南発券の謎⑭・・・朝陽寺事件
石本権四郎・・・このウィキペディアにも乗っていない関東軍の特務機関工作員には有名な兄がいて、名を「石本鏆太郎」という。
この石本鏆太郎、元台湾総督府専売局翻訳官であり、後藤新平の腹心の部下であった。
台湾の専売局といえば、後藤新平によって免許制とされた「阿片」が有名である。
当時、台湾では阿片が蔓延しており多くの中毒者がいた。
後藤新平はまず、阿片に高率の税をかけ、購入しにくくさせるとともに吸引を免許制とした。
次第に常習者を減らしていく方法だ。
ウィキペディアでは、この後藤の阿片政策を好意的に表現してあるが、現実はそんな綺麗事ではなく、阿片の売上げを台湾インフラ整備に織り込んでいた。
阿片専売制は儲かるのだ。
阿片は巨大な利権となり、収入源となって台湾財政を潤した。
1906年、後藤新平は台湾での成功を買われて、南満洲鉄道初代総裁に就任した。
後藤は拠点を大連におき、満洲経営に乗り出した。
石本鏆太郎は後藤新平に請われ大連へ赴いた。
関東州民政署満州利源調査委員、関東都督府事務嘱託を歴任し、阿片製造販売業で巨万の富を得た。
満州阿片専売制度は後藤新平と石本鏆太郎の利権と化したということだ。
石本鏆太郎は阿片専売のお大尽様として大連市長を務め、高知県から衆議院議員を2期つとめた。
さて「朝陽寺事件」である。
関東軍嘱託少尉石本権四郎は石本鏆太郎の実弟である。
昭和7年(1932年)7月17日、権四郎が消息を絶った。
錦州の軍部当局の必死の捜索により、昭和8年(1933年)3月18日朝、朝陽東方四キロ大凌河左岸地区の部落二旗営子において、権四郎は無残な惨殺死体となって発見された。
石本権四郎は当時、関東軍の阿片工作に携わっていた。
阿片の売買を巡って張学良派の熱河軍旅長「董福亭」、
及び偽勇軍「李海峰」に殺されたらしい。
1933年1月、熱河作戦が発せられた。
朝陽寺事件から5か月後である、
石本権四郎は「張学良」からの命で監禁を一層厳重にされた。
「石本権四郎監禁事件」と関東軍の「熱河攻略」は度々取引材料とされ、
関東軍に逮捕された偽勇軍首領と交換などの話が持ち上がった。
しかし、熱河作戦がいよいよ拡大せしめた二月末、
関東軍がいよいよ熱河討伐の軍を進め北票に向った頃、
董福亭軍は逃走し、足手まといとなった石本氏を殺したものと思われる。
以上が「朝陽寺事件」のあらましである。
この事件の重要点は関東軍嘱託少尉「石本権四郎」は、
満州阿片利権の総元締め「石本鏆太郎」の実弟であり、
石本権四郎は阿片実務にたけた、
裏社会にも通じた専門の特務工作員であった。
関東軍からの依頼で熱河省の実力者「湯玉麟」との阿片交渉に当たっていた最中にトラブルに見舞われたということだ。
「古海忠之」という人物がいる。
東大法学部卒の大蔵官僚であり、
後の「満州国の副総理」と呼ばれ、
星野直樹、岸信介をバックに石原莞爾を蹴落とした張本人である。
甘粕正彦の片腕であり、
阿片の専売体制設立に大きく関与し、
里見甫の親友でもあった。
戦後、
中国の軍事裁判でシベリア送りとなり、
18年後帰国を果たした末、国会議員に立候補したが落選した人物である。
彼が著書でこう述べている。
「関東軍が亜片産地たる熱河省を侵攻すると同時に、亜片政策は財政収入確保の緊急必要を理由とし、早くも採用せられることになった」
岸信介の忠実な部下だった古海忠之は、またこうも述べている。
「満洲国というのは、関東軍の機密費作りの巨大な装置だった、とみていますが、満洲国のみならず、陸軍がアジア各地で広汎な活動ができたのも、満洲国が吸い上げる資金をつぎ込めたからだともいわれています。基本的な資金源はアヘンでした」
