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南発券の謎  作者: やまのしか
2/19

南発券の謎②・・・軍事郵便貯金

軍事郵便貯金等特別処理法・・・


これは昭和29年10月15日以降、預金封鎖されていた郵便貯金が引き下ろせるようになった時の法律です。


まず戦後事情から・・・当時、海外からの引き揚げ者は、日本各地の税関で、信じられないことに、通帳や現金をすべて取り上げられたのだ。

国内も国民の預金は「預金封鎖」され、引き出し制限されていた。


さて、この法律での換算対称は1945年8月16日以降に預金された分である。

そして面白いのはマレー・ビルマ等の南発券使用地域からの郵便貯金は3500円以上の部分には1/432円を積して引き下ろすことができるのに、インドネシアは1/6円というところだ。


私たちはついビルマもマレーシアもインドネシアもフィリピンも同じ扱いだと思いがちだが、ビルマ・マレーに比べてインドネシアはインフレはそれほどではなかったという事だ。


前回③の解説で、私は文玉珠さんは、どうやって5000円を朝鮮に送金できたのだろうという疑問を提示したのですが、皆さんはわかりますか?


今なら、相手の銀行口座番号を知ってたら、ネットで一発で入金できてしまいますが、1944年のビルマです。

ネットどころか銀行すらなかった最前線の従軍慰安婦に、いったいどんな送金手段があったのでしょうか?


そこで私が注目したキーワードが「外貨表示内地特別預金」です。

京都大学経済学部の例のレポートで、大蔵省はビルマからの送金に強烈な制限を儲けていたと書かれていました。


そしてその1例が「預金凍結」における「内地特別預金」「外貨表示内地特別預金」というキーワードです。


残念ながら、ここまで専門的になりますと、単に「外貨表示内地特別預金」をググっても何も出てきません。

ウィキペディアにもありません。

しかしながら、いろんな学者のレポートを読んでいくと、おぼろげながらその実態が見えてきます。


そこで、ここからは、私の仮説も入る解説になりますが、私カニ太郎なりに説明します。


まず、重要なポイントは、香港での日本内地への送金の実態が1:69と書かれていた事です。京都大学のレポートで述べられていた「預金凍結」についての記述ですが、こんな文章が15pにあります。


>1945年5月華中華南の事例でいえば、送金者は送金額の69倍を現地通貨現地預金とさせられ、内地預金として受け取れるのは外貨表示地預金のわずか1/69にすぎなかった・・・<


ここでいう華中、華南というのは香港や上海、南京あたりの事で、この地域は南方開発金庫のエリアではなく、「中国中央儲備銀行」(ちょびぎんこう)のエリアです。


そしてこの儲備銀行が発券していた紙幣が通称「儲備券」(ちょびけん)である。


このほとんど軍票と変わらない紙幣は、南方開発金庫の「南発券」とならんで、戦後、多くのアジア民族を苦しめた2大紙屑であった(笑)


これらは通貨として非常に信用度が低かった。

ゆえに価値が暴落していた。

本体なら変動相場制をとって日本円との交換レートを日々変えなければいけなかったのだが、日本は円元パー固定相場にこだわった。


通貨というのは、ほっとけば自然に市場の原理で弱い通貨は売られ暴落し、強い通貨は買われますます強くなるにであるが、日本円は植民地通貨とこの変動相場制を取らずに、なんと、すべての植民地通貨と1:1の固定相場制をとっていたのだ。


これでは植民地通貨(儲備券)を日本円に両替しようとする商人が大量に出てくる。そこで、大蔵省は資金の移動を制限する事で、固定相場を維持しようとした。


ゆえに、この中国中央儲備銀行券をいくら大量に持っていても、日本に送金することはほとんどできなかった。


そして唯一送金する方法が総金額の69倍の現地預金をしなさいという「外貨表示内地特別預金」と「内地特別預金」に分ける「預金凍結」制度だ。


つまり、香港にいる日本人ビジネスマンは、日本の実家に100円送金してやるには、香港に7,000円の現地預金の口座を持たねばならなかったのだ。


なんとも、酷い制度である。

そして怪しい制度である。

どう怪しいかは、要するに軍のトップや財閥、そして皇族のような権力者は、自由に資金の移動ができたであろうと想像できるからである。


実はカニ太郎は文玉珠の本「慰安婦だった私」を読んでいない(すいません)

それで、今回、「南発券の謎」を書くにいたって、2つの大きな謎がなかなか解けなかった。


それは、①文玉珠が送った5000円とは、果たしてなんだったのか?

②果たして5000円を、どうやって朝鮮に送ったのか、という2つの謎である。


そもそも、送り方としては、当時、「郵便為替」以外に送金する手段はあったのだろうか?


