南発券の謎⑨・・・国家社会主義
よく右翼の事を国家社会主義者とか言いますが、なんで「ヤクザ」じゃダメなんでしょうか?
昔は、ああいった連中は「ヤクザ」といってたと思うのですが、最近は自主規制が酷くて、SNSでさえ伏字を使っています。
ちょっとおかしいと思いませんか。
前回、児玉誉士男の人脈を書いているとき「大化会」の岩田富美夫の事について書きました。
大化會は、1920年4月に清水行之助によって結成された国粋主義の右翼団体です。
岩田富美夫は陸軍特務機関に在籍してるとき、上海で絶食しながら「国家改造法案大綱」を書いてる北一輝に惚れ込み、弟子になりました。
日本に帰り「猶存社」から出版された北一輝の「国家改造法案大綱」は「国家社会主義」のバイブル的存在となりました。
北一輝、岩田富美夫、大川周明らの活動拠点「猶存社」は、国家改造運動という名の活動をしている「右翼団体」と呼ばれるようになりました。
ウィキペディアによると「猶存社」・・・天皇制のもとでの国家社会主義を謳い、国家改造を目的とする最初の国家社会主義系右翼団体・国家主義団体・革新派右翼団体である。と書かれています。
しかしながら、その活動内容というのは、実は銀行や財閥への「ユスリ」「タカリ」が主で・・・「ヤクザ」の仕事そのものでした。
「ピストル康次郎」こと西武鉄道の堤康次郎は、東急の「強盗慶太」こと五島慶太と並ぶ、コワモテ経営者ですが、実は岩田富美夫との間にこんな事件があったりします。
「誰も語りたがらない鉄道裏面史」より、
>岩田は20人もの子分をつれて康次郎の家へ乗り込んだ、朝早い時間であり、康次郎の在宅を狙った朝駆けである。
奇襲をかけた岩田の方が有利で、子分たちは康次郎を取り囲み、岩田はピストルを取り出した「あの株を売らんか」
岩田は前日の晩にも康次郎を脅しており、これが最後通告のつもりである。
「売らん」康次郎は顔色一つ変えずに言い放った。
この返答を聞くと岩田はピストルの引き金を引いた。
弾は康次郎の首筋をかすめて飛んだが、それでも康次郎はピクともしない。岩田は20人の子分とピストルを使っても堅気の康次郎を落とせなかった・・・・・・・・格の違いを見せつけられた岩田は今度は康次郎のために働くと言い出し、康次郎から金を預かると駿豆鉄道の株を手に入れ、康次郎に届けた・・・<
このように、岩田富美夫は、現代で言う「ヤクザ」そのものでした。
北一輝が「国家改造法案大綱」を書いて人気が出たお陰で、その子分である岩田富美夫も「国士」とか「国粋主義者」とか「右翼」などとと呼ばれましたが、とんでもない誤解でしかないということです。
児玉誉士男も「右翼」と呼ばれていますが「ヤクザ」とは呼ばれない。
北一輝の「国家改造法案大綱」は革命の書であり、「国家社会主義」を目指す急進的な活動は、暴力的にならざるおえない、だから活動が似ていてもしかたない。
というのが右翼の言い分のようですが、私には児玉や岩田に北一輝や大川周明の思想を実現する気があるとは思えない。
「ヤクザ」は頭が悪いようで、実は知恵者である。
北一輝、大川周明、の理論を利用して、自分の欲望を満たす経済活動する。
この北一輝、大川周明、笠木良明・・・彼らのようなインテリ右翼の名前をあげれば、児玉や岩田の暴力の理由付けができるのです。
児玉誉士男が、戦後、他のフィクサーのように落ちぶれずに、在日ヤクザと一緒になって、政財界をのし上がってこれたのは、活動の根が北一輝のような「革命」にあるのではなくて、欲望のままに動く、ただの「ヤクザ」だったからでしょう。
児玉誉士男と双璧をなす右翼の大物に田中清玄という人物がいます。
戦後、児玉に暗殺されかけたこともあって、児玉を大変嫌っているが、その田中清玄が自伝で「児玉を最初に使いだしたのは、河相達夫だろう」と述べています
ttps://1000ya.isis.ne.jp/1112.html
河相達夫は東大法学部卒の秀才で、日中戦争開戦時の外務省情報部長である。
