epilogue 巡り逢う日々
「パパぁ、まーだー?」
ブオーンというドライヤーの音に負けじと、桃花が洗面所に向かって声を荒げている。
「ママぁ、はやくー!」
しっかり者の4歳児はこちらにもやってきてふて腐れながら叫ぶ。昨日の患者さんのことが気になって何気なくリビングで医学書を開いていた私は、慌てて「ハイハイ」と分厚い本を閉じた。
「あれ? 桃花、パパはどこ?」
「またシャワーあびてたのぉー」
桃花は小さな頬をぷくりと膨らませ、地団駄を踏みながら口を尖らせる。
「千明くーん。そろそろ行かないと遅れちゃうよ……わっ!」
洗面所の扉越しに話しかけた途端、バタンと勢いよくドアが開き。
「ごめん茉莉花。桃花もお待たせ!」
皺一つないスーツに光沢のあるシルバーグレーのネクタイ。手短にセットしたであろう髪も絶妙にキマっていて、我が夫ながらほぅとため息が出るほど格好いい。
私が見惚れているとは露知らず、彼は私達を見てキラキラと目を輝かせる。
「うわぁ、茉莉花も桃花も超かわいいじゃん! お姫様みたい!」
……そういう彼は学生時代から変わらず王子様そのものだけど。
私は苦笑いしつつ、娘とお揃いのパーティードレスに目を落とす。胸から下がふわりと広がった桃色のドレスだ。子供っぽくて少し恥ずかしいけど、桃花には良く似合っている。くるくる巻いてセットした髪に小さなティアラをのせてあげたら、すっかり気分はお姫様のようで。
「ふたりとも、はやくいくわよ!」
ツンと鼻を高くして優雅に玄関に向かう娘に、私と千明くんはクスクスと笑いあった。
「ねーちゃん、遅せぇ」
豪華に着飾った私達が向かった先は、都心の高級ホテル。
車を預けに行った千明くんより一足先に、私と桃花が“本田家 御親族待合室”と書かれた部屋に足を踏み入れると、タキシードに身を包んだ杏平が私を睨んだ。
「私じゃないよ。千明くんが2回も朝シャンしてたからだもん」
「へいへい。もう式始まるから急いで。あと、例のスピーチしくじんなよ?」
「わ、わかってるよ……」
梅雨の晴れ間の佳き日。今日は弟の結婚式なのだ。
そのお相手は――。
「本田さん!」
ハキハキとした良く通る声で呼び掛けられて振り返ると、夢のように真っ白なウェディングドレスを着こなした美女の姿があった。
「朝比奈先輩……すっごく綺麗です!」
私が目を輝かせて言うと、先輩はチッチッと指先をメトロノームのように動かして首を振り、
「違うわ。今は私が“本田”で、本田さんが“桐ヶ谷”でしょ?」
「ややこしいですね」
先輩は高級なさくらんぼみたいな唇を幸せそうに引き伸ばし、ふふっと笑う。
――杏平の婚約者が先輩であると知ったのは、つい最近のことだ。
確かに先輩は、高校時代から『年の離れた彼氏がいる』と言っていたけど、私は勝手に年上のダンディな紳士をイメージしていた。
実際は年下、しかも実の弟だったなんて。本当に世界って狭い。
ともかく今日はおめでたい日。
心からお祝いしたいのは山々なんだけど……。
「あの……私なんかが先輩の友人代表でスピーチして、本当にいいんですか?」
「OF COURSE! あなたは大切な友人であり妹でもあるのよ。これ以上の適任者はいないわ」
「うぅ」
ひと月前に依頼されたときにも、似たようなことを言われて断れなかったことを思い出す。大勢の前で喋るなんて未だに大の苦手なのに。
「ママ?」
慣れない場所で緊張したのか、ホテルに入ってから一言も発しなかった桃花が急に私の手をきゅっと握って呟いた。
「ん、桃花どうしたの?」
「……おしっこ」
「!」
私は小さき姫君の両脇を抱え上げて一目散にトイレへ走った。
親族のみの式は滞りなく終わり、私達一家は披露宴会場に移動した。
さすがは交遊関係の広い二人のことだ。会場は既にお祝いに駆けつけた人々で賑わっている。
「えぇと……」
自分達の座る場所を探そうと座席表を開いた矢先、突然ポンと背後から肩を叩かれた。
「――まーちゃん」
あまりに懐かしい、低く落ち着いた声。
「千明も久しぶり。桃花ちゃんは初めましてだね」
サラサラとした黒髪に良く似合う漆黒のスーツを着た蛍ちゃんが、ふわりと微笑んで立っていた。
「……蛍ちゃん帰ってきてたの! いつ!」
「落ち着いて。今朝帰国したばっかりだよ」
あまりに驚いて捲し立てる私に、彼は両手を前に出して苦笑する。
「俺達の結婚式以来だな」
千明くんがニッと笑って言う。
「そうだね。千明は何年経っても全然変わんないなぁ。若々しいというか童顔というか」
「うるさい! 蛍太こそ髭なんか生やして、なに格好つけてんだよ」
「日本人は海外じゃこれぐらいしないと、本当に高校生と間違われるんだよ。もうアラサーなのにさ」
膝の高さから「……けんか?」と不安そうな桃花の声がして、二人ともハッと口をつぐむ。私は笑いをこらえながら「大丈夫よ」と桃花の手を握り返した。
「向こうの生活はどう?」
私は少しだけ日焼けした蛍ちゃんに尋ねる。
「順調だよ。賑やかすぎること以外はね」
誰かを思い出したのか、蛍ちゃんはふふっと笑みを溢した。
