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後編

  その日の夕方のことである。

 夕食を食べに一階に降りて来たハヴェルは怪訝な声を出した。


「……ぶどう酒?」


 普段食卓には酒が並ぶことはない。テーブルの上で鈍く光を反射しているガラス瓶がどことなく異質な存在に見えた。


 訝しむハヴェルの声を聞きつけて、ヘンリエッタがキッチンから姿を現した。


「戸棚の整理をしていたら見つけました。以前ヘインズさんから頂いたものですよ」


 半年ほど前、ヘインズが手土産に持ってきたはいいが、奥に仕舞い込んだまま存在を忘れてしまっていたものだ。せっかく見つけたのだからと今日の夕食に出してみたのだが、ハヴェルの顔はいつにも増して仏頂面である。

 そういえばヘンリエッタは彼が今まで飲酒しているのを見たことがない。もしかして酒はあまり好きではあのだろうか。


「ぶどう酒はお好きではありませんか?」

「……そうではない」

「?」


 どうやら嫌いなわけではないらしい。ではなぜそんなに複雑そうな顔を主人がしているのかヘンリエッタはよく分からなかった。


 それからしばらく経ったのち。

 ヘンリエッタが異変に気がついたのは、夕食を終えて片付けを済ませた後だった。


「ハヴェル様……大丈夫ですか?」

「…………」


 食事を終え、二階の書斎に上がるのかと思いきや、居間に向かったハヴェルが、ソファに座ったままピクリとも動かない。

 何より気になるのは、真っ赤に染まったその顔だった。完全に先程のぶどう酒に酔っている。


 どうやらハヴェルは酒に強いわけではないらしい。だからぶどう酒を見て苦々しげな顔をしていたのだろうか。

 弱いなら弱いと言ってくれれば良いのにとヘンリエッタは思うが、意固地な主人の性格上、それも無理な話だと考え直す。


「……ヘンリエッタ」

「はい。いま水をお持ちしますね」

「いらん。ここに座れ」


 長い脚を組み、寛いだ様子のハヴェルはその隣に視線をやる。


「ですが、」

「座れ」


 ギロリとこちらを睨み付ける仕草はいつものものだが、いかんせん覇気がない。それどころか顔が赤いせいかどこか艶っぽさまで感じられて、ヘンリエッタは「ゔっ」と一瞬言葉を詰まらせた。


 わざわざ反抗するほどのことでもないので、命じられるがまま、仕方なくハヴェルの横に座る。

 ヘンリエッタが座ったのを確認すると、彼はサイドテーブルに置いてあった本を手に取った。


「お前は以前、字の勉強をしたいと言っていたな」

「? はい」


 確かに最近、そんな話をした覚えがある。ヘンリエッタはいつかハヴェルの書く本を自分の力で最初から最後まで読んでみたいと思っていた。しかし、ハヴェルの書く本は今のヘンリエッタの読み書き能力では難しく、もっと勉強する必要がある。そのためにもっと字の勉強をしたいのだと、ある日の原稿待ちのヘインズに語ったのだ。


 だがその会話の際、ハヴェルは書斎で作業をしていてその場に居なかった気がする。ヘインズから聞いたのだろうか。

 そういえば話を聞いたヘインズは「きっとすぐに勉強を始められますよ」と言っていたような……


「俺が見てやる。これを読んでみろ」


 考え込んでいたヘンリエッタの前にずいっと一冊の本が差し出される。受け取ってパラパラとページをめくってみると、字は小さいが使われている言葉は分かりやすい。ざっと見た本の内容も面白そうで、ヘンリエッタの興味をそそるものだった。


「分からない箇所は聞け」

「あ、ありがとうございます……」


 非常にありがたいことなのだが、突然のハヴェルの行動にヘンリエッタは少し戸惑っていた。

 言い方や態度は変わらないが、明らかにいつもより優しい気がする。


(ハヴェル様は酔うと優しくなるのかな……?)


