前編
召使いヘンリエッタの朝は早い。
まず、朝日が登る前にベッドから起き上がる。それから櫛を手に取り、背中まである灰色がかった銀髪を丁寧に梳かして結いた。
そして、いつものお仕着せに着替える。
濃紺のロングワンピースは飾り気がなく地味だが、よく見ると裾の方に細かく花の刺繍がしてあった。
この服を着ると、暗い布地の上に流れる己の銀髪が、まるで夜空の流星みたいにみえる。だからヘンリエッタはこの服を気に入っていた。
実は以前まで着ていたお仕着せは別のもので、これよりさらに地味な無地の黒色だった。だが、ある日突然彼女の主人が「明日からこれを着ろ」といって、今のものを寄越したのだ。
着替えが終わると次は朝の食事の用意だ。向かいの部屋でまだ眠っている主人を起こさないように静かに部屋を出ると、ヘンリエッタは一階のキッチンへ降りた。
朝食は、ヘンリエッタはスープとパンとサラダ、彼女の主人はスープのみである。彼は朝にあまり食べないようで、スープだけにするよう言われている。一方のヘンリエッタは朝にはしっかり食べておきたい派だ。何せ朝から晩まで家事をこなさなければならないのだ、食べなければ身体がもたない。
はじめ、主人よりも沢山の量を食べるのは気が引けて、ヘンリエッタもスープのみにしていた。しかし、ある日どうしても空腹に耐えられず倒れてしまったことがあり、それ以来必要な量をしっかりと食べるように厳命されている。
これはとても有難いことなのだが、ときどき本当に食欲がなく、ヘンリエッタが少ししか食べない時、主人がこちらを射抜くように睨んでくるのが困るところだ。
——チリンチリン
朝食の用意を終え、エプロンを外したと同時に小さなベルの音が二階から聞こえる。
これは主人が起きた合図だ。彼は毎朝起きるとこうやってヘンリエッタをベルで呼ぶ。
ヘンリエッタは階段を上り、古めかしい木の扉を三回ノックした。返事はいつも無いので、そのまま入室する。分厚いカーテンが朝日を遮り、部屋の中はまだ夜のように暗い。
ヘンリエッタは特にカーテンを開けるでもなく、壁際の立派なベッドの上で、起き上がっている男に近づいていく。
「おはようございます、ハヴェル様」
「…………」
「今日の朝食は雛豆のスープです」
「…………」
またもや返事は無い。だが、これもいつものことなのでヘンリエッタは動じることなく淡々と連絡事項を述べていく。
彼女の主人であるハヴェルは昔から朝が弱く、寝起きはだいたい不機嫌なのである。
ちなみに、ヘンリエッタは朝は得意だ。十二の時に下働きとして奉公に出されてから十年間、一度も寝坊したことはない。
そうして、ヘンリエッタの連絡を一通り聞き終えたハヴェルは、気怠そうに口を開いた。
「……おい」
「はい」
「手伝え」
「かしこまりました」
「何を?」とヘンリエッタが聞き返すことはない。彼の言葉が足りないのも毎度のことだ。この場合は彼の着替えを手伝えということである。
着替えを手伝わされるようになったのは、ここ一年ほどのことだ。十八の時から数えて四年ほどヘンリエッタはハヴェルに仕えているが、彼女がここに来た当初、彼は着替えをひとりで済ませることができていたように思う。
初めて「手伝え」と言われた時には本当に何のことか分からなくて、「何をですか?」と聞き返したのだが、その時は「もういい」と言われそこで終わった。
結局何だったのかよく分からないまま、次の日の朝も部屋に行くと、今度は「着替えを手伝え」と言われた。そこで漸くヘンリエッタは彼の意図を理解したのだ。その日から今日まで、彼の着替えを手伝うのは毎朝続いている。
そんなことを頭の片隅に思いながら、ヘンリエッタはゆっくりとハヴェルに近づいた。
「……失礼します」
「……早くしろ」
ヘンリエッタは目の前のシャツのボタンを外していく。
ハヴェルの急かす声が少し掠れていて、それを聞くと何故だかヘンリエッタは気恥ずかしくなってくる。
普段はもの静かで落ち着いている彼女も、この時ばかりは頬を赤くした。
そして、部屋が真っ暗で良かったと心から思うのだ。この暗さでは流石に相手の顔色まで見えないから。みっともなく羞恥に染まったこの顔を、ハヴェルに至近距離から見られるのは避けたかった。
ボタンを外すと、次は両袖を腕から脱がす作業だ。この時が一番ヘンリエッタは緊張する。
袖を脱がす際、やりやすいように腕を後ろに伸ばせばいいものを、非協力的なこの男は腕をだらんと下ろしたままだ。なので、ヘンリエッタが密着して抱きつくような形で腕を取って脱がさなければならない。
