南発券の謎⑯・・・226事件①
それでは、1936年11月に起きた綏遠事件に遡ること9ヶ月前、日本近代史上最大のクーデター未遂事件、226事件について考察していこう。
1936年2月26日から2月29日にかけ、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校ら1,483名が起こしたクーデターである。
この事件の結果、岡田内閣が総辞職、廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。
陸軍内の派閥の一つである皇道派の一部青年将校は、
「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに、
元老重臣さえ殺害すれば、天皇親政が実現し、政治問題が解決すると考えていた。
当初は陸軍首脳もそのような青年将校運動を、内閣などに対する脅しが効く存在として暗に利用していた。
しかし官僚的な手続きを経て軍拡を目指す統制派が台頭し、陸軍と内閣の関係が良好になってくると、陸軍首脳は青年将校運動を目障りと考えるようになった。
そして相沢事件もあいまって陸軍首脳はこれら青年将校の多くが所属する第一師団の満州派遣を決定した。
その満州派遣の前、1936年2月26日未明、青年将校たちは兵1,483名を引き連れて決起した。
大日本帝国陸軍の高級将校の間では、明治時代の藩閥争いを源流とする派閥争いがあった。
1930年代初期までに陸軍の高級幹部たちは主に2つの非公式なグループに分かれていた。
一つは荒木貞夫大将と真崎甚三郎大将を中心とする「皇道派」
もう一つは永田鉄山少将を中心とする「統制派」であった。
皇道派は天皇を中心とする日本文化を重んじ、物質より精神を重視、反共産党主義であり、ソビエトを仮想敵国としていた(北進論)。
統制派はドイツ参謀本部の思想、ならびに第一次世界大戦の影響から中央集権化した経済、及び軍事計画(総力戦理論)技術の近代化・機械化を重視、中国への拡大を支持していた(南進論)。
荒木大将の陸軍大臣在任中は「皇道派」が陸軍の主流派となり多くのポストを占めた。
しかし荒木の辞任後、永田鉄山ら「統制派」に交替させられた。
陸軍将校は、教育歴が陸軍士官学校(陸士)止まりの者と、陸軍大学校(陸大)へ進んだ者たちの間で人事上のコースが分けられていた。
陸大出身者は将校団の中のエリートのグループを作り、陸軍省、参謀本部、教育総監部の中央機関を中心に勤務する。
一方で、陸大を出ていない将校たちは慣例上、参謀への昇進の道を断たれており、主に実施部隊の隊付将校として勤務した。
エリートコースから外れたこれらの隊付将校の多くが、高度に政治化された若手グループを作るようになっていった。
隊付将校が政治的な思想を持つに至った背景の一つには、当時の農村漁村の窮状がある。
隊付将校は、徴兵によって農村漁村から入営してくる兵たちと直に接する立場であるがゆえに、兵たちの実家の農村漁村の窮状を知り憂国の念を抱いていた。
青年将校たちは、日本が直面する多くの問題は、日本が本来あるべき国体から外れた結果だと考えた。
農村地域で広範にわたる貧困をもたらしている原因は「特権階級」が人々を搾取し、天皇を欺いて権力を奪っているためであり、それが日本を弱体化させていると考えた。
彼らの考えでは、その解決策は70年前の明治維新をモデルにした「昭和維新」を行う事であった。
すなわち青年将校たちが決起して「君側の奸」を倒すことで、再び天皇を中心とする政治に立ち返らせる。
その後、天皇陛下が、西洋的な考え方と、人々を搾取する特権階層を一掃し、国家の繁栄を回復させるだろうという考え方である。
これらの信念は当時の国粋主義者たち、特に「北一輝」の政治思想の影響を強く受けていた。
緩やかにつながった青年将校グループは大小さまざまであったが、東京圏の将校たちを中心に正式な会員が約100名ほどいたと推定されている。
その非公式のリーダーは西田税であった。