南発券の謎⑪・・・阿片と法弊
昭和通商を調べるうちに、どうしても「阿片」について書かなければならなくなった。
面倒くさい、阿片は複雑だ。
阿片と言えば「里見機関」の里見甫が有名だ。
東京裁判でも阿片について証言している。
しかし、里見より前に「阪田機関」で有名な阪田誠盛が、関東軍により阿片管理を委託されてた事はあまり知られていない。
また児玉誉志男と阿片についても、東京裁判で第一次上海事変を演出した「田中隆吉」が証言した内容に「太平洋戦争の後半は、阿片の仕事は里見から児玉に移っていた」とある。
ウィキペディアでは、里見甫は1943年12月で阿片から手を引いているので、つまり、阿片の元締めは、阪田誠盛→里見甫→児玉誉士男となる。
さて、先ずは阪田機関の阪田誠盛だが、彼は贋札工作で有名なのだが、それは1940年以降の事である。
謀略の岩畔といわれた岩畔豪雄大佐が贋札を生産した登戸研究所を作ったのが1939年であり、阪田が実務責任者に選ばれたのは1940年である。
それ以前の阪田誠盛は土肥原機関の民間嘱託であり、愛新覚羅溥儀の天津脱出作戦などに関与した。
ウィキで経歴を並べてみる。
1924年、北京民国大学に入学。
卒業後、満鉄の関連企業である南満洲電気に入社。
1930年、関東軍参謀本部に転籍する。
調査班としての初仕事で『満蒙の新交通政策』と題する報告書を提出。
関東軍高級参謀、板垣征四郎大佐や石原莞爾中佐から高い評価を得る。
1931年9月、満州事変が勃発。
奉天特務機関長として北支一帯に睨みを利かせていた土肥原賢二大佐の指揮のもと満州国皇帝となる愛新覚羅溥儀の天津脱出作戦に関与する。
満州で阿片工作をしていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・こんな感じである。
阪田誠盛が阿片を関東軍から託されたのは、1933年3月、関東軍が「熱河作戦」で阿片の生産地、熱河省を占領し、張学良の資金源だった華北一帯の阿片販売網を奪ってからである。
関東軍は熱河省に阿片の「専売公所」を設置し、それまで華北一帯で阿片ビジネスを展開していた張学良の阿片ブロックを阪田誠盛に任せた。
宋哲元という人物がいる。
後の通州事件で有名になった国民党の第29軍の司令官だ。
彼は張学良の下で第29軍の軍長に任命され、1932年7月察哈爾省政府主席を兼任した。
1933年、張学良の命により北京付近に駐屯して日本軍に備え、土肥原賢二と度々交渉するようになる。
土肥原機関による「華北五省独立計画」である。
土肥原賢二は宋哲元を寝返らせようと画策していた。
昭和10年に出版された「北支独立運動の真相」村田牧郞著によると、
>宋哲元は、阿片利権にも絡んでおり、山西省の閻錫山、河北省首席の于学忠、蒙古地方自治政務委員会の徳王、と共に阿片ブロックというのを組んでいた。<
>スイエン省の傅作義、チャハル省の宋哲元が、かき集めた阿片を軍用列車で天津へ送り、于学忠が売りさばいていた。<
>于学忠が1935年6月の梅津・何応欽協定の交渉で、河北省政府主席からの罷免され、売り捌き元を失った阿片シンジゲートは崩壊し、阿片利権はそのまま関東軍の手に渡った。<
ここで、ネットに溢れてる「日中戦争の目的は阿片だ」という陰謀論について考えてみたい。
カニ太郎は、どうもこの「阿片が目的だった説」には賛成しかねる。
結果的には1935年6月の梅津・何応欽協定で、関東軍に巨大な阿片利権が転がり込んだのは事実だが、そもそも「熱河作戦」は阿片が目的で始められたものではない。
張学良の残党が度々満州国境を超えるので、万里の長城の南まで追い払うための意味合いが強い。
そして、これらの混乱の元は、世界恐慌があり、北支独立運動があり、米国が1934年6月から始めた銀買取政策があった。
当時の世界経済の情勢は、世界大不況からの米国による銀買い支え、それによる中国からの銀流失、そして銀本位制だった北支軍閥の貨幣の下落、そしてデフレ不況、そして国民政府「法弊改革」の動きがあった。
日本はそれに対抗するため、北支独立運動を支援し、蒋介石の「法弊改革」を潰そうとした。
しかし、北支独立は土肥原機関が宋哲元を寝返らせる事に失敗。
北支五省分離のはずが、冀東防共自治政府だけに止まり、支那駐屯軍(天津軍)および土肥原機関の神通力は失墜した。
この事をシナ事変の元凶と見る事もできる。
しかし、関東軍が全く阿片に無関心だったかと言えば、それは違う。
特に板垣征四郎、土肥原賢二は大いに阿片に興味を持っていた、阿片が儲かるのは事実だからだ。
取りあえず、1933年の熱河省占領によって、日本の国際印象は悪化した。
リットン調査団の報告書が国際連盟で採択され、日本は国際連盟を脱退する。
熱河阿片を手にいれた関東軍は、先ずは阪田誠盛にその管理を任せた。
当時の阪田機関は阪田組といって自動車会社を経営していたらしい、熱河省で生産される阿片を北京天津へと運んで売りさばいていた。
北支独立運動を工作していた支那駐屯軍及び土肥原機関は、状況を甘く見ていた。
山西省の閻錫山、チャハル省の宋哲元、などは簡単に日本軍に寝返ると踏んでいた。
ところが、実際、日本軍に付いたのは河北省東部(冀東防共自治政府)の殷汝耕のみ、宋哲元は蒋介石に走りチャハル省と河北省に冀察政務委員会という国民政府の傀儡自治国家を作った。
土肥原賢二は大本営へ帰り、その後、華北の阿片工作は里見甫に移った。
