南発券の謎⑧・・・笠木良明
「天行会独立青年社事件」の懲役3年半のムショ暮しから出所した児玉誉士男。
昭和12年(1937年4月29日)26歳でした。
ここで、児玉誉士男は笠木良明の世話を受けています。
笠木良明と児玉の出会いは1932年2月。
笠木は満州関東軍嘱託「自治指導部」の局長でした。
元々満鉄社員であった笠木は「大雄峯会」という右翼団体を作っていた。
この団体には後に甘粕正彦も加入しています。
1892年生まれのこの秀才は、東京大学を卒業すると満州鉄道に入社し、先輩の大川周明の影響を受けて「大アジア主義」に傾倒していました。
大川周明は北一輝と並ぶ右翼の精神的支柱であり、笠木良明は満州に「民族協和」「王道楽土」を築こうと、関東軍の嘱託「自治指導部」で満州建国に奔走していたのです。
1932年2月、児玉誉士男が「井上準之助脅迫事件」で2度目の懲役から出所したとき、児玉の「急進愛国党」は「全日本愛国者共同闘争委員会」に参加していました。
「全日本愛国者共同闘争委員会」は「行地社」の幹部である狩野敏が作ったもので、「行地社」とは、大川周明、北一輝の国家主義団体である「猶存社」が解散した後の主要メンバー、満川亀太郎、笠木良明、安岡正篤、西田税、等が集まった当時最大の国家主義団体であった。
ここで児玉は狩野敏から笠木良明を紹介されたというわけです。
当時の笠木良明は満州国建国にあたり満州辺境部への「宣撫工作」を関東軍より任されていた。
笠木が代表を勤める「大雄峰会」、「自治指導部」は満州辺境まで入っていける、行動力のある若い工作員を必要としていた。
満州建国は1932年3月1日、児玉が訪問したのは直前の同年2月。
児玉の自叙伝には、笠木の部下の口田という男が満州国旗のデザインをしていた様子が書いている。
笠木良明は石原莞爾と共同で「五族協和」「王道楽土」を満州に築こうと、建国作業にのめり込んだが、あまりに理想が高すぎたため、軍部と衝突した。
自治にこだわりすぎ、満州自治指導部を解散後、満州国資政局長に就任したが、わずか4ヶ月後、1932年7月に突然解雇された。
当時、日本本土では、血盟団事件、515事件、が起こり「錦旗革命」「昭和維新」の気運が盛り上がっていた。
児玉誉士男の解説本では、児玉誉士男はこの時、じっとしてられず、笠木良明に頼み込んで、日本に帰ったと書いてある。
児玉は帰国してすぐの10月に「天行会独立青年社事件」を起こした。
ある児玉本では、この事件を515クーデターに次ぐ「10月革命」だったと言っている。
また、他の資料によると、「独立青年社」は笠木良明が7月に設立したと書いてある。
児玉はこの「天行会独立青年社事件」の後、逃走中に自殺を図った。
この「天行会独立青年社事件」の黒幕は笠木良明ではなかったのかと私は思う。
児玉誉士男のような男は決まって笠木良明のようなインテリに惹かれてしまう。
児玉誉士男の生い立ちはデタラメである。
先祖代々上杉家の家臣の家系で、父の代に福島二本松の御殿医の児玉家に養子で入ったと・・・
しかしながら、幼少期はひどい貧乏で、掘っ立て小屋に住んでた。
7才のとき母が死に、朝鮮の親戚の家に預けられ、京城商業専門学校卒業後、日本に再来日し、向島の鉄工所に住み込み、右翼活動に染まり、赤尾敏の門を叩いた。
面倒見のいい赤尾は、何も聞かずに置いてやったらしいが、たぶん赤尾は気づいていただろう、つまり児玉は朝鮮語がペラペラだったということだ。
私は児玉誉士男は在日2世だと思うのだが、あまりそこは児玉解説本では追求されていない。
ただ、後年の児玉が東声会の町井久之と非常に馬があったとか、日韓基本条約の裏交渉に非常に積極的であった事など、児玉が在日だったと思える状況証拠は数多くある。
だいたい、この児玉に徴兵検査はなかったのか?
