南発券の謎④・・・送金為替等取締り令
なかなか、送金制限の具体的な時期と金額がわからない。
アジア歴史資料センターのサイトで検索すると、
レファレンスコードB02032868600で、
南方占領地における為替管理資料として
「送金為替等取締り令」昭和18年1月23日通牒、昭和18年2月1日施行というものが読める。
すべて写真なので大変読みにくいが、
確かに、こう書いてある。
第二条
本邦通貨、軍票又は外国通貨を本令施行地外の地に送付又は携帯せんとする者は所轄民生部長の許可を受くべし。但し左に掲ぐる場合はこの限りにあらず。
1.軍人、軍属が軍より支給を受けたる俸給、旅費、その他の給与を携帯するとき
2.軍人、軍属以外の者が旅費に充つるため二百円相当額以下の外貨軍票を携帯するとき
とりあえずは、昭和18年2月1日からは、一般人は200円までしか送金も、携帯しての帰国も、できなかったようだ。
こうしてみると、いかに文玉珠さんが、当時5000円を韓国に送金するのが難しかったのか、よくわかる。
文玉珠さんの軍事郵便貯金の記録によると、終戦間際の1945年4月と5月で20,560円預入している。文玉珠さんの自伝によると、日本軍がビルマ撤退した後、タイのアユタヤで負傷した日本兵を看病して、チップでもらったらしい。
近い将来無価値になることがわかっていた南発券を日本軍兵士が気前よくチップとして文玉珠へ与えてくれたのであろう。
だからわずか2ヶ月で2万円も貯まったのだと思う。
日本に戻れば、この2万円は大金で東京で家一軒の価値になった。
ファンタジーを語るなら、ドラえもん「どこでもドア」があって、文玉珠が奇跡的に内地に終戦前に帰ってこれたら、その瞬間から終戦までの3ヶ月間、彼女、文玉珠は大富豪となれたでしょう。
その時、速攻でゴールドかダイヤを買っていたら、もしくは土地を買ってたら、児玉誉志夫、堤康次郎になれたかもしれない。
文玉珠が軍事郵便貯金で貯めた2万円は、それほどの価値があったということだ。
さて、それでは大蔵省の考え出した当時の「打出の小槌」である「為替差益」はどのようにして庶民からの参入をブロックしたのか見ていこう。
まず「供託金」、「軍事郵便貯金」、それぞれを深く分析しないと、為替差益のカラクリが見えてこない。
カニ太郎は「軍事郵便局」を「ブラックボックス」と呼びます。
「マネーロンダリングマシン=軍事郵便局」でもいいでしょう。
そもそも不思議に思いませんか?
なんで「南発券10ルピー」を軍事郵便局に預けると、通帳には「10円」と表示されるんでしょうか?
その通帳で内地で10円引き出すと、10円の日本銀行券に変わるのです(笑)
これが、大日本帝国大蔵省が考え出した「打出の小槌」のからくりです。
信用度の弱い南発券10ルピーを、一瞬で日本銀行券10円にマネーロンダリングしてしまう魔法のツール、それが「軍事郵便局」なのです。
ビルマ・シンガポールにおいて、日本占領前、現地通貨はすべて欧州諸国の植民地通貨であった。
海峡ドル(シンガポール)、ペソ(フィリピン)、ギルダー(インドネシア)、ルピー(ビルマ)、それぞれが宗主国の発行した植民地通貨とも日本円とも為替相場が建っていた。
海峡ドル・・・1海峡ドル:2シル4ペンス:2.01円
ペソ・・・1ペソ:50セント:2.12円
ギルダー・・・1オランダギルダー:1ギルダー:1円
ルピー・・・1ルピー:1シル6ペンス:1.287円
ところが、日本が南方植民地を占領すると、日本は軍票を現地通貨の呼び名で発行し、その換金比率を1:1とした。
日本軍は1938年9月の閣議で、軍人軍属の俸給を軍票払いにし、ビルマにおける軍人も給与は軍票で、1943年3月以降は南発券で払っていた。
ビルマの日本軍兵士は軍票で貰った給料を軍事郵便貯金に預入していた。
当時は給与振り込みはないので、このような手間をかけていた。
また内地の家族に送金するのも面倒なので、予め何割か既に家族に払われ、残りを現地通貨である軍票でもらったりしていた。
そして、日本軍兵士は慰安所へ遊びにいっていたのだ。