 そんなことを思いながら、とりあえず手渡された本を最初から読んでいく。すると早速気になる表現が出てきた。

 分からない場所は聞けと言っていたので、ヘンリエッタはその言葉に素直に甘えてみることにした。


「ハヴェル様、ここの表現なのですが……」

「……見せてみろ」

「はい、このページの——わっ!?」


 本をハヴェルの方に持って行こうとした瞬間、ヘンリエッタは肩をグッと横に引き寄せられ、そのままハヴェルの胸に寄りかかるような体勢にさせられた。

 突然のことに、ヘンリエッタは目を白黒させる。


「遠い。もっと近づけ、見えん」


 当の引き寄せた本人はふんぞり返った様子でそう言うと、何事もなかったようにそのまま尋ねられた箇所の解説を始めた。やたら詳しく分かりやすい解説は、当然の如くそれどころではないヘンリエッタの耳をすり抜けていく。


「……と、いうことだ。分かったか?」

「は、はい……」

「なら続きを読め」

「な……」


 解説が終われば離してくれるのかと思いきや、そのまま続きを読むよう命じられてヘンリエッタはさらに混乱する。

 引き寄せるために肩に置かれた腕はいつのまにかヘンリエッタの髪に移動しており、結いて横に流した銀髪をゆるくいじっていた。


「ハ、ハヴェル様……あの、これは……!」

「何だ」

「この体勢は、少々本が読み難いのですが!」


 言い切った……!とヘンリエッタは心の中で己を誇る。

 声がうわずって震えているが、噛まずに言えたはずだ。

 朝の一瞬の着替えの密着時でさえ恥ずかしいヘンリエッタにはこの体勢はあり得ないものであり、増して朝のように真っ暗でもない。くっきりばっちりお互いの顔が見えていて、限界がもう近かった。

 ヘンリエッタの顔色は先ほどからハヴェルにも劣らないほど真っ赤である。


 そんなヘンリエッタの様子を上からじっと見つめていたハヴェルは事もなさげに言う。


「では、俺が読んでやる」

「え」

「貸せ」

「ち、ちが……! そういうことではなくて……!」


 今そういう優しさは求めていない。予想外の返しに混乱したヘンリエッタは、反射的に本をハヴェルから遠ざけようした。

 それを追うハヴェルが彼女の方に身体を寄せ、結果的により密着し、ヘンリエッタの上にハヴェルが覆いかぶさるような形になってしまう。


「ハヴェル様! 正気に戻ってください!」


 これはまずいと思ったヘンリエッタが咄嗟に叫ぶと、ピタリとハヴェルが動きを止めた。


「ハヴェル様……?」


 おそるおそる真上にある顔を見上げると、彼の顔の右側が見えた。そばに置かれたランプに照らされて、(ただ)れた凸凹の肌は小さな影を作っている。

 それから、左側にある金の瞳と目が合った。ヘンリエッタには、その金色が一瞬揺れているように見えた。


「…………悪い」


 そう小さく呟くと、ゆっくりとハヴェルは離れていく。

 それから眉間にシワを寄せて渋い顔をしたのち、背を向けて階段へと向かっていく。


「あ、の……」

「……さっきのことは忘れろ」


 こちらを振り返ることなく、ハヴェルは進んでいく。その背中を見て、ヘンリエッタは何故か焦りを感じていた。今このまま彼を見送ってはいけない気がする。そんな焦燥感を本能的に感じた。