自分とはあきらかに違う、筋張った体格や近くで聞こえる掠れた小さな息遣いを変に意識してしまって、ヘンリエッタはこの作業が最も苦手だった。
だが、苦手だからといってそれに屈するヘンリエッタではない。この一年の間に彼女はいかに手早く着替えを済ませるかを研究しており、初期に比べれば随分とこの作業の時間も短くなった。
サッと夜着を脱がせてサッと新しいシャツを着せたヘンリエッタは、一礼して元の自分の位置に戻った。
「では、私は失礼いたします。着替えが全て済みましたらお呼びください」
「……ああ」
ヘンリエッタが着替えを手伝うのは流石に上だけだ。その辺はハヴェルも弁えているのか何も言わない。
尤も、召使いとはいえ妙齢の女性に着替えを手伝わせるのもどうかと思うが。
カーテンが閉まったままの薄暗い部屋を出ると、ヘンリエッタはひとり安堵の息を小さく漏らした。
◇
朝食は主従で別々といったことは無く、ヘンリエッタは毎朝ハヴェルと同じ食卓で食べている。
同じ食卓を囲むのは彼女が空腹で倒れた時から始まったことだ。それまではヘンリエッタが先に食べていたのだが、ハヴェルが一緒に食べるように命じた。
どうやら食事を共にすることで、ヘンリエッタが朝にちゃんと食べているか確認しているようである。
(……自分は全然食べないくせに変わった人だな)
ヘンリエッタは何とも言えない心地で目の前でスープを飲む主人を眺めた。
洗い物が一度で済むので助かるのだが、主人と召使いが一緒に食卓を囲むなど、普通ではないはずだ。それくらいは貴族出身でないヘンリエッタでも分かる。
こちらの視線を感じとったのか、ハヴェルのひとつしかない金の瞳がこちらを向いた。
「何だ」
「……いえ、お味はいかがですか」
「……フン」
ハヴェルは鼻を鳴らした後、再び食事に視線を戻した。
この態度からして、まあ美味しいということだろう。彼は不味い時はしっかりと言ってくる人である。一度砂糖と塩を間違えた時は、散々な言われようだった。
それでも、「不味い不味い」と言いながら全て平らげたのだが。
「……そういえば」
「はい」
「今日はアイツが来る」
「ヘインズさんですか?」
「そうだ」
ヘインズとは、町の中央区にある出版社の青年である。ハヴェルの仕事は物書きであり、ヘインズは彼の担当であった。
ヘンリエッタは簡単な文章しか読み書きできないのでよく分からないが、ハヴェルが書く本はなかなか人気があるらしい。締切もきちんと守るので助かっているとヘインズが前に言っていたのを思い出した。
朝食を終えると、ハヴェルはいつも通り二階の書斎に上がっていった。
残されたヘンリエッタはというと、洗い物をしながら何となく己の主人のことを考えていた。
ハヴェルは、元々は名のある貴族の一人息子であった。
若く美しいのに加えて、賢く優秀だった青年を当然周りが放っておくはずもなく。昔の彼の周りには常に誰かがいたとヘンリエッタは記憶している。
そんなハヴェルに転機が訪れたのは、彼が二十歳になった春のことであった。
——顔に劇薬をかけられたのである。
犯人の男は面識もなく、よくよく動機を聞けば、完全な逆恨みであった。
劇薬をかけられた顔の左側は比較的軽傷で済んだが、右側が特に酷かった。右目は完全に失明し、額から頬にかけて大部分が火傷のように爛れてケロイド状になっている。
そんな状態のハヴェルを前にして、周囲の人々は今までのことが嘘みたい離れていった。あんなに媚びるように群がっていたのに。
悲しいのは、その人々の中に彼の両親も入っていたことである。
結局、家の跡継ぎは同い年の従兄弟に決まり、ハヴェルは実家と縁を切った。それからは出来る限り人との接触を避け、もともと才能があった物書きをしながらなんとか生計を立てている。
「こんにちは〜! 先生いらっしゃいますか〜?」
突然、間延びした声が外から聞こえた。
ハッとしてヘンリエッタは玄関を見る。どうやら来客のようである。この声は恐らくヘインズのものだ。
玄関の戸を開けると、ヒョロリとした中性的な顔立ちの青年が立っていた。ヘンリエッタの姿を認めると、ペチャンコに潰れた帽子を脱いで挨拶をする。
「あ! どうもどうも、ヘンリエッタさん」
「おはようございますヘインズさん」
「先生いらっしゃいますか?」
「はい。ご案内しますね」
帽子を被り直したヘインズを連れてヘンリエッタは二階の書斎へと向かう。書斎はハヴェルの寝室の隣にある。
ドアをノックした後、中からの返事を待って扉を開けた。
「失礼します。ヘインズさんがお越しになりました」
「おはようございます先生〜!」
「うるさいぞヘインズ」
