7 レベル1のごほうび
「長谷川……林……」
自分の順番が近づいてくる。
「藤本……」
どくん、どくん、と心臓が暴れまわる。自分の鼓動で身体が震えて、地震じゃないかと錯覚するほどだ。
私は廊下側よりの後ろの方の席。窓側の一番前に座る彼に声を届けようと思ったら、それこそクラス全員に聞こえる声量でなければならない。
「堀川……」
とうとう前の人が呼ばれてしまった!
「あれ、堀川は今日休みか。誰か知ってる奴いるかー?」
「先生ー。堀川もうすぐ来るよ。下で走ってるー」
誰かが窓から校門の方を見下ろして言った。
「なんだ堀川の奴……また寝坊か」
ハハハ……とクラスが笑いに包まれるなか、私はひとり決死の形相をしていた。
(やっぱり、無理……っ!)
私はそう伝えたくて千明くんに目配せしようとすると、彼は私の方をずっと見ていたのかすぐにバチッと目が合った。
そして彼は深呼吸をひとつすると、そっと手袋を脱ぎポリ袋の封を開けた。
(まさか……!)
千明くんが私のひよこシャーペンをつかむ。
……仔犬みたいにぷるぷる震えながらも、顔だけはドヤ顔で、私に小さくガッツポーズして見せた。
――ここまで来たら、やるしかない。
私も覚悟を決めた。
知らない人から見たら、全く理解不能だと思うけど、彼と私の間に今、見えない絆が生まれたのだ。
ひとしきりクラスの笑いがおさまった。そろそろ私の名前が呼ばれる頃だ。
「本田……」
すぅっ、と深く息を吸い込む。
「…………ハイ!」
いつもと違うと少し違和感を感じたのか、先生がこちらを見てパチパチと瞬きした。
けれど、すぐに何事もなかったように次の人の名前を呼び始めた。
(……できた!)
私は人知れず歓喜に震えた。
聞こえたよね、と確認するように彼の方を見やる。
千明くんはだらだら汗をかきながらも私のシャーペンを握り続け、いつものようにニッと笑って私に親指を立てた。
昼休み。
「やったー!! イェイ!」
この前と同じ屋上に向かう階段の踊り場で、私と千明くんは浮かれてハイタッチする。
もちろん彼は手袋をはめたままだけど。
「これ、返すよ。ありがとな」
千明くんは、ポリ袋に入れたまま、ひよこのシャーペンを返してくれた。
「それ、素手で取り出して返してくれたらもっと嬉しいけどなー」
私は意地悪く言う。
「……今日はもう勘弁してくれ。十分頑張っただろ、俺達」
「それもそうだね」
焦ったように作り笑いする彼に、私も笑い返す。
昨日はあんなに腹を立てていたのに……不思議と今では打ち解けてしまっている。
認めたくないけど、やっぱり私のこのコンプレックスを解消するには、彼の協力が不可欠なのかもしれない。
彼もきっと、長いこと一緒に潔癖症を治してくれる協力者を探し続けていたのだろう。だから、校門で待ち伏せまでして、私に固執しているに違いない。
だとしたら……不本意ではあるけど、特訓が終わるまで、彼の偽の彼女として過ごしてあげてもいいかなという気持ちになってきた。まあ顔はイケメンだし。
……とはいえ、“レベル10”が出来るほど彼を愛せるとは、今のところ全く思えないけど。
「よし、レベル1達成のごほうびを考えよう」
「え?」
唐突に彼が言った。私は首を傾げる。
「ごほうび無しで続けていくのは結構しんどいぞ。これからレベルが上がると、どんどん挫けそうになるから」
「確かにね……」
「何でもいい。何かやりたいこととか、してほしいことないか? 俺が出来ることなら極力協力するし。パートナーだからな!」
レベル1ですっかり自信をつけたのか、彼は鼻高々に胸を張る。
「ごほうびか……。そんないきなり言われても困るなぁ」
私は「うーん」と頭を抱える。
普段はごほうびと言えば、蛍ちゃんのカフェに行ってスイーツを堪能することだ。でも、それはいつでも出来るし。
というか、レベル達成しないと食べられなくなったら辛すぎる!