日本人なら絶対あったであろう。
どの児玉解説本を読んでも、兵役のへの字も出てこないのは誠に疑問である。
児玉誉志男は笠木良明のような東大卒の思想家の論理的裏付けを欲しがり、どんどん自分から近づく。
狩野敏に笠木良明の紹介を頼んだのは児玉の方からである。
そして結局、北一輝と大川周明の大アジア主義に児玉誉志男は引かれていった。
右翼活動家は自分自身に自信が持てない。
だから、すぐに権威にしがみつく。
まあ、児玉のような男は、笠木良明のような思想家に駒のように使われたら終わりである。
それが証拠に、児玉は「天行会独立青年社事件」で誤爆事故を起こし逮捕されそうになったら、自殺未遂をおこしている。
あの児玉が自殺未遂である。
よっぽど笠木良明に傾倒していたのであろう。
この時、死ねなかったので、後々の児玉がある。
誠に悪運が強かったとしか言いようがない。
児玉が「天行会独立青年社事件」で3年半の懲役を終えてきたとき、真っ先に笠木良明が児玉の面倒を見たのは「天行会独立青年社事件」が笠木良明の計画だったからだろう。
笠木は当時(1937年頃)日本において大亜細亜建設協会という国粋団体で活動をしており、児玉誉士男はここで理事に名を連ねている。
そして、この時代、児玉は笠木から、外務省の情報部長の河相達夫や、上海副総領事の岩井英一、といったインテリの大物を紹介してもらっている。
児玉誉士男が3度目の懲役から帰ったのが、
1937年4月29日。
そして日中戦争が始まったのが、
1937年7月7日。
因みに第二次上海事変が勃発したのが、
1937年8月13日です。
この時期、児玉誉士男は、まずは笠木良明の元へ身を寄せる。
笠木良明は満州を追放された後、東京で国粋主義団体「大亜細亜建設協会」を創設し、機関誌「大亜細亜」を創刊していた。
この時、委員に児玉誉士男の名がある。ttps://jyunku.hatenablog.com/entry/2020/10/13/202324
笠木良明が満州国資政局を罷免されたのが1932年7月5日であり、この後すぐ「独立青年社」を創立している。
ttps://www.jacar.go.jp/glossary/gaichitonaichi/career/career.html?data=397
「独立青年社」は児玉誉士男が主犯として逮捕された「天行会独立青年社事件」の「独立青年社」である。
1932年11月5日、児玉誉士男はクーデタ未遂事件をおこして逮捕され、自殺未遂している。
同時に逮捕された天行会メンバーから、芋づる式に当時の右翼の巨頭「頭山秀三」に行き着いた。
頭山満翁の第三男である。
頭山秀三は515事件への関与で、11月5日別件として逮捕せざるを得なかったが、検察は頭山満邸への家宅捜索を敢行している。
ttps://books.google.co.jp/books?id=wzhCDAAAQBAJ&pg=PT147&lpg=PT147&dq=%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%9D%92%E5%B9%B4%E7%A4%BE+%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E7%A7%80%E4%B8%89&source=bl&ots=ha0cf6PNnC&sig=ACfU3U251hZdsBjTn4_hQ2bcDFaCWrlvlw&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjjypiS25HvAhWjIqYKHX8kCoMQ6AEwDXoECBoQAg#v=onepage&q=%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%9D%92%E5%B9%B4%E7%A4%BE%20%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E7%A7%80%E4%B8%89&f=false
つまり、笠木良明は頭山満と繋がっていた。
笠木良明は515事件に続く「昭和維新」の仕上げとしてのクーデターを計画していた事がわかる。
笠木の関連本等を読むと、とてもテロとは無縁のようにも思えるが、主と崇めていた大川周明が515事件に連座して1932年6月15日逮捕されている。
弟子である笠木良明がその意思を継ごうと思っても不思議はない。
笠木のその後の行動がそれを証明している。
彼は7月満州資政局を罷免され、独立青年社を設立している。
何かを企てているとしか思えない。
そして児玉は笠木に駒として使われたということだ。
また、この頃、北一輝の一番弟子で、猶存社にいた岩田富美夫が「大化会」という右翼団体を興していた。
岩田富美夫は「やまと新聞」という日刊紙を経営し、猶存社を通じて笠木良明とも親交があった。
児玉誉士男はこの「やまと新聞」も手伝っていた。
そして岩田富美夫を通して三浦義一とも知り合うことになる。
また、石原莞爾もこの時期、満州から舞鶴に左遷されていたため、笠木良明を通じ知り合ってる可能性もある。
ただ石原莞爾を笠木良明は蛇蝎のごとく嫌っていた。
しかしながら、石原莞爾と児玉誉士男はかなり親密な関係で、早い時期から知り合ったであろう事は間違いない。
そして、児玉が再び満州へ行くことになる。
外務省情報局の河相達夫を笠木良明が児玉誉志男に紹介したからである。
この時期に児玉の人脈は笠木良明を軸にして出来上がったというわけだ。
《続く》