南発券の謎⑬・・・法弊と北支独立運動
①南発券の原型は儲備券。
②儲備券の原型は聯合券。
③聯合券の原型は満州中央銀行券である。
もともと銀本位制だった中国が、
米英の協力で管理通貨制度に移行したのが
1935年11月4日。
これと呼応するように、
日本でも、満州銀行券が管理通貨となった
1935年11月4日。
つまり、満州中央銀行券も法弊も管理通貨となり、
中国と日本の通貨ガチンコ勝負となった。
しかしながら、満州経済に詳しい安冨歩(東大教授)によると、
満州国通貨は常に下落圧力により、裏付けとなる準備正貨3割を維持するのが大変だった、と著書で述べている。
最初、英国は満州国を認める代わりに、中国の法弊の共同改革を提案していた。
しかし、広田弘毅はこれを断った。
理由はわからないが、ロスチャイルドの通貨政策を甘く見ていたようだ。
つまり、無理だとたかをくくっていたということだ。
義和団事件以来、天津に駐屯している支那駐屯軍「天津軍」が「法弊改革」について報告をあげている。
「思いのほか順調のようである」だそうだ。
中国民衆は「法弊」を信任したということだ。
さて、満州中央銀行が成立した1932年から法弊改革の1935年にかけて、中国華北で、日本は多くの重要行動を起こしている。時系列にしてみた。
①満州事変(1931,9,18)、
②満州国建国(1932,3,1)
③満州中央銀行設立(1932,7,1)、
④熱河作戦(1933,1,1)、
⑤タンクー停戦協定(1933,5,31)・・・満州事変終結
⑥梅津・何応欽協定(1935,6,10)・・・中国軍の河北省からの撤退
⑦土肥原・秦徳純協定(1935,6,27)・・・国民党諸機関の察哈爾省からの撤退、
⑧中国法弊改革(1935,11,4)
⑨満州中央銀行管理通貨制度移行(1935,11,4)
⑩冀東防共自治政府設立(1935,11,25)、
⑪冀察政務委員会設立(1935,12,18)、
これを見るとわかるように、日本が熱河省の次に欲しがったのは(チャハル省)と(河北省)である。
つまり華北5省(チャハル省、スイエン省、河北省、山西省、山東省)分離計画、があったということだ。
ここで重要なのは、日本国政府、軍部中央、は戦線不拡大方針であったはずなのに、何故、関東軍は河北省やチャハル省へ、手を伸ばしたのだろうか?
実を言えば、北支独立運動を裏で工作していたのは天津軍(支那駐屯軍)であった。
土肥原機関は関東軍から天津軍へ貸し出されていた。
私の見たところ、土肥原機関が計画していた北支独立運動(第二満州国建国計画)は、いいところまでいっていた。
「冀東防共自治政府」こちらは河北省の東側の万里の長城南側、面積にして北海道ほどの広さの自治省であり、日本の傀儡自治省であった。
「冀察政務委員会」は河北省の残りと、隣接するチャハル省全部を含んだ国民政府の傀儡自治であった。
万里の長城は北京を守るため北側東西に延々と延びる壁であり、その北側が満州国であり、日本政府と軍部中央は万里の長城を越えない方針であった、ということだ。
しかしながら万里の長城南側で自治運動が起こった。
華北自治運動とは、華北分離をスローガンとする、誠に日本にとっては都合のよい自治運動だ。
減税とか叫んではいるが、バックで糸を引いていたのは、土肥原機関である。
「万里の長城は決して越えない」と参謀本部は言っていた。
土肥原賢二というのは、満州国建国工作のとき、溥儀を天津から脱出させたときの責任者で、甘粕正彦、阪田誠盛はその部下であった。
溥儀脱出工作で「満州のロレンス」と名声を得た土肥原賢二は、華北分離工作でも自治運動工作を指導していた。
ここで重要なのは、国民党政府の法弊改革に対抗して、華北分離工作が進行していることだ。
法弊改革は、1934年6月19日、米国の銀買い上げ法成立により始まった。
農村からは銀が上海に集まるようになると、日本は銀の移動を禁止した。
そして、傀儡自治省を作り分離独立を狙った。
「冀東防共自治政府」「冀察政務委員会」は日中の緩衝地帯という役目以上に、華北からの銀の流出を防ぐという目的があった。
法弊改革が完成する前に、華北を分離独立させてしまおうという腹だ。
1935年11月4日、法弊改革が実施され、華北分離工作は間に合わなかった。
1935年11月25日「冀東防共自治政府」が成立した。
国民党政府はこれに対抗し「冀察政務委員会」を設立させ、北京、天津を円系通貨圏になることから守った。
満州国通貨の下落リスクにさらされた日本は、華北へ武力行使を行った。
法弊改革から4か月後、1936年2月26日
「226事件」は、そのような状況下で勃発した。
この事件は軍予算縮小を唱えだした高橋是清を排除するのが目標だった。
さて、226事件の後、広田弘毅内閣→近衛文麿内閣となったが、華北の通貨戦争の途中で、関東軍が何故、万里の長城を越えて、敢えて支那事変を起こさねばならなかったのか・・・
中国の奉幣改革・・・・・1935年11月4日、
↓
冀東防共自治政府成立・・1935年11月25日、
↓
冀察政務委員会成立・・・1935年12月18日、
↓
226事件・・・・・・・・1936年2月26日、
↓
広田弘毅内閣成立・・・・1936年3月9日、
↓
第一次近衛文麿内閣成立・1937年6月4日、
↓
盧溝橋事件・・・・・・・1937年7月7日、
このような動きのわけである。
何故、盧溝橋事件は起きたのか?
