8 レベル2の障壁
思えば先週の音楽の授業から、怒濤のような日々だった。
これまで私の日常は、いかに“毎日一言も発さずに帰宅するか”ということに特化していて、その点では単純で単調な毎日だった。
けれど、春の嵐の如く、美しくも荒々しい彼との出会いが、私の日常を鮮やかにぶち壊していった――。
そうでなければ、毎月訪れる最も憂鬱なこの日を忘れていられるわけがない……。と言っても、生理が来たわけではなくて。
「おはようございます! 9月24日金曜日のおはようジャパン、今日も元気にお伝えします!」
朝のニュースが始まり、アナウンサーが糊で固めたような笑顔でハキハキと言う。
「…………」
画面の反対側で、私はもっさもっさとトーストを頬張る。
(毎月24日が日曜だったら良いのに……)
しかも、今日の時間割は数学や古文など、生徒に当てたがる先生の授業が多い。少なくとも、数学では当てられること間違いなしだ。
そして、これまでと違い、千明くんという観測者に見張られている。
私はふと昨日の出席確認でのことを思い出す。
名前が呼ばれる直前まで、いつもみたいに全身がこわばっていて到底声なんか出せないと思っていた。
けれど彼と目が合って――いつも強気で破天荒な彼が、懸命に自身と向き合っている姿を見たら――何故だか少し身体の力が抜けたのだ。
(あの感じは何だったんだろう……)
少なくとも、彼がある程度本気で私と治療に取り組もうとしていることが知れて安心した。内心、『この人はただ治療と題して、女の子とエッチなことしたいだけなんじゃないのか?』という疑念もあったからだ。
女性関係についてはほとんど噂を聞いたことが無いけど……。
まあ、あれほど眉目秀麗な彼が、女の子に苦労しているわけはないだろう。学校以外での姿は全く知らないし、どこかに恋人の一人や二人いるに違いない。
「そりゃそうだよね」
はぁ、と小さくため息をつきながら呟き、そんな自分に驚き赤面する。
「いやいや、なんでちょっとガッカリしてるの私……」
「おかーさーん。ねーちゃんがまたブツブツひとりごと言ってるー」
私が頭を抱えてひとりごとを言っていると、杏平が迷惑そうに言う。
「あら茉莉ちゃん、どこか具合でも悪いの?」
お母さんが心配そうにキッチンから声をかけてくる。
「ううん、何ともないよ!」
「そう? ならいいけど。あ、今こっち見ないで!」
私がパッと振り向いて答えると、お母さんが慌てたように手元を隠した。
「いまネタバレしちゃったら、つまらないでしょ♪」
おそらく、いつものように面白おにぎりを作ってくれている最中なのだろう。私はハイハイと向き直り牛乳を飲んだ。
「ねーちゃん、彼氏でも出来たの?」
「ごぶぽっ!」
危うく牛乳を弟の顔面に吹き出すところだった。
「は!? いきなり何言ってんの!」
「だって、さっきからずっと顔面がヤバいからさ」
「どういう意味よ!」
三つ年下のマセた弟、杏平が生意気にからかってくるので私はキッと睨みつけて言う。
「そんなんじゃないから! ちょっと人間関係で悩んでるだけ。杏平こそ、中学でちゃんと友達できてるの?」
「……ねーちゃん、それ9月に聞くことじゃねーわ」
呆れた顔で杏平が言う。
杏平は去年まで私と蛍ちゃんが通っていた中学に今年入学した1年生なのだ。
(え? 一般的に友達って半年以内に出来るものなの?)