慰安所へは切符を買って遊びにいった。
と、ココまではいいのであるが、外で遊ぶ場合、日本兵は軍票で遊んだ。
しかし、同じルピー軍票でも、軍の外では価値が違った。
軍施設の外では日本軍の軍票はインフレでぐんと価値が落ちていた。
1943年、年初と年末で、価値は1/10に下がっていた。
為替相場がないにも関わらず、日本銀行券1円と日本軍軍票1ルピーは、実勢レートが存在してたということだ。
日本兵は給与を軍票でもらっていた。
その場で軍事郵便貯金すると10ルピーの軍票が10円の日本銀行券と化けた。
しかしラングーンの繁華街では軍票の価値がどんどん下落した。
仮に繁華街で10ルピー軍票を拾ったとして、その人間が軍事郵便局を利用できる軍属だとしたら、軍事郵便貯金する、そしたら、それは内地で引き出せば日本銀行券10円になる。
それを軍事郵便為替として内地の家族に送れば、日本銀行券10円になって家族に届くのだ。
そんな軍事郵便局は目ざとい商人には魔法のマネーロンダリングマシンに見えただろう。
軍事郵便貯金や軍事郵便為替はマネーロンダリングマシンなのだ。
ゆえに大蔵省は、現地の安い軍票が安易に内地に送金されないように、厳しい送金制限を付けていた。
「南方地域との間の送金に関する対円貨換算率に関する件」
昭和17年1月12日通達。
「送金為替等取締り令」
昭和18年1月23日通牒である。
ビルマからの送金は軍人軍属以外は1回「200円以下」に制限されたのが「送金為替等取締り令」昭和18年1月23日通牒である。
しかしながら「ビルマ・シンガポールの慰安所管理人の日記」を読むと、こんな記述がある。
昭和18年9 月 7 日火曜日、晴夕少雨天
朝、インセンの慰安所一富士の村山氏宅で起きた。
朝飯も食べずにラングーンの南方開発銀行に行き、送金の手続きを済まして、正金銀行で釜山の家内の弟の嫁である山本○連氏に弔慰金として受け取った金500円を送った。
細菌研究所に行き検疫証明を受け取るとともに検疫所で全員の検疫証明を受け取った。その後、シュエダゴン(Shwedagon)・パゴダを参拝した。
このパゴダはビルマ随一と称されるほど実に宏壮な寺刹だ。
9 月 8 日水曜日、雨天
朝、インセンの慰安所一富士の村山氏宅で起き、朝飯を食べた。野戦郵便局に行って日本の紙幣をビルマの軍票に交換してほしいと頼んだが、交換できないと言われ、平沼洋服店に行き平沼に交換してもらった。
インセンの村山氏宅に帰ってきたら、ペグーの金川氏が来ていた。夕食を食べた後、新井氏と村山氏、金川氏と一緒に、軍司令部の副官部の山添准尉の宿舎に行き山添氏を連れてインセンの一富士に戻り、遊んだ。
・・・・・・・・・・・
この日記の記述でわかることは、軍人軍属以外は送金は200円以下に「送金為替取締り令」で制限されているにも関わらず、ビルマで釜山に500円送ったとあるので、この管理人は軍属であることわかる。
次に、なんと、この人、日本円をビルマに持ち込んで、現地通貨に換金しようと軍事郵便局に持ち込んでいる。
これは普通なら密輸であるが、恐らく軍属だから可能だったのだろう。
しかし軍事郵便局から換金を断られている。
この理由がわからないのであるが、
なんと「平沼洋服店」で現地通貨に交換してもらっている。
これは不正換金だ。
平沼洋服店はモグリの両替商だとわかる。
これは犯罪なんだろうが、現地での規律が緩かった事がわかる。
たぶんブラックマーケットなんだろうけど、軍は黙認していたのだろう。
しかし、この規律の緩さでは、軍事郵便局に口座を持っている軍属は、
外でちょっと日本円を軍票に替えて、軍事郵便局で軍事郵便貯金や為替にして内地に送金すれば、楽に5倍10倍にできるではないか・・・
私は目がくらくらしてきた。
もしカニ太郎がこの時代、日本軍としてビルマにいたら、せっせと日本円を国から送ってもらって、平沼洋服店のようなモグリの換金屋で現地通貨に換金してもらって、軍事郵便為替で内地に送っている(笑)
それだけで資金は10倍に膨らむ(笑)
これが「打出の小槌」だ・・・
《続く》




