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南発券の謎  作者: やまのしか
12/19

南発券の謎⑫・・・法弊改革

1935年11月3日、蒋介石南京政府が法弊改革を断行した。

この改革は、中国国民党が中国全土を経済的に支配することを意味する。


華北独立によって経済支配を狙っていた日本の財界は、法弊による通貨支配を絶対阻止せねばならなかった。


日本はすぐに4次に及ぶ法弊妨害通貨工作を行ったわけであるが、最初の通貨工作が失敗すると、シナ事変に突入し平和的解決を諦めてしまった。


第2次通貨工作は1936年2月26日の226事件直後であり、北進派である皇道派が粛清され統制派が仕切っていた。


つまり、226事件は通貨工作を失敗した財閥が、軍を動かして国民党の経済支配阻止を狙ったプロジェクトであった。


因みに4回にわたる北支の通貨工作を見てみよう。


《第1次通貨工作》 

法幣制度が発布した3週間後の1935年11月25日、華北において「冀東防共自治政府」、同30日には「冀察政務委員会」という2つの傀儡政権が成立した。


1936年5月「冀察政務委員経済委員会」は「河北省銀行」に新紙幣を発行させ「冀東防共自治政府」は、首都通州に「冀東銀行」を設立させた。


日本の造幣局で紙幣の製造を行い、朝鮮銀行において、無制限の交換できるようにした。


しかし「冀東銀行券」「河北省銀行券」は信用されず、使用したのは「冀東防共自治政府」のみであった。


「冀察政務委員会」「河北省」「山東省」の各将軍は日本側の命令を無視し法弊を使い続けた。


第1次通貨工作は失敗した。


「冀東銀行」まで設立し「満州興業銀行・朝鮮銀行・日銀」まで巻き込んだ大規模な対通貨工作は、冀察政務委員会の宋哲元将軍に裏切られ、土肥原機関にとって初の敗北であった。



《第2次通貨工作》 

1937年7月7日支那事変がおきた。


日本軍は朝鮮銀行天津支店で発行していた朝鮮銀行券を流用した。


さしあって、1千万円の朝鮮銀行券を発行した。


しかし、朝鮮銀行券は外貨との交換ができない通貨であり、ガソリン等の買い付けができなかった。


また、通貨には日本円なり法幣などの中国通貨等の正貨の引き当てが不可欠であるが、なんの用意もなかった朝鮮銀行券は信用されず当然のように下落した。


朝鮮銀行券は使用に耐えられず、日本軍は法幣を使わざるをえなくなり、またも通貨工作は失敗した。


日本軍は戦闘には勝ったが、通貨面ではにっちもさっちもいかない状況になった。



《第3次通貨工作》

河北省銀行券を流通させるため、綿花の買い付けを河北券に限ると通達を出す。


綿花商人は金票を河北券に替えたが、奥地の農家とは法幣でないと取引してもらえない状態が続く。


綿花商人は、しかたなく手持ちの河北券を法幣である中国、交通の両銀行券に兌換した上で商売しなくてはならなかった。


中国での銀行の決済も中国、交通の両銀行でのみ行われるので、中国、交通の両銀行券兌換した河北券は、中国・交通なりの河北省銀行の預金高から切り落とされ、河北券は河北銀行に返却された。


よって、河北券は一部に流通するのみで終わり、河北銀行には中国、交通の両行から返却された河北券が山のように詰まれ、またもや敗北した。



《第4次通貨工作》

1937年11月22日「華北連合銀行(仮称)設立要網」を閣議決定した。


北京・天津を中心とした華北地域に中央銀行を設立する案を作成、南京攻略の目処がたった12月14日に王克敏を行政委員長とした中華民国臨時政府を設立。


法幣によってもたらされたいた円安の為替を中国元の等価まで戻す「円元パー」政策が取られた。


この決定が下された中国連合準備銀行条例が公布された昭和1938年2月5日時点では、日本円120円=中国元100元であった。


朝鮮銀行を使って多量の円を買い、連銀オープンの前日の3月9日には、為替市場では、日本円100円=中国元100元の円元等価の「円元パー」に成功する。


1938年3月10日に北京を本店、天津を支店とした、中国聯合準備銀行がオープンした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