「待ってください」


 だから、去っていくハヴェルの手を取ったのも咄嗟にしたことだった。

 驚き、見開かれた金の片目がこちらを見る。それをじっと見つめて、ヘンリエッタは慎重に口を開く。


「……誤解しないで欲しいのですが、」

「…………」

「……決して、嫌ではなかったのです」

「…………」

「貴方に触れられたことが嫌だったのではなく……ただ、あまりにも急だったので……その……」


 そこまで言って、ヘンリエッタは目を伏せた。

 あまりにも強く、金の瞳がこちらを見つめているから。


「その……いきなりは驚くので……わっ!?」


 気がつくと、ヘンリエッタはハヴェルの腕の中にすっぽりと収まっていた。背中に回る手がじわじわと熱い。


「だ、だから、いきなりは驚くと、」

「——嫌か?」

「え?」

「……嫌だったら、やめる」


 ハヴェルの言葉に、ヘンリエッタは目を瞬かせた。

 その声は、いつもの彼のものより小さくて、弱い。

 それを聞くと、何か心の奥から温かいものが溢れ出るような気がした。たった今自分を抱きしめている存在が、とても愛しいという気持ちが込み上げてくる。


「……嫌ではありません」

「……そうか」


 抱きしめる力が強くなる。それに応えるようにヘンリエッタも力強くハヴェルを抱きしめ返した。




 ◇




「……お前を最初に雇った時、どうせすぐに裏切られるのだろうと思っていた」


 抱きしめられている最中、ヘンリエッタの耳に届いたのはハヴェルのそんな言葉だった。


 ヘンリエッタは今はハヴェルに召使いとして仕えているが、もともとは十二歳から彼の実家に下働きとして奉公に出されていた。そして年季が明けた十七歳の春、あの事件が起こった。

 ハヴェルが家と縁を切って出て行くと聞いた時、自分を召使いとして雇ってくれないかと彼に直談判したのだ。


 最初、ハヴェル右の顔の傷のせいですっかり人嫌いになっていて、ヘンリエッタを雇うのを拒んだ。

 しかし、生まれた時から貴族であったハヴェルには家事力は皆無である。不規則な食生活に、ロクな掃除もできず荒れ放題の汚い部屋にとうとう限界を感じたのか、それから一年後にヘンリエッタを雇うことになったのだ。


「……裏切られると思っていたんだ。なのに、」


 ハヴェルはそこで言葉を切る。ヘンリエッタは体を離して先を促すように目の前の男を見つめた。


「……なのに、お前は裏切るどころか、バカ真面目に四年もこうして召使いを勤めている」


 金の瞳がヘンリエッタを見つめ返す。そこには、困惑の色が混じっていた。


「……私がここにいるのは、貴方を嘲笑うためでも貶めるためでもありません」

「…………」

「貴方の支えになりたくて、ここにいるのです」

「…………俺の傷が恐ろしいと、醜いとは思わないのか」

「はい。まったく」


 顔の右側、爛れて波打つ肌は彼の受けた痛みそのものだった。右の目は完全に閉じられてしまっていて、もうニ度と目が合う事はない。


 試されているのだということは気づいていた。決して他人には見せないその傷を、ハヴェルはヘンリエッタにはいつでも無防備に晒す。

 晒して、痛々しい傷を見せつけて、拒絶しないかをずっと試していたのだ。

 けれど、やっぱりヘンリエッタにはその傷を恐ろしいとも醜いとも思えなかった。


「……ずっと、気になっていたことがある」

「何ですか?」

「お前はなぜ、俺についてこようと思った?」

「……分からないのですか?」


 何を今更、とヘンリエッタは思う。「何故ついてきたのか」なんて、そんなの理由はただひとつだ。


「……分からんな。あの頃のお前と俺は大して面識もなかったはずだ」


 なのにハヴェルはしれっとそんなことを言う。さっきまでのしおらしい態度は消え去ってしまったようだ。

 腕の中にあるヘンリエッタの銀の髪をいじったまま、彼女の言葉をじっと待っている。

 どうやら言い逃れはできないらしい。観念したヘンリエッタは真っ赤な顔で口を開いた。


「……貴方をお慕いしているからです」

「…………」

「…………」

「……フン」


 少し間を置いて、ハヴェルはいつものように鼻を鳴らした。一世一代の告白をわざわざ言わせておきながら、その態度は何なのだろうか。思わずムッとしたヘンリエッタだが、見上げた先にある彼の耳が馬鹿みたいに赤くなっていたので何も言えなくなってしまう。


「……いつからだ」

「え?」

「いつからか言え」

「…………」

「…………」

「……十四の時からです」

「十四?」


 観念したヘンリエッタは絞り出すように言った。

 存外に若い数字にハヴェルは意外そうな声を出す。

 それもそうだ、きっとハヴェルは覚えていないのだから。


「……私は、幼い頃から自分のこの髪が嫌いでした」


 いわゆるコンプレックスというものだ。銀といえば聞こえはいいが、ヘンリエッタは自分の髪を実際は灰を頭からかぶったような色だと思っていたし、実際にこの髪色が原因で同年代の子供にいじめられたこともあった。


