南発券の謎⑰・・・北一輝
ここで北一輝について少し考察したいと思う。
北 一輝、1883年生まれ。
戦前の日本の思想家、
社会運動家、
国家社会主義者、
二・二六事件の皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、
軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。
1883年(明治16年)4月3日、新潟県佐渡郡両津湊町(現:佐渡市両津湊)に生まれる。
1901年、上京し幸徳秋水や堺利彦ら平民社の運動に関心を持ち、社会主義思想に接近した。
森知幾が創刊した『佐渡新聞』紙上に次々と日露開戦論、国体論批判などの論文を発表、国家や帝国主義に否定的だった幸徳たちと一線を画し、国家を前提とした社会主義を構想するようになる。
国家における国民と天皇の関係に注目し『国民対皇室の歴史的観察』で「天皇は国民に近い家族のような存在だ」と述べるが、たった2日で連載中止となった。
弟れい吉が早稲田大学に入学すると、その後を追うように上京、同大学の政治経済学部生となる。
1906年(明治39年)に処女作『国体論及び純正社会主義』(『國體論及び純正社會主義』)刊行。
大日本帝国憲法における天皇制を批判したこの本は発売から5日で発禁処分となり、北自身は要注意人物とされ、警察の監視対象となった。
著書が発禁となる失意の中で、北は宮崎滔天らの革命評論社同人と知り合い、交流を深めるようになり、中国革命同盟会に入党、以後革命運動に身を投じる。
1911年(明治44年)黒龍会『時事月函』特派員記者として上海へ「宋教仁」のもとに身を寄せる。
1913年(大正2年)3月22日、農林総長であった「宋教仁」が上海北停車場で暗殺され、その犯人が孫文であると新聞に発表、上海日本総領事館の総領事有吉明に3年間の退清命令を受け帰国。
1919年(大正8年)上海にて清水行之助、岩田富美夫らと会う。
約40日の断食後に『国家改造案原理大綱』(『日本改造法案大綱』と1923年に改題)を書き上げる。
1920年(大正9年)上海を訪問した大川周明や満川亀太郎らによって帰国を要請され帰国。
1921年(大正10年)1月4日から「猶存社」の中核的存在として国家改造運動にかかわるようになる。
1923年(大正12年)「猶存社」解散。
「日本改造法案大綱」が改造社から、出版法違反なるも一部伏字で発刊された。
1926年(大正15年)安田共済生命事件。
北の子分の清水行之助が血染めの着物を着て安田生命にあらわれ、会社を威嚇した。
同年、北は十五銀行が財産を私利私欲に乱用し、経営が乱脈を極めていると攻撃するパンフレットを作製し、各方面にばらまいた。
北の影響下にある軍人、右翼からのテロを恐れた財閥は、北に対して情報料名目の賄賂を送った。
北は「堂々たる邸宅、豪華な生活」を送り「妻子三人外に女中三人、自動車運転手一人等」を賄った。
同年、宮内省怪文書事件で逮捕。
1927年(昭和2年)に保釈。
1936年(昭和11年)二・二六事件で逮捕。
1937年(昭和12年)8月14日、民間人にも関わらず、特設軍法会議で、二・二六事件の理論的指導者の内の一人とされ、死刑判決を受ける。
処刑前日、面会に訪れた弟子の馬場園義馬に対して、「日本改造法案大綱」の出版を許可しながらも、「・・・君達はもう一人前になっているのだから、あれを全部信ずる必要は無い。諸君は諸君の魂の上に立って、今後の国家の為に大体ああ云うものを実現する心持で努力すればよろしい」と告げた。
5日後の8月19日、事件の首謀者の一人とされた陸軍予備役軍人の西田税らとともに銃殺刑に処された。
満54歳没。辞世の句は「若殿に兜とられて負け戦」。
「明治維新の本義は民主主義にある」と主張し、大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判した。
