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南発券の謎  作者: やまのしか
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南発券の謎⑤・・・特別措置定期預金制

「南発券」の謎を調べているうちに、南発券とよく似た通貨「儲備券」についても、調べないと、南発券の謎は解けないと思うに至りました。


どちらも日本軍が発行した軍票とほとんど変わらない通貨ですが、儲備券は南京の汪兆銘政権という日本の傀儡政府が作った中国儲備銀行の発行券です。


円元パーを目指して作られましたが、戦局悪化で結局、儲備券と日本銀行券の換金率100:18ということになりました。


その儲備券に関して、戦後日本で面白い裁判がありました。


大阪高等裁判所 昭和51年 (ネ)986号 裁判である。


簡単に説明しますと、なんとこれ、前に話した「外貨表示特別内地預金」についての払い戻し、及び、昭和20年7月21日に香港から内地に送金した20万円をめぐる裁判なんです。


被告は井上という人で、香港の住友銀行で1945年7月21日に京都の妻に20万円送金したそうなんです。


ところが、昭和20年7月21日当時の香港は、日本への送金に69倍の現地預金(儲備券)を積まなければいけなかった。


原告の井上さんは、香港の虹口支店に7768万円の定期預金をしたそうなんです。


これを「現地特別措置定期預金」と言うそうなんです。


例の軍事郵便貯金特別処理法

ttps://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=329AC0000000108

における換金率計算が、どのようにして使われたのかがわかる事例でした。


儲備券と日本円の換金率が100:18であり、

「特別措置定期預金」が送金額の69倍だということですから、逆算すると、当時の香港のインフレ率が出てくる。


この「特別措置定期預金」というのは「為替調整金」と同じ役割を果たしました。

つまりは「定期預金」という名の「供託金」みたいなものです。


つまり、日本に香港から20万円送金するには、

まず、日本円20万円を儲備券へ100:18の比率で換金し、

更に香港のインフレ率換算をせねばならないという事です。


(まず日本円を儲備券へ換算)20万円x100/18=111.11・・・万円


これに当時のインフレ率を掛けた額が7768万円なので、


インフレ率=7768/111.11=69.981・・・69.91倍の「特別措置定期預金」をしろという事。


20万円x100/18x69.91=7767.7万円・・・これが必要な「特別措置定期預金」


大阪高裁の記録だと、井上さんは住友銀行香港支店虹口出張所の指示で、京都支店へ20万円送金するのに、7768万円の定期預金を組んだそうです。


まさに上の計算式とピッタリ。


そして副報告書を受け取り、京都の妻へ送付した。


ところが、正報告書が京都の終戦間際の混乱で日本の住友銀行に届かず、妻は送金20万円を引き出せなかった。

ということで、井上さんは当時買う予定だった家(2万5千円)が買えなかった。

ゆえにその損害賠償と特別措置定期預金の返金の裁判を起こしていました。


裁判結果は控訴棄却で敗訴。

送金した20万円以外には1円も戻ってきませんでした。


この裁判で、当時の送金状況がわかりました。


謎①、当時の内地への送金について「現地特別措置定期預金」という、実質的な為替調整金を払わなければ、内地に送金できなかった。


これはこの判決文において《理由》として書かれています。


>以上の認定事実によるとこの「現地特別措置預金」は、預金という名称は付けられていたがその実質は被告国が主張するように「為替換算率調整金」であつたと認めるのを相当とする。<


謎②、軍事郵便為替と違い、住友銀行、横浜正金といった為替銀行の送金業務は、当時、正副2通の報告書を作って、引き出すときにその両方を必要とした。ということです。


さて、ここで「横浜正金史」を見てみるとttps://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=10160&query=&class=&d=all&page=146

「外貨表示内地特別預金制」昭和20年4月19日開始と書いています。


そこで、戦後の「軍事郵便局特別処理法」の円換算率を見てみると、儲備券を使用していた香港地域と南発券を使用していたビルマとで3500円以上の円換算率は1/432で同じだということになっています。


この1/432の計算式は当時の実際のインフレ率2400%を加味したもので、2400÷100×18=432という計算式で出せる。


つまり、1945年8月16日以降に預けられら儲備券はインフレ率を2400で計算しているが、井上さんの送金した時期は7月21日だったので、

α÷100/18=69.91

α=388.38


これは7月21日から8月16日までの間に、インフレ率が388.38%から2400%に推移したという事を表している。


そして、「軍事郵便貯金特別処理法」によると、1945年8月16日以降、ビルマも香港と同率のインフレ率を適用されてることから、7月頃のインフレ率も同じくらいだろうと推測される。


ゆえに、従軍慰安婦が横浜正金を使って内地に送金するには、69.91倍の現地預金を積まねばならなかっただろうとなる。


実際、昭和20年4月16日以降のビルマにおいて、横浜正金銀行はラングーン以外の支店は撤退しており、送金業務をいつまでやれていたのか不明である。


文玉珠さんの朝鮮への5000円送金に関し、平林久枝著「強制連行と従軍慰安婦」によると、その時期は137頁に書いてある。


 >アユタヤの病院にいたときには、母に送金もした。

 ラングーンで受け取っていた母からの電報を将校にみせて、「母の葬式に金がいるから、お金お送りたいと」というと、許可がでた。貯金からおろして5千円を送金した。<


とある。


文玉珠は5,000円をアユタヤの病院で働いているとき内地へ送っているわけで、これは日本軍のビルマ撤退の昭和20年4月26日以降である。

昭和20年4月19日より後は外地からは「現地特別措置定期預金」がないと、内地へ送金はできない。


つまり、文玉珠がアユタヤで働いてる時期に5,000円を送金するには最低でも69.91倍の349,550円の「特別措置定期預金」が必要になったであろう。


果たして文玉珠はそんな大金を持っていたか?

