南発券の謎⑦・・・児玉機関
児玉誉士男著「見えない政府」によると、
>上海の児玉機関の事務所で中国人が持ち込む儲備券を只同然で手に入れ、三井銀行を使って内地に送金して莫大な利益を上げていた・・・<
とある。
このように、児玉機関は大東亜戦争末期、暴利を貪っていたのであるが、
しかし何故、児玉機関が三井財閥と繋がるのか、知ってる人は少ないと思う。
ましてや児玉誉士男が汪兆銘の南京政府立ち上げの際の用心棒だったとか、その際の児玉の肩書きが、なんと王子製紙社員だったなんて、想像もつかないと思います。
また、児玉を辿っていくと、意外にも、以前、私がここで書いた「朝銀破綻の謎」に出てくる「河南豊作」とも交わる事にも気づきます。
河南豊作は河南工業のオーナー社長で戦中期、日本の造船業界のNo.1に上り詰めた立志伝中の人物です。
1961年「三無事件」というクーデター未遂事件を5・15事件で有名な三上卓と共に起こしています。
詳しくは下記の私の小説を読めば書いてます。
ttps://ncode.syosetu.com/n7996gg/
河南豊作が戦後行くあてのない復員兵を数多く河南工業に雇い入れたのは有名な話ですが、特に特攻隊、源田実のような愛国者が多かった。
彼らをストライキ崩しに利用するという目的もあったでしょうが、多くの右翼団体がこの河南工業で産声を上げています。
そして「三無事件」では後に北朝鮮総連本部ビル競売事件において落札者として有名になる鹿児島最福寺の川口恵観が25才で参加者しています。
彼は何度も招かれて北朝鮮にもいっていますし、在日有名人に信者も多い、恐らく北朝鮮のエージェントです。
5・15事件の首謀者の一人、犬養毅を撃った三上卓(56)は野村秋介の師匠です。この流れから血盟団テロ思想も読み取れます。
児玉誉士男、生まれたのは1911年2月18日です。
終戦時34歳、若いですね。
彼について調べていると、驚かされることが一杯あります。
まず、皆様の間でどうも物議を醸し出している、終戦時の個人資産が1億7500万ドルもあった事・・・つまり現在価値で18兆3750億円ですが、まあこれを現代の個人の感覚に馴染ませるのはやはり大変です。
児玉誉士男が上海で名前を売っていた時代、つまり1938年から1945年にかけてですが、上海には所謂「3大特務機関」というものがありました。
一つが贋札を専門に扱っていた「阪田機関」、
もう一つが、主に阿片を扱っていた「里見機関」、
そして最後の一つが軍事物資を扱ってた「児玉機関」です。
しかし、この括りは間違っています。
児玉も阪田も里見も、みんな阿片を扱っていました。
里見機関の里見甫は「電通」を実質的に作ったことでも有名ですが「情報」以外に「阿片」も扱っており、満州事変後、熱河省の阿片取り扱いを阪田誠盛から引き継いだのが里見甫です。
阪田機関の阪田誠盛は里見ほど有名ではありませんが、終戦時に1950億円の資産を中国に残しています。
当時で1,950億円・・・7000倍してみてください。
あの児玉機関でさえ、終戦時の資産が30億とか31億円だと言われていたので、この阪田誠盛はバケモノです。
当時(1945年)の日本の国家予算が200億円ですから、私の現在価値への換算レートでいきますと、なんと1,365兆円(笑)
まあ、それだけ贋札というのは、ボロ儲だったのでしょうが、ただ、この阪田誠盛、「熱河作戦」のおりには自動車会社を熱河省にもっており、土肥原機関の実行部隊だったようです。
また里見が引き継ぐ前の熱河省の阿片を取り仕切っていたようです。
しかしながら、この阪田誠盛も、里見甫も、児玉に比べると、戦後評価で逆転されてしまいます。
児玉誉士男が阪田や里見より優れていたものは何だったのか?
それは私が思うに「暴力装置」ではなかったかと思うのです。
児玉誉士男は右翼や在日ヤクザへの影響力がなぜか絶大だった・・・その源流は、1929年児玉誉士男が18歳このとき、赤尾敏の「建国会」に入会したときから始まります。
児玉誉士男がデビューしたのは、1929年18歳のときです。
「天皇直訴事件」と呼ばれています。
東北の貧しい農民の救済を訴えました。
東京赤坂見附の坂で、天皇に直訴文を渡そうとして、逮捕されました。
「請願令違反」懲役6ヶ月。
因にこのとき直訴文を書いたのは赤尾敏で、児玉はこのとき赤尾の「建国会」青年部長でした。
さて、ウォール街の大暴落が1929年10月24日、
浜口内閣が金本位制復帰決議をやったのが1929年11月22日、
ここから「昭和恐慌」が始まります。
テロ時代の到来です。
1930年11月14日、首相浜口雄幸が、玄洋社系右翼団体「愛国社」党員、佐郷屋嘉明に、東京駅で撃たれます。
この佐郷屋嘉明は血盟団指導者井上日召と共に戦後右翼団体護国団を結成、団長となる人物です。
佐郷屋嘉明は、戦後、児玉誉士夫の全日本愛国者団体会議(全愛会議)の初代議長となります。
1929年「天皇直訴事件」で懲役6ヶ月となった児玉は、
1930年、出所すると「建国会」の同士、
津久井龍雄と「急進愛国党」を結成します。
1931年5月「井上準之助脅迫爆破事件」で検挙され、
児玉誉士男、懲役5ヶ月、
津久井龍雄、懲役3ヶ月、
陸軍皇道派「桜会」を中心としたテロ未遂事件(3月事件、10月事件)が起こる。
1932年2月、児玉誉士男出所。
1932年2月9日、井上準之助蔵相、血盟団メンバー小沼正によって射殺される。
1932年3月5日、三井財閥総帥団琢磨、血盟団メンバー菱沼五郎により射殺。
1932年5月15日、5・15事件
1932年11月5日、児玉誉士男「天行会独立青年社事件」で逮捕、懲役3年6ヶ月。
「天行会」とは、頭山満翁の三男、頭山秀三が会長を勤める東亜民族の提携と武道精神の高揚を掲げる右翼団体で、
児玉誉士男は、この「天行会独立青年社事件」の主犯として逮捕された。
当時児玉誉士男21才、この若さで5・15事件の第二段といえる大規模なクーデター未遂の主犯として逮捕された。
1937年4月29日、児玉誉士男出所、若干26歳。
出所後、まず児玉に近づいたのは満鉄の笠木良明であった。
《続く》