すなわち、「天皇の国民」ではなく、「国民の天皇」であるとした。国家体制は、基本的人権が尊重され、言論の自由が保証され、華族や貴族院に見られる階級制度は本来存在せず、また、男女平等社会、男女共同政治参画社会など、これらが明治維新の本質ではなかったのかとして、再度、この達成に向け「維新革命」「国家改造」が必要であると主張した。
北一輝は日本を社会民主主義の国とすることを夢見ていた。
明治維新後の日本の民主化が進まないことを批判し、その原因を、「維新革命(明治維新)の民主主義」が「無計画の暴発」であったためとした。
北は、ヨーロッパの革命が新社会の理想を描いた計画的革命であったのに対して、明治維新を「維新革命は戊辰戦役において貴族主義に対する破壊を為したるのみにして、民主主義の建設は帝国憲法によりて一段落を画せられたる、二十三年間の継続運動なりとす」と書いている。
つまり、自由民権運動の23年間の運動が、維新後に民主主義の建設を行ったと論じた。
1932年(昭和7年)
2月16日、大和ホテルにおいて張景惠・臧式毅・煕洽・馬占山の四巨頭会談が開かれた。
その後、四巨頭は関東軍司令部を表敬訪問し、石原莞爾らと記念撮影をした。
この時『南無妙法蓮華経』の七文字が写されていた。
2月16日は日蓮上人の誕生日であり、このお題目は日蓮宗の信者である石原莞爾が持ち込んだものであった。
3月1日、四巨頭により『満州国建国宣言』が行われた。
ここで満州国建国における重要な委員会「東北最高行政委員会」を解説しておく。
東北最高行政委員会(別称東北行政委員会)(中国語:东北最高行政委员会)は大日本帝国が満州事変後に中国東北部に設けた傀儡機構であり、満州国建国を画策した。
東北最高行政委員会
委員長・張景恵
「建国会議」第1回会議1932年2月16日
「建国会議」第2回会議1932年2月17日
独立宣言の発表 ・ 1932年2月18日
満州国成立 ・ 1932年3月1日
奉天省長「臧式毅」、
吉林省長「煕洽」、
黒竜江省長「張景恵」、
「馬占山」の4人
「建国会議」第1回会議即ち「四巨頭会議」を関東軍が開催した。
第2回会議で、張景恵を委員長に、臧式毅、煕洽、馬占山、湯玉麟、チムトシムベロ、凌陞を委員に任命することを決定した。
東北最高行政委員会は声明「東北省区完全独立」を発表したが、湯玉麟、チムトシムベロ、凌陞は会議に出席せず、馬占山は病を理由に署名しなかった。
1932年2月25日、東北最高行政委員会は新しく作る国家の国号を「満州国」とし、
年号を「大同」とし、国家元首を「執政」と称し、国旗を「紅藍白黒満地黄五色旗」とし、
首都を新京(長春市)に置くことを決議した。
1932年3月1日、満州国が正式に成立し、東北最高行政委員会はこれにより解散した。
関東軍は12,000人、張学良軍は200,000人。
兵力で大差があったのに関東軍が満州を制圧できたのは、蒋介石から『不抵抗主義』を命じられていたからであった。蒋介石は、共産軍だけでなく汪兆銘軍とも戦っており不法な日本軍の侵略に抵抗できなかったのである。
張学良の『不抵抗主義』に乗って、昭和7年(1932)1月28日、(第一次)上海事変が突発する。
この事件、団扇太鼓を打ち鳴らす日蓮教徒が反日感情の強いタオル工場で中国市民に袋叩きにされたことが発端であった。
この事件、戦後になって、上海公使館附陸軍武官補田中隆吉 が事件を起こすよう仕組んだものだったことが判明した。
1932年2月9日、選挙への応援演説に向かう途中の道で井上準之助大蔵大臣が暗殺された。
1932年3月5日、三井財閥の総帥・団琢磨が暗殺された。
この2つの事件における暗殺者は共に数珠を隠し持っており、狂信的な日蓮教徒の集団「井上日召」率いる「血盟団」の仕業と判明した。
井上 日召(1886年 - 1967年)本名は井上 昭