私はギクッとして、慌ててトーストを頬張り誤魔化す。
……危ない危ない。
うちの家族は誰も、私が学校でほとんど会話できないということを知らないのだ。
これまで小学校や中学の保護者面談でも、大抵の先生は『大人しい』とか『落ち着いた生活態度』などと言葉を濁すので、気づかれなかった。
たぶん、ちょっと内弁慶だとか、外では猫をかぶっているだけだと思われているのだろう。
「つーかオレ、友達どころか彼女もいるから」
ボトンッ、コロコロ……。
キッチンの向こうでおにぎりが落下した音がした。
「……え?」
突拍子もなく言い放った弟の言葉に、私とお母さんは言葉を失う。
「じゃ、オレ部活あるからもう行くわ。ごちそうさま」
「……ちょ!待ちなさい!」
衝撃のあまり石になってしまったお母さんに代わり、私は慌てて杏平に追求しようとしたが、あっさり逃げられてしまった。さすが陸上部、逃げ足の速さは一級品だ。
「杏くんに彼女……。大きくなったのね」
ポロリ、とお母さんが感激の涙を一粒こぼす。
……この流れはまずい。私に話が振られたら非常に困る。
私はそそくさと朝食をかきこみ、大急ぎで家を飛び出した。
「よ!」
校門に来ると、またもや千明くんが待ち構えていた。
イケメンにしか出せない何らかのオーラを発しているのだろうか……彼の周りだけ空気がキラキラしていて、ただ立っているだけなのに非常に目立っている。
待ち合わせに便利そうな能力だなと思う。
「『よ!』じゃないよ……もう」
目立つことが大の苦手の私は、やれやれと身を縮こませながら彼に近づく。
「?」
ふと視線を感じて辺りを見回す。
良く見れば、あちこちの物陰から彼のファンクラブの女子達が憤怒の形相でこちらの様子をうかがっていた。……末代まで呪われるんじゃないかと思うほどの怨念を発している。
私はぶるっと悪寒を感じて身震いした。
「……ちょっとこっち来て」
ひとまず人目につかなそうな校舎裏に彼を呼び寄せて言う。
「ねえ千明くん。お互いの治療のためだから、百歩譲って彼女役を続けるのは良しとするけど……わざわざ目立つことするのはやめてくれない?」
「百歩譲って、なのかよ。俺一応、引く手数多なんだけど?」
わざとらしく格好つけて前髪をかきあげる彼を、私はじろりと冷ややかな目で見る。
彼は構わず飄々と言う。
「茉莉花はもっと人に注目されることに慣れないと。ソロコンまであと3ヶ月もないよ? 俺としてもあいつらが寄り付かなくなって快適だし」
「あいつら?」
「あ」
千明くんは「やば」と言いながら突然真顔になった。そして、慌てたように私から目をそらす。
「……まさか」
私は全てを悟ってしまった。
「ファンクラブの子達を遠ざけるために、私を利用したの!?」
「いや違う! その……結果的にそうなっただけで……」
「信っじらんない!」
私は顔を真っ赤にして叫ぶ。
怒りよりも……途方もない恥ずかしさで胸が一杯だった。
「二度と話しかけて来ないで!」
立ち尽くす彼にピシャリと言い放ち、私は全速力で教室へと駆けていった。
(最悪、最悪、最悪……!)
私は走りながら激しい自己嫌悪に陥った。
よく考えればわかるはずなのに。
私は人前で喋れないから、人の秘密もばらしようがない。偽の彼女役には丁度良かったのだろう。
そうじゃなきゃ、私みたいな根暗で面倒臭い人間にちょっかいを出すはずないじゃないか。
一緒に治療しよう、というのも私を利用するための口実なんだ。
なのに私は、心のどこかで彼を本当に――。
「私ばっかり……馬鹿みたいじゃん……」
息を切らし、下駄箱の前で一人立ち尽くす。ポロポロと涙が足元にこぼれ落ちていく。
「あの、ちょっといい?」
「?」
いきなり背後から話しかけられ、私は慌てて涙を拭った。
振り向くと、緩やかにパーマのかかった豊かなロングヘアーにすらりとしたモデル体系の綺麗な女子が立っていた。
(確か、2年生の朝比奈先輩……?)
彼女はつい最近、引退した前任に代わり新生徒会長に任命されていたので、学校集会で顔を見た覚えがある。
そうでなくても、才色兼備な高嶺の花的存在として有名な人だ。主に男子の間で。
……別世界の住人のような彼女が、一体私に何の用だろう?
「本田茉莉花さん、だよね? はじめまして。私は朝比奈優菜と言います」
先輩は後輩である私に対して、とても丁寧にお辞儀をしながらそう言った。
「ぁ……ぃ……!」
私は例のごとく声が出なくなってしまい、慌ててお辞儀を返して誤魔化した。
顔を上げると、朝比奈先輩はしっかりと私の目を見て至極真剣な口調で言った。
「桐ヶ谷千明について、お話したいことがあります」