中に居たハヴェルは右目に黒い大きめの眼帯を当てていた。いつも来客がある時、出来るだけ右側の傷が見えないように着けているものだ。
ほんのりと明かりがつけられているため寝室ほどではないが、この部屋も少し薄暗い。傷が見えるのが気になるのか、ハヴェルは明るいところをあまり好まない。その気持ちはわかるが、こんな暗いところで物を書いていては目を悪くするのではないかヘンリエッタは心配だった。
「原稿はどうですか〜」
「もう出来ている」
「さすがですねぇ」
「フン、当たり前だ」
不遜で突き放すようなハヴェルの言い方に怯むでもなく、朗らかな様子でヘインズは会話を続けていく。
一見すると気弱そうに見えるのに、物怖じしない彼のこういうところが、何だかんだハヴェルと上手くいっている理由なのではないかとヘンリエッタは密かに思っている。
淡々と仕事の話を続けている二人に気づかれないよう静かに部屋を出ると、ヘンリエッタはお茶を用意するべくキッチンへ向かった。
◇
紅茶の用意ができ、いざ二階に持って行こうとした時、階段から二人分の足音が聞こえてきた。
不思議に思ってキッチンから顔を出すと、予想通りハヴェルとヘインズがそこに居た。
「どうかされましたか?」
「あ、今日はもうお暇します〜」
ヘインズの言葉にヘンリエッタは少し目を見開いた。
今日はまた随分と早い。まだ来て十分も経っていないはずだ。せっかく紅茶を淹れたのに……と表には出さないがヘンリエッタは残念に思う。
そんな彼女の心情を察したのかヘインズは申し訳なさそうに眉を下げて苦笑した。
「すみません〜! この香り、お茶を淹れてくださったんですよね? 僕としても是非ご馳走になりたいんですが、」
「ごちゃごちゃ言わずにさっさと帰れ」
まだ話している途中のヘインズの言葉を、ハヴェルが不機嫌そうにぶった斬る。対するヘインズはやれやれといった様子で肩をすくめた。
「ま、こういうわけなんですよね〜。まったく、ちょっと冷やかしただけなんですからそんなに怒らなくても……」
「黙れ」
「お〜こわいこわい! それじゃ、僕はこれで〜」
わざとらしく肩を抱いて震える仕草を取ったかと思うと、そのままヘインズは玄関から出ていった。
何故か不機嫌なハヴェルと一緒に取り残されたヘンリエッタはいまいち事態が飲み込めていない。
「あの、いったい何が……?」
「別に何もない」
ハヴェルは気怠そうに右目の眼帯を取ると、それから何かの袋を差し出してきた。中からはほんのりと甘い匂いがする。状況から考えて、ヘインズからの土産のようだ。
「これは何ですか?」
「ケーキだ。お前が食べろ」
「ですが、これはハヴェル様がもらったもので……」
「俺は甘い物は好かん」
なら何故もらったのか。ハヴェルは好きではないものを黙って貰うような気遣いのできる人間ではないはずである。加えて、相手はあのヘインズだ。
非常に困惑しながらも、ヘンリエッタはケーキを受け取った。
(甘くていい匂い……)
受け取った袋から溢れる匂いはヘンリエッタの嗅覚をくすぐっていく。まだ温かく、焼き上がって間もないもののようだ。
甘いものは好きだ。特にケーキなどは日常生活で滅多に食べられるものではない。
まだ温かいので今すぐにでも食べたいが、そんなことは言ってられない。後で大切に食べることにしよう、そう思っているとハヴェルがこう言った。
「ヘインズの分の紅茶があるだろう。それと一緒に食べろ」
「え」
「紅茶が飲みたい。早くしろ」
「は、はい」
いちいち言葉が突拍子もないので非常に分かり辛いが、要約すると「一緒にお茶をしよう」とハヴェルは言っているようである。
紅茶と共に美味しい焼き立てのケーキが食べれるとあっては拒否する理由もないので、ヘンリエッタは素直に頷いてお茶の用意をした。
席に着くと、ヘンリエッタはまず紅茶を飲んだ。それから、芳しいバターの匂いが引き立つケーキを一口食べる。
しっとりしていて、それでいてふわふわだ。とても美味しい。ヘンリエッタは無意識に目を細め、顔を緩ませた。
ふと正面を見ると、こちらを凝視するハヴェルと目が合った。ケーキに酔いしれていたところを見られていたようだ。何だか照れてしまって、ヘンリエッタは少し目を伏せた。
「……美味いか」
ハヴェルの言葉にヘンリエッタは深く頷く。
「はい。とても」
「……なら良い」
ヘンリエッタがそう言うと、目の前の主人は満足そうにお茶を飲んだ。それを見たヘンリエッタも嬉しくなって、頬を少し緩めた。
この後、ハヴェルの注文でヘインズが訪ねてくるたびにケーキを土産に持ってくることをまだ彼女は知らない。