9 障壁をぶち壊せ
「単刀直入にお伝えします。桐ヶ谷千明に関わるのはお勧めしません」
朝比奈先輩は淡々とした口調でそう言った。
「な……?」
何で、と問いかけようとするが、声が出ない。
次々と生徒が通りすぎる下駄箱前で、初対面の先輩を前にしたこの状況は、今の私にはかなりレベルが高い。
黙って口をパクパクするばかりの私を見て、先輩はフッと顔の力を緩める。
「ごめんなさい、いきなりこんなこと言われてもびっくりしちゃうわよね」
先輩は品良くニコッと私に笑いかける。いつも『ニッ』と意地悪く笑う誰かとは大違いだ。
「もし良かったら、お昼休みに生徒会室に来てもらえない?そこなら二人でゆっくり話せるから」
私はこくんこくんと頷く。
先輩は「決まりね」と微笑んで、しとやかに2年生の教室へと消えていった……。
その日の午前の授業は、はっきり言って超ラッキーだった。
数学は黒板回答で切り抜け、古文では焦って答えようとしたら唾が気管に入って本気でむせてしまい、代わりに23番の人が当てられて答えてくれた。……ありがとう、堀川さん!
千明くんはというと、意外にも私の言ったことを忠実に守っていた。
ちらちらとこちらを気にして視線を送ってくるが、私がその度に目をそらしマスクを深々とつけ直すのを見ると、ばつが悪そうに視線を戻していた。
私は彼が珍しく『どうしたらいいのかわからない』という顔をしているのを知りながら、敢えて放置した。
……少しくらい、彼も私に翻弄されればいいのだ。
キーンコーン。
「あ! 茉莉……っ!」
昼休みの始まりを告げる鐘が鳴ると同時に、私は一目散に教室を飛び出した。
千明くんが私を呼び止めたが、聞こえないフリをした。正直……今話しかけられても、前と同じように会話できる自信がない。
「来てくれてありがとう」
恐る恐る生徒会室の扉を開けると、朝比奈先輩が優雅に紅茶を淹れて待っていた。
(すごく良い匂い……)
花の香りのような甘やかで優しい湯気に包まれ、私は自然と肩の力が少し抜けた。
「適当に座ってね。お茶でも飲みながらお話ししましょう?」
「あっ……はい」
私は無事に声が出せたことに安堵しながら腰かけた。
先輩は静かに一口、紅茶を啜ってから話し始める。
「今から言うことは絶対に誰にも話さないで欲しいんだけど、良いかしら?」
私は力強く頷く。口の固さには自信がある。
先輩は安心したようにニコッと笑って続ける。
「あのね。端的に言うと、私は千明の昔の女なの」
「んゴッ!」
私はまたもや紅茶が気管に入り、ゲホゲホとむせた。大丈夫なの、私の嚥下機能……。
朝比奈先輩は「平気?」と私の背中を擦ってくれながら話し始める。
「……私と千明は小さい頃からピアノコンクールの上位常連組で、よくどっちが一位になるか競い合っていたの」
先輩は上品に両手を重ねて膝の上に置き、思い出すように目をつぶる。
「彼すごくピアノが好きで、とても生き生きと弾くの。それに見た目も格好いいし、好きになるまでそう時間はかからなかったわ。彼が中学生になってすぐ、私から告白したの」
一歳しか違わないとは思えないほど大人びた彼女の口調に、思わず私は聞き惚れる。
「千明はまだ中1で、とにかく色恋沙汰に興味津々な年頃だったのね。『付き合ってから好きになってくれればいい』って言ったら、渋々OKしてくれたわ」
「先輩……なかなか強引ですね」
大人しそうに見えて、意外とやんちゃなことをする人だ。
うふふ、と思い出し笑いしてから、先輩は急に真顔になり「でもね」と続ける。
「付き合い始めてすぐ、彼の御両親が事故で亡くなったの」
「……え?」
コトン、と先輩は静かにティーカップをソーサーにのせ、黄金色の水面に視線を落とす。
「それから千明は引き取ってくれる親戚のところへ引っ越すことになって……。私達の仲もこのまま自然消滅してしまうじゃないかと心配だった。だから、彼が引っ越して半年くらい経った頃、サプライズで会いに行ったの」
先輩は人差し指をピンと口の前に立ててお茶目に言うが、どこか表情は暗い。
「ちなみに『行った』って……どこまで?」
「ヒロシマよ」
「広島!? 都内からわざわざ?」
「新幹線で4時間、ぐっすり眠れたわ」
朝比奈先輩……華奢なお姫様のような見た目で、なんと逞しい人だろう。その行動力に脱帽する。
「そこでミラクルが起きたのよ!」
突然、先輩が目を輝かせてぐいっと私に顔を近づける。
「その時期、ちょうど広島駅にフリーピアノ……誰でも好きに弾いていいグランドピアノが置いてあってね。なんと改札を出てすぐ、そこでピアノを弾いている彼を発見してしまったの! OH MY GOD!」
「あの……先輩ってもしかしてハーフか帰国子女ですか?」
「あら? 良くわかったね。母方のおばあ様がイギリス人で5才までロンドンにいたわ」
「やっぱり……」
言葉の端々に感じていた違和感の原因がわかり、私は一人で納得した。
「それで私、何だか居ても立ってもいられなくなってしまって、咄嗟に彼を抱きしめてキスしてしまったの」
「!?」
「あ、ほっぺによ?」
(日本で挨拶感覚のキスしちゃダメだから!)