「けれどある日、この髪を綺麗だと言ってくれた人がいました。流れ星の色だと」

「…………」

「……それが、貴方です」


 その言葉はきっと、気まぐれだと分かっていた。たまたま目に入った下働きの娘の髪を褒めただけだ。それ以上でもそれ以下でもなくて、特に深い意味もないものだったはずだ。

 けれど、その言葉はヘンリエッタの世界を変えるには十分だった。


「貴方が傷を負った時、思ったんです。貴方を助けたいと」

「…………」

「……だって、貴方は私を助けてくれたから。優しくて綺麗な言葉をくれたから」


 目の前にある金の瞳が、揺れる。

 長い長い沈黙の後、ハヴェルが口を開いた。


「…………それだけ、か?」

「はい」

「昔、俺が髪を褒めただけで、ここにいるだと?」

「“だけ”ではありませんが、そのことがハヴェル様をお慕いして支えたいと思うきっかけになったことは事実です」

「は……」


 ハヴェルの肩が震える。ヘンリエッタの銀の髪を梳いていた手が止まって、ゆっくりと下された。


「は、ハハ……!」

「…………」

「……ハハ、笑えるな……傑作だ……」

「ハヴェル様……こちらを」

「……いらん。笑っているのに、なぜ、ハンカチなど……」

「……私には泣いているように見えます」


 金の瞳からはひとつふたつと、涙が溢れていた。笑みを浮かべているはずのその顔は、苦しそうに歪んでいる。

 ヘンリエッタは彼が泣いているのを初めて見た。傷を負わされた時や実家と縁を切った時ですら、決して流さなかったはずだ。


 ハヴェルが顔に傷を受けた後、周りはみんな彼のそばを離れて行った。そのことを彼は特に辛いとは思ったことはない。友人も両親も、興味があるのは己の才能や地位だけだと昔から気づいていた。生まれてからずっと彼の周りはそうで、それがハヴェルにとっての当たり前だった。

 だから、最初は何の見返りも求めないヘンリエッタが信じられなかった。いつか必ず本性を表して裏切られるのだろうと思っていた。

 なのに、目の前の女は四年経っても相変わらずハヴェルのそばに居て、それどころかハヴェルさえ覚えてないほんの些細なことがここにいる理由だと言う。


 そんな馬鹿な、ふざけているのか、と思う。そんな理由で四年もこんな醜悪な男のそばに仕えているられるはずが無い。まだ「一目惚れでした」と言われた方が信じられる。

 だがその一方で、ハヴェルはヘンリエッタが嘘をついてなどいないと、もうとっくに分かっていた。


 目の前の彼女はバカ真面目で、たかが髪を褒められただけでこんな面倒な男を好きになって、助けに来るような変な女だ。そして、そんな彼女をいつのまにかとても大切に思っている自分もどうしようもない男だ。

 素直にならず突き放すような態度をとって、傷をわざと見せて試すような真似をしながら、心のどこかで拒絶しないでくれと渇望していた。


「……ヘンリエッタ」

「はい」

「この俺が好きだとは、お前も変な女だな」

「そうですね」

「…………」


 ヘンリエッタが素直に同意すると、ハヴェルは途端に黙る。どうやら照れているらしい。

 ヘンリエッタが小さく笑うと、今度は眉を顰めて睨んできた。それがちっとも怖くなくて、むしろ可愛く見えてしまって、自分も大分重症だなとヘンリエッタは密かに思う。


「ハヴェル様」

「何だ」

「貴方は、言ってくれないのですか」

「…………」

「普通の、ありふれた言葉でいいから……貴方の気持ちを言ってくれませんか」

「…………」


 ヘンリエッタの背中にあった手が、ゆっくりと後頭部に移動していくのを感じる。

 じっとこちらを見つめる金の瞳から、目が離せなくなる。その瞳の奥に、ヘンリエッタは確かに熱を見つけた。


「…………貴女を、愛しいと思っている。俺の妻になってくれないか、ヘンリエッタ」


 そう言ったハヴェルの顔は、誰よりも綺麗だった。


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