この証言を信じると、
やはり熱河作戦は、熱河省のアヘン確保が第一目的の作戦だったのかと思う。
そして、古海忠之が語った重要なこと、
つまり「いったいこの方針は、誰が筋を描いていたのか」に対するひとつの答えが書いてあった。
古海によると、岸信介が満州国政府の高官だった1930年代後半、
岸信介と甘粕正彦を中心に古海忠之らを加えた約10人が会を作っていた。
会の名はなかったが、そこでアジア政策をどうするか、
日本での情宣活動はどうあるべきかが話し合われた。
会は単なる懇談に止まらず、具体的な行動もとった。
日本内地の新聞の乗っ取りを企てたり、
甘粕正彦による排英工作を支援したりした。
・・・つまり、満州事変を拡大させ熱河作戦を強行したのは、
この名もない10人ほどの「会」であった。
メンバーは、甘粕正彦、岸信介、古海忠之・・・
従来、熱河省では1921年にケシの栽培が解禁され、
アヘン吸飲も規制されていなかったため、
日本人の阿片業者、栽培人はほとんどいなかった。
そのため、従来日本が戦争開始の口実として使っていた「日本居留民の保護」という名分では、関東軍は熱河に侵攻することは難しかった。
そのため、熱河省支配者の「湯玉麟」の名前を、
「満州国」の建国宣言に加えたり、
「熱河省長兼熱河軍区司令」という肩書きを与えたりして、
「満州国」の体制になんとか組み込もうとした。
しかし「湯玉麟」はなかなか乗ってこなかった。
関東軍はすぐに熱河に侵攻することは難しいと判断し、
「湯玉麟」を通じて熱河省を満州国に取り込む方針を採った。
「湯玉麟」との交渉に任命されたのが「石本権四郎」であった。
彼はかつて大量のペルシャアヘンを中国人商人へ売下げたという功績があり、
その功績に対する見返りとして、熱河アヘンの取り扱いを関東軍より任された。
即ち彼は「湯玉麟」と個人的に交際があった。
熱河アヘンの買い付けに行く者として適任だった。
石本権四郎は関東軍より命を受けて4月半ばに「湯玉麟」との交渉のため承徳に向けて奉天を発つと、7月のはじめには買い付け交渉は成功した。
ところが、交渉が成功し帰路の17日、
朝陽寺で「湯玉麟」とは別の義勇軍に拉致された。
この拉致事件を「朝陽寺事件」という。
「朝陽寺事件」は熱河省のなかで「湯玉麟」でもコントロールできない、
反満抗日の義勇軍がいるということを示していた。
彼らは張学良の部下で、
石本権四郎が「満州国」側の代理人だと知った張学良が、
石本権四郎を拉致してアヘン計画を頓挫させようと狙ったものだ。
石本の拉致は満州国と熱河の間に軍事的緊張を生み出した。
石本救出のために関東軍は熱河に侵入すると熱河軍と小競り合いが起きたが、
満州国は湯玉麟政権と「石本の釈放」と、
「北票支線の交通統制」の約束を取り付けると、
7月22日に朝陽寺から撤兵した。
しかし石本権四郎は解放されず、
8月19日に直接交渉に向かった満州国の一団が汽車で襲撃されると、
悪化する熱河情勢の中、もはや石本の救出はあきらめざるを得なくなった。
この事件は熱河省における張学良の影響力の強さ、
阿片売買における張学良の影響力の大きさを知らしめした。
1933年1月1日、熱河作戦が開始され、関東軍は熱河制圧へ乗り出した。
このタイミングを見ると、「朝陽寺事件」によって関東軍の熱河省における阿片工作が行き詰まったのが、熱河作戦の引き金を引いたと見て間違いではないであろう。
ちなみに、熱河作戦は大成功し、1933年5月31日「タンクー停戦協定」を結ぶ運びとなった。
熱河省の阿片利権は張学良から完全に関東軍の管理となり、
土肥原機関の阪田誠盛へと任された。
《続く》