たぶん持っていなかった。


ゆえに、文玉珠がアユタヤでの看護士時代に内地へ送金することは、横浜正金銀行ルートでは不可能であったということになる。


となると、本当に5000円の送金をしたとなると、軍事郵便為替では5000円もの大金は無理だし、熊本郵便貯金センターの記録もない。


そうなると、やっぱり現金(南発券)を軍事封筒にいれて送ったとしか考えられない。


という事で、従軍慰安婦文玉珠の送金した5,000円の謎と軍事郵便貯金26,145円の謎は解けました。


「外貨表示内地特別預金」制度の指摘により、文玉珠が1945年4月以降、横浜正金はおろか、他の銀行を使っても、内地に送金をするのは、莫大な定期預金を供託せねばならず、不可能であっただろうという事です。


次の疑問へ進みたいと思います。


何故、大東亜戦争末期、南発券や儲備券の鞘取りを大々的にやって、大儲けしたはずの大財閥企業や軍上層部の事実は、今日になっても表に出ないのか?


あるブログに、児玉誉士男についての面白い記述がありました。

竹森久朝著「見えざる政府ー児玉誉士男とその黒の人脈」です。


>戦争中の中国では 流通通貨は三種類あった 南京政府発行の儲備券 日本軍発行の軍票 そして蒋介石政府の法幣 ところが儲備券は王政府が見境なしに乱発しすぎて 紙屑同然の価値になった 児玉は この紙屑をどこからか集めてきては 三井銀行の上海支店に預けた いくら紙屑といっても 日本円とのあいだには為替レートが一応確立されている そこで三井はこのカネを児玉の東京事務所に送金した 中国人の中には 紙屑ですから どうぞお持ち帰りくださいという者も出てくる 濡れ手にアワのこの商法で 彼の財産は雪だるま式に増えていったわけだ

竹森久朝 見えざる政府<


私カニ太郎は、この戦後の「鞘取り」に非常に興味が沸きました。


今回、文玉珠の送金や貯金にしたって、文玉珠は相場師としての発想は間違ってなかった。


もし彼女がもう少し為替を勉強していたら、ビルマからの送金で大成功したんじゃないかと私には思える。


彼女は「円」の安い地域に行き「南発券」という「特別円」を稼いだ。

1945年の4月5月だけで2万円も預金した。


児玉誉士男のようにしっかり物資に変えて隠匿すれば文玉珠は戦後大金持ちになれた。


しかし、文玉珠は暴落する南発券を安値で拾い続け、終戦を迎えてしまった。


ちゃんと内地へ送っていれば、文玉珠は勝ち組になれた。


当時彼女たち従軍慰安婦は軍属と見なされていたので、軍事郵便局は自由に使える立場だった。

「ビルマ・シンガポールの慰安所管理人の日記」を読めばよくわかる。


それならば軍事郵便為替で彼女たちでも韓国へ送金できたはずである。


ラバウルに春子と言う従軍慰安婦がいた。

彼女は、毎月100円づつ韓国へ送金してたそうだ。

戦後彼女がどうなったかはわからないが、彼女の家族は毎月100円送られてきたら、かなりの大金持ちになった事だろう。


春子に比べ、文玉珠は、愚かだったということだ。


南京事件の証言の中でも「儲備券」に関して興味深い証言がある。


軍司令部特務部員として従軍していた岡田酉二氏という東大経済学部卒の経理将校がいる。


彼のインタビューに「児玉誉士男」の名前が出てきてる箇所がある。


彼は第10軍と共に南京に一番乗りしているのだが、すでに南京の市中の銀行という銀行は略奪されていた。


すべての銀行の金庫室は開け放たれていて、紙幣は1枚も残っていなかったそうだ。


この証言は「軍人が見た南京」にインタビュー形式で記述されている。


・・・>ー中島日記には法弊を円に変えて日本に送るものもいると書かれていますが、円に変えることはできたのですか?


「上海に行けばできました。上海には租界があり、そこの通貨は法弊が中心でしたが、日本銀行券も使われていましたので、いくらでも変えられました」


ーしかし日本には送金できないでしょう。


「上海には正金銀行があったが、大蔵省財務官の承認がなければ送金はできませんでした。もっとも外務省や軍の扱う官金は別です。児玉誉士男は軍にお願いして、官金の型で内地に送金したという話を耳にしたが、恐らくそれは軍の経理部の承認で(しょう)。各部隊には経理担当将校がおり、この人の承認があれば良かったのでしょう。この経理担当に無理矢理お願いして、承認をもらう人もいたようです」


ー同盟通信の従軍記者だった前田雄二氏が回顧録で11月末蘇州で山になって散乱した法弊を日本弊は拾おうともしなかったと書いてます。中島日記によればそれから1ヶ月もたたないうちに南京では金庫破りまでして法弊を求める、ということですが、どちらが本当でしょうか?・・・<


・・・・・・・・・・・・・・・・・


このような感じである。


この証言から推察すると、児玉機関とは巷で言われている海軍航空部の資材調達以外に、上海でかなりの資金工作をしていたことがわかる。


その工作には軍高官と三井財閥が加わっていたことが前回の「黒い金脈」今回の「軍人が見た南京」でわかる。


《続く》


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