南発券の謎⑮・・・デムチュクドンロプ
1933年1月の熱河作戦以降、関東軍の中国工作の目的は、華北に独立国家を樹立することだった。
これを北支5省独立計画という、
1936年11月に起きた「綏遠事件」は、
その独立国家の一つ、内蒙古のモンゴル民族を、
東條英機の関東軍が助けるという形で引き起こされた。
1931年9月、満州事変、
1932年5月、515事件、
1932年7月、朝陽寺事件、
1933年1月、熱河作戦、
1933年5月、タンクー停戦協定、
1934年1月、米ピットマン法成立、
1935年6月、梅津・何応欽協定、
1935年6月、土肥原・秦徳純協定、
1935年11月、冀東防共自治政府、
1935年11月、冀察政務委員会、
1935年11月、法弊改革、
1936年2月、226事件、
1936年11月、綏遠事件、
1937年7月、盧溝橋事件、
1934年のピットマン法というのがある、
フランクリン・ルーズベルトの政策である、
ほとんどの歴史書で無視されているこの法律の意味がわからないと、
当時の中国華北地方で何が起こったのか、
本当に理解することは出来ないと思う、
1934年1月の米ピットマン法が成立した、
これは米国による銀買上げ(銀価格の吊り上げ)の法律である、
当時、銀価格の低迷に苦しんでいた銀生産地アメリカ西部7州(アリゾナ、カリフォルニア、コロラド、アイダホ、モンタナ、ネバダ、ユタ)、が、
連邦政府に働きかけ無理やり銀を買い上げさせた法律である、
これにより世界恐慌の影響で下落が続いていた銀の国際価格が反騰した、
銀を米国にもっていけば高値で買い取ってもらえるのだから、
大量の銀が中国から米国へ流出した、
中国国内の銀流通総量の3分の1にもなる銀が国外に出た、
中国の貨幣供給量は一気に収縮し、
中国経済は深刻なデフレーションに陥って株価は暴落、
小銀行や工場、商店が相次いで閉鎖に追い込まれた、
銀恐慌に陥ったのだ、
中華民国政府は応急的、
一時しのぎ的な対処ではなく、
大胆で根源的な策を採った、
1935年11月、約500年続いた銀本位制度を捨て去る幣制改革を断行したのだ、
これが「法弊改革」である、
そしてそれは世界のある地域の新国家を直撃した、
隣の満州国である、
国民党政府の「法弊改革」は満州国通貨を直撃したのだ、
華北の人々は米英通貨に裏付けされた法弊を好んだ、
満州円は対法弊で売られた、
関東軍は満州国経済の防衛のためにも、
円安を阻止せねばならなかった
華北北支独立を急がねばならない状況に追い込まれた、
それが、この頃立て続けに結ばれた2つの協定である。
1935年6月、梅津・何応欽協定、
1935年6月、土肥原・秦徳純協定、
梅津・何応欽協定とは、
天津の日本軍司令官梅津美治郎陸軍中将と、
北平軍事分会委員長何応欽との間に締結された協定である、
北平とは北京のことで、
天津の日本軍とは支那駐屯軍のことである、
国民革命軍第51軍が河北省を撤退した、
土肥原・秦徳純協定は、
1935年6月に発生した張北事件に端を発し、
国民革命軍第29軍のチャハル省撤を取り決めた協定である。
関東軍はまずは華北より国民党軍隊を撤退させた。
対する蒋介石は、
1935年11月「冀察政務委員会設立」
チャハル省を北京防衛の緩衝地帯とした。
1936年11月「綏遠事件」が勃発した。
綏遠事件を起こしたのは、
内蒙古、徳王と土肥原賢二である。
関東軍司令部付、奉天特務機関、ハルビン特務機関長であった土肥原賢二は、
甘粕正彦を使って愛新覚羅溥儀の天津脱出を画策実行した人物であり、
華北分離工作を推進し、土肥原・秦徳純協定を締結し、
河北省に冀東防共自治政府を成立させた、
「満州のローレンス」と畏怖された将軍であった。
土肥原賢二は満州事変後、板垣征四郎、甘粕正彦と北支分離独立工作に邁進し、当時の北支5省を支配していた各々の軍閥を、
蒋介石の国民党には統合させず、
個別に撃破する計画をたてた。
しかし大本営陸軍省参謀本部は関東軍の北支分離独立工作には反対であった、
北支のことは天津駐屯軍に任せるよう関東軍に厳命した。
しかし関東軍は土肥原賢二を天津駐屯軍に出向させ、
大本営の意向を無視し北支分離工作を進めた。
もともと関東軍は3月事件(クーデター未遂)(1931年)でもわかるように、
参謀本部からの独立志向が強かった。
土肥原賢二と板垣征四郎は陸軍士官学校の同期であり、
北支に第二満州国を建設することを夢見ていた、
そこに甘粕正彦、東条英機が加わった、
1935年10月東条英機が満州に赴任すると、
関東軍は具体的な北支工作を開始した、
内蒙古、徳王の自治独立運動を背後から煽り、
徳王と東条英機が密約を結び、すいえん省へ侵攻を開始したのだ。
1936年11月徳王のもと、
内蒙軍が関東軍の後援によって綏遠省に進出した、
工作責任者は田中隆吉中佐であった。
内蒙古軍は、綏遠省主席の傅作義率いる綏遠軍と激突した。
内蒙古軍は、日本製の武器を使用し、
小濱氏善予備役大佐以下十数人の日本人顧問も従軍しており、
田中隆吉中佐が現地で直接作戦を指導した。
11月15日以来、内蒙軍・王英の騎兵は「大漢義勇軍」と称し、
「東亜より共産党と国民党を駆逐すべし」との出師の表を発表した。
11月17日、徳王も蹶起、防共戦であると宣言。
内蒙軍の王英軍は11月中旬、関東軍飛行隊支援の下に攻撃を開始した。
しかし綏遠軍の逆襲を受けて、逆に綏遠軍に百霊廟を占領されてしまった。
徳王は約4000の金甲山部隊をもって、
12月3日から百廟霊南方の綏遠軍を攻撃したが、こちらも敗退。
内蒙軍を撃破した綏遠軍は、12月10日にはシラムリンを占領した。
内蒙軍の一部が反乱を起こし、軍事顧問の小濱大佐以下日本人軍事顧問団は射殺され、内蒙軍は綏遠軍に投降した。
内蒙軍は大敗した。
11月21日、日本の外務省から本事件は中国内政問題であり、
帝国関知せずとの非公式宣言をなした。
11月27日、関東軍は防共の立場から大なる関心を有し、
事態波及の場合の決意を当局談をもって発表した。
二重外交である。
内蒙古の分離独立に失敗した関東軍は、
1937年7月7日、盧溝橋事件をおこした。
北支分離独立への武力介入である、
日中は全面戦争に突入した。