当時、日本で為替を取り扱っていた金融機関は郵便局以外では銀行は「横浜正金銀行」など数社あった。

横浜正金銀行は支店がシンガポールとラングーンにあった。


さて、文玉珠さんの事をネットで調べると、彼女が預金していた金融機関は軍事郵便局であるということがわかる。

やはり朝鮮に送金した方法は「軍事郵便為替」であったのだろうと、確定していいと思う。


私はビルマから内地への送金では、徹底的に送金規制がされていたと書いた。


そんな中、一人の従軍慰安婦が、5000円朝鮮に送金することは可能なのか。


そして文玉珠の本をアマゾンでレビューを読んでいたら、面白い記述を見つけた。


>・・・彼女は軍事郵便の封筒に入れて郷里に送金している。本人は兄が使ってしまったと推測しているが、実際は朝鮮での換金は不可能である。ハイパーインフレによる為替差益の恩恵は、全く受けていない・・・<

サトぽんさんという方のレビューである。

ttps://www.amazon.co.jp/product-reviews/4816615016 


さて、ここで、大きな疑問が湧く。

軍事郵便の封筒に5000円の紙幣を入れて、郵送してもいいものだろうか?

現代では、現金を封書で送るのはダメである、まあ紙幣を2~3枚とかならバレないだろうが、ちょっと多くなったらバレる。

バレずとも、盗難等危険だから、普通はしない。

そう、だから、当時も「郵便為替」というものがあった。


う~ん、でも郵便為替で本当に送れたのか?

戦時下のビルマである、インフレ膨張してるビルマである、大蔵省の送金制限が厳しかったビルマである。


果たして「郵便為替」なら5000円送れたのだろうか?

そして、いつ頃から、送金規制が厳しくなったのだろうか?


こうやってみると、まず、簡単に文玉珠の嘘が見破れるのが、軍事封筒に5000円入れて送った、という部分である。


当時の軍事郵便のことがわかるこのサイトを見てほしい。

ttp://isokaze.blog75.fc2.com/blog-entry-3509.html

これは、ある人のアップされた昭和16年の北支派遣軍の軍事郵便ですが、「送金は為替を使用してください紙幣は没収されます」と書いてある。


やはり、当時も今も、紙幣を封書で送ってはいけないのである。


ということは、この文玉珠は、この本に嘘を書いたのでしょうか?

まあ、予想ですが、嘘ではないでしょう。

確かに5000円は送ったのでしょう。

しかしながら、それは郵便為替ではなく、彼女は違法と知りつつ、バレないことを祈って、紙幣の束を軍事封筒につめて送ったのでしょう。

もし文玉珠が5000円を郵便為替で朝鮮に送ったのなら、彼女はそう書くでしょう、嘘を書く理由はありません。


それでは、次の疑問にいきます。


運良く、その軍事郵便が朝鮮の家族に届いたとして、その紙幣は、日本銀行券だったのか?、南発券だったのですか?、という疑問です。


ここで重要なのは、ビルマに「日本銀行券」は存在してたのか?という事です。

結論から言います、ビルマには日本銀行券は流入しなかった。


ビルマ、マレー、ジャワ、フィリピン、南発券の流通してた地域は、すべからず、全エリアで猛烈なインフレを起こしていました。


大蔵省は南発券と日本銀行券の固定レート1:1という金融政策を変えなかったため、日本銀行券の現物が現地で流通することは絶対になかった。


誰が好き好んで、わざわざ価値の落ちる地域で日本銀行券を使いますか?

当時の兵隊さんの給与は6円です。

その日本銀行券をラングーンのうどん屋で使えば、理屈で言えば、かけうどん1杯で終ってしまう金額です(笑)


軍人さんの給与は日本銀行券では支払われず、日本銀行券と同価値のある軍票または南発券で支払われていた。


そして、軍の運営施設であった慰安所の料金体型の表示も、「下士官1円50銭」とか、すべて日本銀行券の価値表示であった。


つまり、南方植民地では、軍の施設内では日本銀行券の価値の円経済で回っていて、一度軍の施設の外にいけば現地経済の価値である南発券で回っていた、ということになります。


ちなみに南発券の単位はルピーで、1ルピー=1円が日本政府の公式レートでした。


すなわち、ビルマの軍人さんは、給与の何割かは家族のために内地の郵便口座に振り込ませ、何割かを現地の通貨である南発券で貰っていた。


その南発券は軍の施設内では日本銀行券と1:1の価値で流通してたが、一歩外に出れば、いきなり価値が1/30とかに下がっていた。ということです。

ちなみに1945年初は1/400だったそうです。


非常に分かりにくいが、2重経済構造の中で、日本兵は生活していた訳です。


さて、全然説明が足りないので、次回もこの続きをやります


《続く》





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