日蓮宗僧侶として、いわゆる「近代日蓮主義運動」の思想的系譜に連なり、戦前の右翼テロリスト集団「血盟団」、戦後の右翼団体「護国団」の指導者を務めた。
北 一輝本名:北 輝次郎
(1883年 - 1937年)は、戦前の日本の思想家、
二・二六事件の「理論的指導者」として逮捕され、軍法会議の秘密裁判で死刑判決を受けて刑死した。
1936年に二・二六事件が発生すると、政府は事件を起こした青年将校が『日本改造法案大綱』そして「国家改造」に感化されて決起したという認識から、事件に直接関与しなかった北を逮捕した。
当時の軍部や政府は、北を「事件の理論的指導者の一人」であるとして、民間人にもかかわらず特設軍法会議にかけ、非公開・弁護人なし・一審制の上告不可のもと、事件の翌1937年(昭和12年)8月14日に、叛乱罪の首魁として死刑判決を出した。
北は、「明治維新の本義は民主主義にある」と主張し、大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判した。また『日本改造法案大綱』では、クーデター、憲法停止の後、戒厳令を敷き、強権による国家社会主義的な政体の導入を主張していた。
北一輝は、佐渡の生まれである。
そこは、日蓮が流刑された聖地である。
北は、幼少期より法華経をそらんじていた。
北一輝は妻スズと供に法華経を読誦し、この時の霊感・霊告を綴ったのが『神仏言集』である。
昭和6年9月18日の霊告は「海の上に城現はる、一城づつ現れては消える 後 虹現はる」であった。この霊告こそ、王道楽土の新しい天地”満州国”そのものであった。
日露戦争の終結以後、日本民族の満州の地へ向けた怨念執着は異常とも言える。
父祖が流した血を、何としてでもあがなわずにはおれなかったのであろう。
当時の日本人が、大連、旅順から奉天へ至る満鉄路線の、どの一駅を耳にしても血が騒いだというのは誇張ではあるまい。
故郷の地名以上の愛着をおぼえたようである。十五年戦争侵略の根底に、日本人のこの異常な‘満州執着’の感情も見落としてはならない。
北一輝に影響を受け、その宣伝者となったのが西田税であった。
西田税
(1901-1937) 昭和時代前期の国家主義者。
大川周明の行地社にはいったが、大川と対立して北一輝の門下となり国家改造運動に参加。
昭和2年士林荘を設立して天剣党規約などを配布。
五・一五事件で血盟団員に狙撃され負傷。
11年二・二六事件に連座
12年8月19日処刑された。
37歳。鳥取県出身。陸軍士官学校卒。
西田税は、発禁となった北一輝の『改造法案』をガリ版で刷って青年将校に配布し、『霊感夢告』も愛読者に伝えられたのである。
昭和10年8月12日、北一輝の影響を受けた相沢三郎中佐が、「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」と評される永田鉄山軍務局長が、刺殺される事件が起こった。
いわゆる相沢事件である。
永田鉄山は、あまりにも優秀で、かつ人望もあったため、お決まりの陸軍の内部闘争の旗頭にされてしまいます。
当時の陸軍は、天皇親政を強化し武力による国民の支配も辞さない「皇道派」と、軍内の規律統制を重視する「統制派」に分かれて勢力争いをしていました。 どちらかというと「皇道派」は現場のたたき上げの軍人が多く、「統制派」は永田などのエリート軍人が多かったようです。
ところが1935年7月に「皇道派」の重鎮・真崎甚三郎教育総監が更迭されると、永田は翌8月に、「皇道派」の相沢三郎中佐に日本刀で斬殺されてしまいます。真崎更迭を裏で画策したのが「統制派」の中心の永田だと思われたようです。
死亡時の役職は陸軍軍務局長で陸軍中将でした。陸軍の方針決定の中心人物だったことは間違いありません。
その後、「皇道派」の暴走は続き、翌1936年に二・二六事件が起こります。
永田亡きあとの「統制派」は東条英機が引き継ぎ、戦争にまっしぐらとなっていくのです。永田と東条の違いは、一にも二にも能力と人望の差でした。