中国公使館一等書記官、広東、上海各総領事を歴任し、1937年外務省情報部長となり、外務省情報部の拡張を図った。
南満州鉄道総裁松岡洋右や大川周明とも親交があり、児玉は笠木良明から紹介された。
児玉は「河相達夫とは親と子の関係」だといって感謝の意を示しているが、この1937年という年は日中戦争の勃発した年で、時期的に見て児玉は出所したばかりで何のあてもなかったはずである。
ただ笠木良明のみが頼りであった。
一方、1937年、河相達夫は外務省情報部長になったはいいが、満州辺境で対ソ連情報収集に熱心であった皇道派の連中が、226事件で一掃されてしまった。
満州ソ連国境付近の情報収集に苦労していた。
つまり河相達夫にとって児玉誉士男みたいな男は、この時期大変有用であった。
河相は児玉に言った「今の世の中、軍部を出せば正せると、誰もが思っているようだが、軍部がいかに腐敗しているか、現地に行って見てこい・・・」
児玉は河相に、このように言われて満州に送り出されたと言っている。
しかし現実はそんな綺麗事ではないだろう。
河相にすれば日中戦争勃発前後の非常時でなければ、前科三犯の児玉などに決して声などかけなかったであろう。
児玉にとっては大きなチャンスであった。
満州で河相達夫の雑用をこなすうち、汪兆銘の重慶脱出を手伝わないかと声がかかる。
ボディーガードを頼まれ、1938年12月、汪兆銘は無事上海に脱出した。
つまり児玉が出所した1937年4月~1938年12月までの1年8ヶ月間は、児玉にとって河相達夫の部下であった。
児玉は自伝「悪政・銃声・乱世」で、この時期、北支那満蒙の奥地から、内モンゴル、ウイグルまでいって、色々調査したと言っている。
そして最後に上海で河相達夫から上海副領事であった岩井英一を紹介されたと言っている。
この岩井英一を紹介されたことで、児玉に更なる運が向くようになる。
児玉誉士男、この男を理解する上で、大切なのは人脈の変遷を押さえることである。
例えるなら、歌舞伎町でデビューしたキャバ嬢が、六本木に移り、銀座のママになる。
そのようなサクセスストーリーを児玉にも当てはめる事ができる。
彼の最初の師匠は赤尾敏であった。
しがない貧乏右翼。
それが満鉄情報部の笠木良明へと代わっていく。
そこから外務省情報部長、河相達夫となり、上海副領事、岩井英一となる。
赤尾敏が日本国内のみで活動していたのに比べ、そこから笠木良明の満州へと移ったのは、やっぱり赤尾のもとでは金が稼げる気がしなかったのだろう。
さらに笠木良明が関東軍から追放されたのをみて、上海の河相達夫の元へと流れていったのも、児玉独特の金の臭いのする方へ、といったとこであろう。
同じように、児玉は河相達夫から、上海副領事の岩井英一を紹介されると、岩井英一のもとへ食い込んでいった。
岩井英一はウィキペディアを見ても出てこない。
無名の人物だが、しかし、中国に検索サイト百度では、中国語でびっしり解説してあった。
つまり、中国では有名人なのだ、彼はスパイであった。
1936年12月12日、西安事件である。
1937年7月7日、日中戦争。
日本は、毛沢東の中共からも、蒋介石の国民党からも、情報を集めなければならなかった。
上海領事館は情報工作の拠点となった。
その責任者が外務省情報部河相達夫、岩井英一副領事であった。
岩井英一は上海同文書院という日本が作ったビジネス専門学校の卒業生である。
上海同文書院は陸軍中野学校のビジネス版のようなもので、中国で通用するビジネスマン型スパイを養成していた。
あの里見甫も上海同文書院の卒業生である。
岩井英一は外務省情報部長河相達夫と共に上海領事館を舞台に大規模なスパイ組織を作り上げていた。
上海領事館は別名岩井公邸と呼ばれ、中国共産党をはじめ多くの工作員も沢山出入りしていた。
参謀本部第8課影佐禎昭大佐による「影佐機関」もそこを拠点に活動していた。
そして汪兆銘による政権工作も影佐大佐によって進められていた。
別名「梅機関」ともいう。
《続く》