阪田誠盛が満州で阿片工作をしてるとき、里見甫は「満州国通信」という国策会社を経営していた。
満州国の宣撫工作の一貫である。
阪田誠盛、里見甫、児玉誉士男、日中戦争の15年間、この3人の行動を追っていけば、かなりの裏歴史がわかるような気がする。
1931年9月18日の柳条湖事件に端を発した満州事変は、
1937年7月7日の盧溝橋事件で日中戦争となり、
1937年12月13日の南京事件をとおって、
1941年12月8日真珠湾となり、
1945年8月15日の終戦そして東京裁判、巣鴨プリズンへとつながった・・・
1932年熱河作戦を機に阪田誠盛が関東軍から阿片の密売を任され、阿片の取引が大連で盛んになった。
やがて大連より高い価格で大量に捌ける天津へと阿片取引の中心地は移っていっき、特務機関も阪田機関から里見機関へ移った。
1935年、土肥原機関が北支独立工作に失敗すると、天津阿片も阪田誠盛から里見甫の扱いへと代わった。
1937年、日中戦争が始まると、阿片取引の主体は上海へ移り、1944年に児玉誉士男が登場する。
児玉は上海で陸軍物資納入を扱っていた水田光義を殺し水田機関を乗っ取った。児玉機関が特務機関の中でも無頼派の集まりであると言われる由縁だ。
大川周明の弟子の流れで岩田富美夫のようなヤクザを多く抱えていた。
阿片の価格は吉林省から大連、大連から天津、天津から上海と南に下がるにつれ、2倍から4倍、4倍から8倍へと高くなり、さらに南のシンガポールでは満州の10倍以上になった。
阪田機関は阿片から贋札工作へシフトし、里見甫は満州国通信社主幹から阿片仲卸、宏済善堂社長、そして中華航空の顧問へとなり、児玉誉士男の児玉機関は陸軍嘱託から海軍嘱託へと変遷していった。
阪田 誠盛(1900年3月21日 – 1975年2月)
里見 甫(1896年1月22日 – 1965年3月21日)
児玉 誉士夫(1911年2月18日 – 1984年1月17日)
児玉誉士男、阪田誠盛、里見甫のような人物が、いわゆる「嘱託」として活躍した時代を理解するのは、かなり難しい。
我々は彼等を過大評価しがちだ。
私の見たところ、彼らはただの商人だ。
裏では財閥が、しっかり糸を引いていたように思えてならない。
彼らの行動に大アジア主義を唱えた大川周明も、国家社会主義を唱えた北一輝もいない、彼らは財閥に利用されていただけだ。
ただの「ヤクザ」としての役回りなのである。
彼等が御題目のように「国体(國體)」を唱える。
ただ自分の欲を暴力で満たすための口実からであり、自己弁護に天皇陛下を利用してるにすぎない。
その理論を支えてくれるのは財閥であり、その行動を金で操ってるのも財閥である。
日中戦争も、財閥同士の争いの変形である。
さて、法弊というのは中国の通貨のことである。
中国では長年銀が使われていた。
いわゆる銀本位制である。
これが「管理通貨制度」に代わったのが「法弊改革」である。
管理通貨制度のもとでは、中央銀行はその発行総額の裏付けとなる金銀を準備する必要なく通貨が発行できるので、銀本位制より多くの通貨が発行できる。
そしてその通貨が流通する地域では、その通貨の発行額を調整することにより、その地域の経済を支配することができる。
要するに濡れ手に粟の金儲けができるわけである。
日本は満州で、この通貨制度改革に成功した。
1932年3月1日成立した傀儡政権「満州国」における幣制統一の事である。
それまで中国東北地区では、各省にある官銀号(かんぎんごう=中央銀行)が別個に通貨を発行し、紙幣だけでも「幣種十五、券種百三十六」といわれるほど複雑な状況であった。
1932年6月15日に満州中央銀行が設立された。
さて、その時、中国には蒋介石の南京政府があった。
彼等が英国の指導により管理通貨制度に変革したのが、
1935年11月3日である。
満州国が97%の通貨を満州中央銀行券に切り替えるのに3年かかった。
完成したのが1935年6月15日。
中国の法弊改革が1935年11月3日。
「冀東防共自治区」と「冀察政務委員会」というのがある。(きとう)(きさつ)と読む。
「冀東防共自治区」とは1935年11月25日、熱河省の東にできた広さが九州ほどの自治政府のことだが・・・これは関東軍が作った傀儡政権だ。
同じく「冀察政務委員会」とは1935年12月18日に国民政府により設置された機関であり、宋哲元を委員長に、河北省、チャハル(察哈爾)省を統治させた日中間の緩衝政権である。
ここで、河北省、チャハル省、というのが出てくるが、この頃日本では「北支5省分離計画」というのがあった。
つまり第2満州国計画だ。
満州は最初、吉林省、遼寧省、黒竜江省、の三省だった。
それに隣接する熱河省を1933年「熱河作戦」により加えて4省となり「タンクー停戦協定」によって満州事変は完了した。
そこに更に、チャハル省、スイエン省、山西省、河北省、山東省の5省を独立させようという計画だ。
そして、1935年11月25日、「冀東防共自治区」というのが河北省東部に誕生した。
蒋介石の南京政府は、対抗するように1935年12月18日「冀察政務委員会」というのを、河北省とチャハル省に作った。
そして最初に戻るが、中国の法弊改革が1935年11月3日である。
完全にリンクした動きである。
河北省には北京と天津が含まれており人口も多く、大きな市場であった。
つまり、中国の法弊改革を機に、北京、天津、の争奪戦が始まったと言うことだ。
《続く》