耳によく響く。
これから快速に乗り換えて、久留米駅で降りると告げられた。
時刻は21時過ぎ、実家住まいの私は身支度を素早くすると、
「ちょっと行ってくる」
と親に伝え、愛車シビックに乗り込もうとした。
すると母が訝し気に、
「羽犬塚駅に迎えに行くとやろ」
と言い出した。
羽犬塚駅は実家から一番近い駅で、久留米駅はさらに3つほど先の駅になる。
「うん、まあ、行ってくる」
私はお茶を濁し、家を後にした。
前日の田辺との電話のやりとりで、
「夜遅いし、出来るだけ、久留米駅ではなく、羽犬塚駅にしてくれ」
と伝えていたのだが、蓋をあけてみればやはり久留米駅という訳だった。
四年前に彼が来福した時も、同じように久留米駅迎えだったので、仕方がないと思いつつもなんだかな~という気持ちであった。
以前の田辺の来福では・・・。
その当時の私は、まだ車の運転に自信がなかった。
田辺から久留米駅に来てくれと連絡を受けた私は、今回とほぼ同じ時間にシビックを運転しながら、駅を目指した。
運転経験も浅く、夜間の運転も苦手な上に方向音痴の私は、歓楽街の方へ行ってしまって、狭い路地裏を我が物顔で歩く酔っ払いをひかないように、びくびくしながら運転をした。
サイドミラーを軽く、ネオン輝く居酒屋の看板にぶつけてしまうハプニングもありーのと、四苦八苦して、なんとか駅へと辿り着いた。
そこで怪しく佇む田辺と同じく広島の友人西山を乗せ、ラーメンを食べに久留米の丸星ラーメンへ、腹ごなしの後、温泉へ行こうと彼等は言いだした。
私たちは、大分県別府市の大学だったので、常に温泉は身近なものであった。
其の血には温泉人の血が流れている。
しかし、ここは別府ではない、温泉はそこまで身近ではない。
私は唯一、遅くまで開いている久留米温泉へと車を進めたが、夜、さらに方向音痴の私は、迷走をし続けたのち発見することが出来なかった。
次にダメ元で八女から近い、船小屋温泉に向かうも、すでに夜は更けていて温泉に入るには至らなかった。
重苦しい雰囲気の中、実家に戻り宿泊となる。
彼等の来福、こののちも裏目裏目へとでてしまう。
翌日は西山の希望もあり、八女の古墳巡り、岩戸山、弘化谷、石人山を巡り、熊本県の山鹿にある装飾古墳館へと向かった。
ところが運の悪いことに古墳館はお休みだった。
道中、犬のうんちを踏んづけるトラブルもあり、半分キレかかる田辺だった。
当時の私も全然大人ではなくて、こっちも懸命にしているのにと、そんな彼の態度に腹をたてていた。
山鹿温泉の桜湯に入るも、関係修復には至らず、相変わらず重苦しい空気が流れていた。
夜、友人の原野が合流し久留米のうどん屋で夕食をとり、実家でワイワイ
と語り合い、なんとか互いの機嫌も戻った。
翌日、久留米駅で広島隊を野原とともに見送る。
次の田辺来福、あれは二年前のこと・・・。
今回は、夜、高速にも乗らずにバイクで下道を使ってここまで来るというのだ。
時期は冬だし、危ないからと他の交通手段で来るようにと伝えたが、頑固な彼はバイクで来ると言い放った。
田辺は意志が強く、融通が利かない・・・人の事は言えないが・・・。
そんな訳で、彼の出発を受けて、私は携帯電話を時折、じーっと見つめながら到着を待った。
24時を越え、1時、まあ逐次、田辺から連絡は入るものの、なにかあったらと心配だった。
そして、2時、ようやくの到着、彼は案の定、疲れ果てて爆睡・・・何か思うところがあったのだろうか。
翌日の夜、原野と合流し地元のべんがら村(温泉)へ。
翌々日、別府からフェリーで帰るという田辺を見送りに、私はシビックで行く。
当人は相当、嫌がっていたが、とにかくこっちが不安だったのでついて行く。
ここでも険悪だったなあ。
無事、見送った後の帰り道、狭い道路の横壁に車を擦ってしまう。
これも思い出・・・になるかっ!
うぉーっ!ばっきゃろー!と自分に怒りまくった私。
・・・そういう経緯もあり、田辺の3度目の来福。
気合も自然と入る。
前回のリベンジそして、自分の成長度(忍耐)が試されるのだ。
三度目のおもてなし?がはじまる。