私は思い直してふるふると首を振る。
「出来たら千明くんに関することがいいよね。そうじゃないと、私が隠れてごほうびしてても気づかないでしょ?」
「なるほど。じゃあ、俺も茉莉花に関することで考えてみる」
私達はしばらくの間、揃ってうーんうーんと頭を悩ませた。
「あ」
私はふと思い出す。
「そう言えば、千明くんピアノやってたんだよね? 私、それにしようかな」
千明くんは良くわからないという風に「ん?」と眉をひそめた。
「まあピアノは弾けるけど。それが何のごほうびになるんだよ」
私は我ながらナイスアイデアだと思いつつ、彼に説明する。
「私が昔からお世話になっている親友のお家がジャズ喫茶をやっててね。そこにピアノがあるんだけど……」
小さい頃、ジャズが趣味の蛍ちゃんのおじいちゃんは、私が来ると良くピアノを弾いてくれた。
口数の少ない人で会話を交わしたことはなかったけれど、私にとってはむしろ有り難かった。
ポロリ、ポロリ……と奏でてくれるメロディーが「よく来たね」「また来てね」と言ってくれているみたいで……ただただ心地よく、ここにいていいんだという気持ちにさせてくれた。
けれど、蛍ちゃんのおじいちゃんは数年前に腰を悪くして、去年くらいから近隣の施設に入所している。
蛍ちゃんは今、通信制の高校に通いながら店を切り盛りしている。何も言わないけど、おじいちゃんの店を無くしたくなかったんだと私は勝手に思っている。
「私、そのカフェで聞くピアノが大好きだったの。だから、私がレベルアップする毎に一曲そこで弾いてくれない?」
私は目を輝かせて彼に言った。
「あー……。まあ別にいいよ。ていうか、そんなんでいいの?」
千明くんは一瞬悩んだように見えたが、案外すぐに承諾してくれた。けれど突然「あ」と顔を曇らせる。
「でもしばらくは手袋したままでいいか……?」
「あはは、別にいいよ」
ホッとする彼に、私はつい笑ってしまった。
「俺もごほうび考えないとなー。茉莉花って何か特技とかある? ……ないかー」
千明くんは腕組みしながら尋ね、私は首を振った。
「あ! じゃあ…………」
「待って。いかがわしいことは無しだからね」
「……そうか。それじゃあ……」
私が止めなかったら、一体何を言おうとしたんだろう……。知らぬが仏だ。
「そうだ」
突然、千明くんがパッと顔をあげた。私は思わず身構える。
「あのさ、献血に行ってくれないかな」
「?」
私は彼の意図が全く理解できず、眉間に皺を寄せる。
「どういうこと?」
「どうもこうも、社会貢献に決まってるだろ」
「……そういうの良いから」
「はい」
彼はしゅんとして、珍しく言葉を選ぶように考え込んでいる。
「始めに言っておくけど、別に茉莉花が汚いとか、その……リスクを伴う行為をしてるとかを疑ってるわけじゃないからな」
と前置きしてから話し始めた。
「献血に行くと、ついでに採血検査してくれるだろ?それでその……色んな感染症にかかってないかハッキリするから」
「あー」
……なるほど。
私は彼の言わんとすることを一足早く理解した。
「茉莉花に限ったことじゃないんだ。誰に対しても『万が一にも何かヤバい病気を持ってたら』って、どうしても考えちゃってさ……」
彼は声を落としながら言う。
「これから先、茉莉花のモノとか茉莉花自身に触れていく機会が多くなると思うから。訓練を続けていく上で、どうしても必要なんだ」
いつになく真剣な彼の眼差しに、思わず私はドキッとしてしまった。
「うん、わかった。採血するくらい全然構わないよ」
私は火照った頬を見られないように、うつむき加減で答えた。
「じゃ、それで決まりだな。ピアノの件、俺はいつでもいいから、その友達に都合聞いといてよ。茉莉花の方は検査結果が出たら教えて」
千明くんはすくっと立ち上がり、「それはそうと」と続ける。
「茉莉花の出席番号って24だったよな?」
「え? そうだけど、それが何?」
千明くんがニッと笑みを浮かべて、私にスマホ画面を見せる。
「明日は9月24日……丁度良い! この調子で明日はレベル2に挑戦だな」
私は差し出されたスマホ画面上に写っている自分のレベル表を確認して、思い出す。
――レベル2『授業で当てられた時にちゃんと答える』