しかもたくさんの人が行き交う駅前で、ハグまでして。中学生には刺激が強すぎる。
私は心の中であちゃーと頭を抱える。
「けれどすぐに、思いっ……きり突き飛ばされたわ!」
先輩はためにためて力強く言い放った。
そしてすぐに、悲しげに目線を落として呟く。
「まるで化け物でも見るかのように怯えた目で私を見て……。でも無理ないわ。後で知ったんだけど、その頃から彼、病気だったみたいなの」
「あ……」
私はハッとして言葉を呑み込む。
彼と初めて話した日。千明くんは精一杯努力して、やっと私の手に指先を少し掠めるくらいのことしかできなかった。
なのに、いきなりハグされてほっぺにチューなんてしようものなら……。
「だから、本田さんが千明と付き合っているという噂を聞いて心配で」
「あ、それはその……」
私は咄嗟に否定しようとして、言い淀んだ。
(もし私が本当の彼女じゃないと知ったら先輩は――)
黙ってしまった私を優しそうに見つめ、真剣な口調で先輩は続ける。
「千明と付き合うということは、手も握れない、ハグも出来ない、キスも、もちろんその先も出来ない。……それでもあなたは彼の隣に居られるのか、よく考えた方がいいわ」
私達はしばらくの間、無言で紅茶を飲んだ。先輩も私が何か言うまで話すつもりはないようだ。
「…………」
頭が真っ白だった。
私は知らぬ間に千明くんに期待していた。
嵐のように現れて、膠着していた私の日常をぶち壊し――でも、お陰で初めて点呼で返事をすることが出来た。
その瞬間、『彼と一緒なら私は変われるんじゃないか』と期待したのだ。
そして彼もきっと順調にレベルを上げていけるのだろうと、どこか楽観していた。
でも、もしそうならなかったら?
治療は進まないままに……私のこのモヤモヤとした気持ちだけが膨らんでいったらどうなるのか?
もうこんなにも、彼の存在が私にとって大きくなっているというのに――。
「先輩」
真っ白な頭で考えたら、案外答えは単純だった。
「私、千明くんが好きです」
朝比奈先輩は何も言わず、真っ直ぐ私を見つめている。
「たぶん初めて話した時からずっと。でも今はっきりしました」
私は紅茶に映る自分の顔を見つめ、意を決して言う。
「私は千明くんと話せて嬉しかったし、手も握りたいし、抱きしめたい。だから、私も千明くんをぶち壊してみせます!」
「壊す……?」
先輩はきょとんとして、驚いたようにパチパチと瞬きする。長い睫毛がふさふさ揺れた。
「だから一つだけ聞いてもいいですか?」
「……ええ。何かしら?」
「その……先輩はまだ、千明くんのこと好き、なんですか?」
さっきまで強気だったのに、みるみる縮こまって尋ねる私を見て、先輩は一呼吸置いてから「あははっ」と鈴のように笑い始めた。
「な!? 何で笑うんですか!」
「あはは……っ。ごめんなさい。本田さん、かわいいなぁと思って」
「……先輩に言われても信憑性に欠けます」
先輩はしばらくころころ笑ってから言う。
「答えはNOよ。実は私、今新しいボーイフレンドがいてね。ちょっと年が離れてて最初はお断りしてたんだけど、あまりに熱心だから付き合うことになって。今ではその彼のことすごく好きなのよ?」
「そ、そうなんですね!」
頬を緩ませてホワホワと言う先輩がかわいすぎて、私の方が照れてしまった。
「……ホッとしたでしょ?」
「ぐっ」
先輩が冗談っぽく私の鼻先をちょんとつつき、私は言い返せず言葉を呑み……二人して笑い合った。