幸ちゃん
父が武術好きだったため、我が家には多くの武術家が遊びに来た。中でも父と親しかったのが、太極拳を主に遣う朱川先生だった。その娘が幸ちゃん。同い年だった。
「よろしくお願いします!」
「うむ。翠隼君よろしく。幸とも仲良くしてやってくれ」
「お父さん、私弱い奴と仲良くしたくなーい」
「こら、幸」
初対面の女の子に弱い奴と言われて、手合わせすることにした。やっつけてやる!そんな風に思っていたのだが………。
「あはは、やっぱり弱ーい」
「………」
こてんぱにされた俺は、朱川先生に太極拳を習うことにした。先生が父を訪ねて我が家に来る度に、技を学んだ。幸ちゃんには相変わらず負けてばかりだったが、だんだんに仲良くなっていった。
「翠くんは、弱いねー」
「いつか幸ちゃんに勝ってやる!」
「ふーん。じゃあ、もし私に勝てたら翠くんのお嫁さんになってあげる」
「……い、いらないやい!」
「まあ、翠くんなんかに負けるわけないけどねー」
「な、なにをー!」
小学生の頃に、そんな話をした。もともと闘うことが好きだったわけでもなかったが、練習を頑張るようになった。
しかし、勝てない。勝てないまま中学、高校と過ぎていった。俺は大学に進学し、たまに帰省することがあっても幸ちゃんが来るタイミングにはいないことが続いた。
三年生の夏、帰省したら久しぶりに先生と幸ちゃんが来ていた。
「よーし、また私が勝つよー」
幸ちゃんはそう言ったが、俺は初めて勝つことが出来た。
幸ちゃんが久しぶりに来たのは、結婚することを報告するためだった。相手は武術に縁のない人で、とくに強くもないらしい。
「ごめんね、翠くん。約束、覚えてた?」
「……なんのこと?」
「……そっか。私、本当は翠くんが…………」
蝉の声が、やけにうるさかった。
その年の秋、幸ちゃんは嫁いでいった。