南発券の謎③・・・軍事郵便貯金特別処理法案
皆さん、おはようございます。
ttp://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/01919540515108.htm
この換算表を理解するのに、少し手間どった。
私は最初、ビルマでは換算表に従い
1500円以下は1円=1円、
1500円以上3500円までは1円=11円、
3500円以上1円=432円、
として計算していました。
更に3500円以下は無視して、
文玉珠さんの軍事郵便貯金の額を432倍すればいいのだと、
文玉珠の総金額26415円x432円をかけて換算してました。
しかしこれは間違いでした。
なんと、昨日当時昭和29年4月30日の国会答弁をネットで見つけ、ここで小野吉郎議員の発言に驚愕してしまいました。
なんと、432円とは、3500円以上の金額に関しては、1/432に減額するという意味だったのです。
ttps://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=101915256X01219540430
○政府委員(小野吉郎君) 大体十万円以内のものが大部分であります。多少それをオーバーするものがありますが、これは極く微々たる例外でありますので、まあ最高が十万円、ところがその最高十万円もパーセンテージとしては非常に少いのでありまして外地の郵便貯金に、これは野戦郵便、海軍軍用郵便所に預入せられたものではなく、一般の軍人軍属以外の同胞が郵便局に預けたものでありますが、これについて申しますと、大体今回の案で五千円まではパーで払われるような状況になつておりますが、それで行きますと、全体の約八割はこれで済むわけであります。八割ちよつと上廻りますが、そのくらいは大体額面通りパ一でもらえるというような計算であります。それを超えるものが何がしかの換算を受けるわけでありますが、これはまあ最高にいたしまして仮に十万円の貯金を持つておると仮定いたしますと、外地の貯金につきましては関東州が一円六十銭を一円に換算し、その他の地域は一円五十銭を一円、樺太はパーで行きますから、そういう関係で行きますと、仮にまあ一円五十銭を一円で行けば三分の一であります。五千円まではパーであります。残り九万五千円が三分の二になるわけであります。そういつた状況でありますので、さしたる犠牲を預入者にかけないで済むのじやないか、かように考えます。軍事貯金につきましては中国関係の預入が非常に多いのであります。北支、中支、南支が、これが全体の約九四%ばかりを占めております。而もその中で今回の換算率で行きますと、換算率の一番高いものと申しますか、中支地域でありますが、まあ二千四百分の一になるわけであります。尤も郵便貯金は終戦当時のレートで円表示になつておりますので、当時の百元を十八円に換算して通帳に記載してあります。そういつた関係で、通帳面で言えば二千四百分の一になるわけじやなく四百三十二分の一になるわけであります。これは丁度もとのものが二千四百分の一に換算される、このような結果になるわけでありますが、そういつた面で、中支方面の関係におきましては、かなり換算率によつて支払い金額は少くなりますが、これは儲備券が非常に下落をした、こういう実情に対応するものでありまして従つて仮に十万円の貯金を持つておりましても、額は非常に少くなるというような計算になるわけであります。
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文玉珠さんの軍事郵便貯金を再度計算し、昭和29年に引き出せたとしたら、
(3500円~の部分)26415÷432=61円、
(0~1500円の部分)プラス1500円、
(1500円~3500円の部分)プラス2000÷11=189円
ゆえに、189+1500+61=1750円となります。
な、な、なんと文玉珠さんの軍事郵便貯金26,415円は、
1,750円に目減りしてしまいました(笑)
たぶんこれで合ってると思います。
しかしながら、酷い非道ぶりの減額換算ですね。
当時の日本国民は良く受け入れたものです。
「日本軍従軍慰安所管理人の日記」というのがあります。
ttps://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=http://texas-daddy.com/comortwomendiary.pdf&ved=2ahUKEwjf6teeq-juAhUT62EKHUSCDYs4ChAWMAR6BAgGEAE&usg=AOvVaw2PaJ2hTJbRa85VRv2sMNr6
この日記の1月24日を読んでもらいたい。
1 月 24 日日曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市のビルマ人であるモンタン家で起きて野戦郵便局に送金をしに行ったら、兵站司令部の許可が必要だと言われ、同司令部へ行って副官に言ったら、毎日 500円以上は送金できないという。
青鳥食堂へ行って主人の大山氏に会ってみた。
銀行送金は多額でも大丈夫だが、軍政監部の許可が必要であると言われ、同監部に行って話してみた。
銀行で許可用紙を得て申し込めばいいという。
モンタンに行ってトランクを取って大山氏の経営する慰安所ラングーン会館を尋ねて宿泊の世話になった。
大原君も白水慰安所で帳場の仕事をしているが、彼に会ってみた。
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この日記が書かれたのが1943年1月24日、
文玉珠がラングーン行きの船に乗ったのが1942年7月10日、
もし文玉珠が韓国へ軍事郵便為替で5000円送れるとしたら、送金制限がなされる前でないといけない。
しかしながら、1943年1月24日には軍事郵便為替による送金は500円が上限で、しかも兵站司令部の許可が必要だった。
果たして文玉珠はいつ5000円を韓国へ送金したのだろうか?
軍事郵便為替の送金規制は、いつ始まったのだろうか?
少しずつ謎が狭まってはいる。
文玉珠がラングーン行きの船に乗ったのが1942年7月10日、
それで1942年の後半に文玉珠が5000円貯めるのは可能だろうか?
更に、この時期、まだビルマのインフレは酷くなかった。
一人1円50銭の花代で、5000円故郷へ送金するのは、半年勤務では無理だろう。
花代は楼主と折半だったようだ。
つまり一人平均0.75円、週100人相手して75円、1ヶ月4週間として300円、半年働いても1800円にしかならない。
それに契約支度金を1000円貰っていたとしても、2800円にしかならない。
つまり文玉珠が1942年中に5000円貯めて故郷朝鮮へ送金するのは、不可能であったということだ。
しかもこれは、軍事郵便局の送金規制が1943年から始まったと、大目に見ての判断である。
実際、前線の野戦軍事郵便局の場合、郵便為替による送金が500円までと規制されるのは、もっと前、つまり1942年のうちだったかもしれない。
そうなると、文玉珠さんが、故郷へ5000円送金するのは益々出来ないということになる。
《続く》