東条一人に戦争開始の責任があったと言うつもりは全くないのですが、陸軍大臣として、また後の首相としての世界情勢を読む能力、日本をまとめ上げる能力は永田と雲泥の差であったと言わざるを得ません。少なくとも永田が生きていたら、もう少し戦争のやり方が変わっていたのではないかと思われます。
陸軍大学で講義した石原莞爾は、しばしば黒板に『兵法とは妙法なり』と大書きした。この妙法の意味であるが、『世界が法華経(妙法)に帰した時、理想の仏教国が完成する』という意味であり、石原莞爾の兵法は『最終世界戦争に備えるため、東洋は日蓮主義で統一すべき』とういうものであった。
この石原莞爾の思想の根源こそが、国柱会を率いる田中智學の思想であった。では、田中智學の思想とは何か?それは一言でいうと『祖師日蓮の意思を尊重せよ』であった。
日蓮の思想暦は三期に分けることができる。
第一期は、『立正安国論』の時期であり、仏法を政策として重視すべきとの思想を持つ国家権力主義者の時期である。
第二期は、佐渡に流罪になり、『観心本尊抄』の時期であり、法華経行者としての内面追及の宗教的思想家の時期である。
第三期は、身延山隠棲の時期であり『撰時抄』などの仏教予言書を記載した神秘的予言者の時期である。
田中智學が『日蓮主義』から『国体論』をねりあげ『立正安国会』を『国柱会』と改めたのは大正3年(1914)であった。
日蓮を、法華経の経句中の架空人物、上行菩薩の生まれ替りと信じる国柱会理念は、主催田中智學をその上行菩薩の再来と信じこみ、石原莞爾もまた、一点の疑念も抱こうとしなかっった。
本門とは、《法華経》を解釈するにあたり,前半の14品(14章の意味)を迹門とよび,後半の14品を本門とし,両門の関係が論じられた。
日蓮は《法華経》をもって末代(末法)への教主釈尊の救いとし,天台宗が伝統的に迹門本門を一体とする解釈を批判して,本門によってこそ《法華経》の救いが保証されるとした。
日蓮が入寂したあと、門弟たちを混乱させたのが、本門本尊・本門戒壇・本門題目の『三大秘法抄』であります。
この『三大秘法抄』については、日蓮教徒の中でもいまだに議論があるそうです。
内容については、国柱会と日蓮主義を知るためには『本門戒壇』について少し知る必要があります。
戒壇とは、戒律を身につける修行道場で、鑑真和尚が最初に東大寺につくました。
但し、この戒壇は小乗仏教の壇上で大乗仏教の戒壇は大同元年(806)に、比叡山山頂に伝教大師(最澄)が設けました。
ところが、日蓮宗は他の宗教と違って排他性が強く、伝教大師の天台宗を誹謗したので独自の戒壇を考えねばならなかったのです。
国柱会の日蓮主義は、国立の戒壇を作るべきと考えたのです。
国柱会の日蓮主義は国家の完全なる宗教化を考えていたのです。
なお、国立戒壇の考えは創価学会にもありますが、戒壇を建立する主体はあくまで日蓮門下であって国ではないことを明言しております。
昭和13年、第一近衛内閣の内閣改造で、石原莞爾とともに満州事変を起こした板垣征四郎が陸軍大臣に就任した。
次官には、東条英機が就任した。いわゆる満州グループが陸軍省を独占したかたちとなった。
この時、石原莞爾の側近で浅原健三なる人物がいた。
元無産党の代議士で『アカ』と疑われ、治安維持法で逮捕された。
しかし、浅原を起訴することは石原を疑うことになり、石原を疑うことは当時陸軍大臣であった板垣征四郎の顔に泥を塗る行為でもあった。そこで、浅原は上海追放となり、石原の逮捕は不問に付された。
この事件の背後には東条英機がいたと言われている。
浅原健三は、その後(昭和19年)、東條英機暗殺未遂事件への関与が疑われ、憲兵隊に逮捕されるが、またも釈放され、今度は那須の山奥で蟄居させられる。
戦後は、政財界の陰の実力者と噂された。
国柱会の日蓮主義とは、天皇信仰と仏教教義とを強力に接着できる不思議な教義である。