このように中国連合準備銀行がオープンするまで関東軍は北支において4回にわたる通貨工作をやった。


「連銀券」は北支流通に成功した。


今日の感覚で考えれば、中国民衆がドルやポンドに守られた法弊の方が、日本円よりも将来的リスクが少ないと判断したのは当然である。

しかし、日本軍の軍事的優位な中、なかなか日本円を信用しなかった中華商人は大したものである。


法弊改革、1935年11月3日、

226事件、 1936年2月26日、


このわずか4ヶ月の間に、


1935年11月25日、「冀東防共自治区」成立、

1935年12月18日、「冀察政務委員会」成立、


と二つの自治政府が成立した。


蒋介石の法弊改革は成功し銀本位制から管理通貨制への移行した。


北京、天津、等、北支の経済制覇を狙っていた日本財界は、北支の通貨改革を妨害したが、米英に裏付けされた法弊の威力はすさまじく、日本は軍事力で、北支5省の分離計画を実行することを決意した。


ここで、日本というのが、三井等の旧財閥は陸軍参謀本部にいる中国戦線不拡大を主張する勢力を削ぐ方針を下す。

これが俗に言われる皇道派粛清である。


よく226事件は「皇道派」VS「統制派」だと言われているが、本質はそうではなく、拡大経済派VS財政規律派の争いであった。


一般的に派閥抗争というものはパトロンの奪い合いだ。


226事件と言えば、まずは、1935年8月12日、統制派のリーダー永田鉄山が白昼、軍務局長室で相沢中佐に日本刀で殺害される。


永田鉄山のライバル小幡敏史郎は皇道派のリーダーだが、二人は陸軍士官学校16期同期で、仲も良く、陸軍3羽ガラスなどともいわれ、どうも小幡敏四郎と永田鉄山の議論が派閥で殺し会うほどの代物じゃない気がしてならない。


そもそも皇道派と統制派のイデオロギーに、そんな大きな違いはあるのだろうか?

私に言わせれば、どっちも社会主義だ。


北一輝は226事件の首謀者の一人として処刑された。


北一輝が三井から盆暮れに1万円づつ活動し金をもらっていたことは、ウィキペディア226事件にも書いてるし、他の文献にも多く記述されていて有名だ。


価値にして1万円は平成25年の7000万円だと書いてある。


さて、ジョン・G・ロバート著「三井」によれば、1932年2月、団琢磨が血盟団に暗殺されて以降、三井総帥の池田成彬は自分も標的であったことを知って、それ以降、北一輝やそれに連なる右翼に活動し金を配るようにしていた。


自然と三井は右翼に意見が言える立場になるのは自然のなり行きである。


三井のライバルといえば、三菱ではなく新興財閥である。


旧財閥というのは、三井、三菱、住友、安田、であり、

新興財閥は大陸に地盤を移した日産コンツェルン、日窒コンツェルンといった「ニキサンスケ」関連財閥・・・


つまり満州鉄道関連のグループの政財官・・・

東条英機、岸信介、松岡洋右、鮎川儀助、星野直樹、である。


三井が戦時中に大量の阿片貿易をしていたことは、三井自身が認めている。


1990年に三井物産は1940年当時の業務日誌を公開した。


三井物産(株)によるイラン産阿片の輸入


時期、  箱数、  ポンド、 金額(円)、 売却先

1938年4月、  428、68,480、2,808,000、上海維新政府

1939年1月、  972、155,520、4,677,264、 同上

1939年4月26日、1,000、160,000、4,114,286、中支アヘン局

1939年10月、  1,000、160,000、4,812,000、同上

1940年10月26日、500、80,000、2,469,136、同上

1940年11~12月、500、80,000、2,291,000、同上

合計、    4,400、704,000、21,171,686、


これが当時の阿片の「業務日誌」です。

合計2千万円相当の輸入額があります。

なんと、この輸入は一般の貿易統計には載っていないそうです。

つまり国家ぐるみの密輸入だったと言うことです。


さて、三井はいろんなところで三菱と阿片争奪戦をやってたらしい。


こうやって阿片貿易の証拠が出たということは、日本軍が阿片を使って戦費を調達していたという話は都市伝説ではなかったということだ。


事実、総額2000万円相当で、小さすぎではあるが三井は阿片密貿易をやっていた。

現代価値で1400億円程度だ、この程度の阿片が戦争の推進力になったとは思えないが、無視できる金額でもない。


これが密貿易であった以上、阿片が軍の機密費として使われていたであろう事は確かだ。


ゆえに、日中戦争を分析するのに、阿片を無視して語ることは、完全にナンセンスである。


満州事変は最初、吉林省、黒竜江省、遼寧省、の三省を占領し、1932年3月1日に満州国建国となった。


しかし、1933年2月に入って熱河作戦によって熱河省も加えて1933年5月31日「タンクー停戦協定」によって終結している。この熱河省が阿片の産地であり、ゆえに関東軍は熱河省を欲しがったと言われている。


しかし、阿片と言うものはケシの一種で、満州国ほとんどの地域で栽培できる。

私には関東軍が阿片ほしさのためだけに、熱河省を占領したとは思っていない。


《続く》


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