226事件で、軍の大敵、予算縮小派の高橋是清は暗殺された。
つまり、関東軍は、取りあえず予算削減されずに済んだわけだ。
私には東条英機と板垣征四郎が機密費欲しさにチャハル省の阿片が欲しかったとはどうしても思えない。
関東軍が機密費欲しさに勝手に戦争を始めるものだろうか?
阿片売買は国際法違反である。
そんなリスクを犯してまで、関東軍が勝手に軍事行動を起こすだろうか。
東條も板垣もそこまでアホではない。
それでは何が関東軍に万里の長城を越えさせて、支那事変を起こさせたのか?
阿片目的でないとすると、他に推測できる理由は2つ。
ひとつは、円経済圏を守るため。
満州国通貨には常に下落リスクがあった。
隣接する華北で奉幣の信用を失墜させようと、北京、天津へ、軍事進行した・・・とする説。
これでいくと、盧溝橋事件の黒幕は、満州財閥という事になる。
あと満州経済官僚。
つまりは「ニキサンスケ」財界の欲と、閣僚の保身が、盧溝橋事件を起こした。
そしてもうひとつは、黒幕ソビエト連邦説。
対ドイツ戦のため、関東軍と中国に戦争させたかった。
ゆえに、スパイが盧溝橋事件に踏み切らせた。
226事件で北進派だった皇道派が結果的に粛清されたが、全てが計画されたことだった、という説だ。
ソビエト大使であった広田弘毅が次の内閣を作った事も計画通り、近衛文麿がソビエトのスパイだったと戦後言われている噂も本当だったということになる。
226事件で結果的に得した統制派は、南進政策を掲げ支那事変を起こし、ゾルゲというソビエトのスパイ網が軍部深くまで浸透し、対米戦まで日本を誘導した。
どうも、この辺りも、深く掘り下げる必要がありそうだ。
近衛文麿のスパイ疑惑に行く前に、どうしても納得いかない「熱河作戦」に関して、もう少し掘り下げたい。
1932年10月2日、リットン調査団が報告書を世界に公表。
1933年1月1日、「熱河作戦」開始
1933年3月27日、日本が国際連盟を脱退。
要するに日本は、リットン報告書をもとに、国際連盟脱退するかどうかの瀬戸際外交をしてる最中に熱河省に侵攻しているのだ。
こんなことをすれば、国際的に孤立するのは目に見えているのに、なぜ、このような行動に出たのか。
そこまでして、熱河省に侵攻したかった理由は何か。
ここが重要である。
熱河省は満州国西方下部に隣接する面積が19万平方キロ(日本の面積の約半分)程度の土地である。
内蒙古に分類され、省都は承徳という。
承徳は、昔から清朝の離宮としても有名で、世界遺産、避暑山荘や外八廟がある。
北京の北、万里の長城の北側に接するため、満州の一部と考えられていたことから、1932年3月1日満州国建国の際は、熱河省は満州国に含まれると日本側は主張していた。
つまり、熱河作戦は侵攻ではなく制圧という感覚なのである。
しかし、当時の状況は、かつての張作霖の部下、湯玉麟なる人物が、張学良の部下でありにもかかわらず、独自の軍閥を作り熱河省を治めており、満州国独立宣言にも署名していた事から関東軍とは協力関係にあったようである。
しかし、どうやら関東軍に従順ではなかった。
満州事変の際、奉天軍閥であった張学良は、大した抵抗もなく北京へ逃げたが、張学良軍の残党の多くを熱河省に残した。
阿片事業を守るためである。
当時、熱河省では阿片売買は合法であり、張学良は華北一帯に阿片の販売網を持っていた。
つまり関東軍は満州事変において、本来なら制圧せねばならなかった熱河省を、
制圧できぬまま、東北三省だけを制圧し、満州国を建国を宣言したという事だ。
既存の歴史書にはスルーされている事件で「朝陽寺事件」というのがある。
ウィキペディアにも載っていない。
この「朝陽寺事件」の被害者、関東軍特務機関、石本権四郎なる人物、当時の関東軍における阿片のバイヤーの第一人者であった。
つまり、関東軍は熱河省における張学良の勢力を撲滅し、張学良の資金源である阿片利権を取り上げるため、特務機関、石本権四郎に工作を命じていた。
つまり、熱河作戦は張学良の資金源であるアヘン利権を奪うのが目的であった、決して熱河アヘンが欲しかったわけではない、あくまでも張学良との抗争の一環であった。
そんなとき「朝陽寺事件」が起きた。
1932年7月17日、関東軍嘱託の石本権四郎が熱河省内朝陽寺で拉致される事件、これが「朝陽寺事件」である。
《続く》