あの日、御両親のいる海外へ移住した彼は、各国を転々とした後にアメリカはシアトルのとあるカフェで働き始めた。それから経緯はよく分からないけどそのお店を引き継ぐことになり、今では従業員も抱える立派な店長さんだ。
蛍ちゃんとは定期的にテレビ電話をしているが、その従業員さんの顔は見たことがない。けれど彼がその人の話をするときは決まって小動物を愛でるような見覚えのある顔をするので、きっと好い人なんじゃないかなーと勝手に思っている。
「そっか。その様子じゃ、まだまだ日本に戻ってくる予定はなさそうだね」
「うっ。ごめんね……約束破って」
「そんな昔のこと気にしないで。私は蛍ちゃんが幸せならそれで十分なの」
蛍ちゃんの喉仏がごくりと動き、狼狽えたように瞳が揺れた。
「お、おれも……」
「でも髭は剃った方がいいと思うよ。絶対」
毎度テレビ電話越しに言おうかためらっていたのだが……この際、いい機会なので言ってみた。
すると何か言いかけていた彼は、ほんのり上気した顔でパチパチと瞬きし、
「帰りのフライトで剃るね。絶対」
「?」
何故か少し肩を落として呟いた。
程なくして、照明がパッと落ち司会が披露宴の始まりを告げる。
わあっと歓声があがると共に、新郎新婦が入場してきた。
情熱的な深紅のマーメイドドレスにお色直しした先輩は、異国風の顔立ちも相まってハリウッド女優のような輝きを放っている。良くも悪くも隣の新郎を掻き消す程の存在感だ。
「先輩、本当に綺麗だね」
心の底から拍手を贈りながら、私は今日一日で何度思ったかわからない台詞を千明くんに呟く。
けれど割れんばかりの拍手喝采のせいで聞こえなかったのか、返事はない。
「ねぇ千明くん」
勇気を出して少し大きい声で言ってみても、千明くんは私に見向きもせずじっと先輩の姿を追っている。
気持ちはわかるけど……そんなに凝視されると、何だか少し胸がモヤッとしてしまう。
「ねぇってば」
「……かった」
彼の顔を覗き込みながら声をかけた瞬間、私は言葉を呑んだ。
「優菜が幸せそうで……本当に良かった」
赤みを帯びた目尻から透き通った雫が一粒落ちて、安堵したように笑う彼の口角を撫でる。
人一倍傷付くことに敏感で。
誰かを傷付けたことに心底傷付いてしまう人だから。
遠ざけたくないのに拒絶した自分を、ずっと責めていたんだろうか――。
「そうだね」
小傷の多い手を懸命に打ち鳴らす彼の表情がとても優しくて、私は涙声を聞かれないよう、そっと手元の食前酒に囁いた。
一連のお堅い挨拶が済むと、ひとときの歓談タイム。
披露宴での食事を散々心配していた千明くんだけど、結局は桃花に『あーん』してもらって事なきを得ていた。父娘の微笑ましい光景に、親戚一同も杏平そっちのけで二人の写真をパシャパシャ撮っている。
しかし私は……刻一刻と近づく自分の出番に気が気じゃなかった。
前菜が下げられ会場が暗転すると、忽ちスクリーンが降りてきて新郎新婦の紹介ビデオが始まった。これが終わると、いよいよ友人からのスピーチタイムである。
「茉莉花」
気持ちを落ち着かせるべく、暗闇に乗じて深々と腹式呼吸を繰り返していると、不意に千明くんがテーブルの下で私の手を取った。
「大丈夫か? 手震えてるじゃん」
スクリーンには、丁度ピアノコンクールで並んで賞を貰う幼い先輩と千明くんの写真が映っている。けれど、千明くんはそんなのお構い無しに私を心配そうに見つめていた。
「キツかったら、今からでも俺が代わるぞ?」
「……ううん。いいの。折角先輩が任せてくれたんだから」
「わかった。無理すんなよ」
何年経っても、その屈託の無い笑顔を向けられると心がむずむずして顔が火照ってしまう。
鼓動がさらに早まったのを悟られないよう、私は必死に笑顔で囁いた。
「へ、平気平気! 今日はカンペがあるからね。患者さんに問診するよりずっと簡単――あれ?」
ビデオが終わり会場が徐々に明るくなるとともに、私は小声で間抜けな声を上げた。
「どうしよ」
「どうした?」
「カンペが……ない」
冷や汗を流してポーチを漁る私に、千明くんが「え?」と首を傾げる。
「おかしいな、今朝絶対にポーチに入れたんだけど。あれ口紅もない」
「口紅? ……あれ、そういや桃花は?」
「え」
言われて見れば、先ほどまでちんまりと席についていたはずの桃花の姿がない。私と千明くんは揃って真っ青になる。
そのとき。
「できた!」
不意に足元から桃花の声が聞こえた。私達は慌ててテーブルクロスを勢いよくめくり上げる。
すると、円卓の下には――蕾に眠るおやゆび姫の如く地べたに座り込む桃花の姿があった。
「パパママみて! はなよめのおねえさんかいたの」
いつの間にそんなところに潜り込んでいたのやら。ひょっこりと顔を出した桃花は、その手に真っ赤な紙切れを持っていた。すごく嫌な予感だ。
紙切れを受け取った千明くんの手元を恐る恐る覗き込むと、案の定それは、無惨にも口紅で塗りたくられたスピーチのカンペだった。
「「Oh……」」
先輩の英語を聞きすぎたせいだろうか。
私と千明くんは思わず同じ単語を漏らして石化する。
「ごめんね桃花。退屈だったよね……お絵描きしてた方が楽しいもんね……は、ははは」
「茉莉花? 帰ってこい茉莉花ぁ!」
混乱して笑いが止まらなくなった私の肩を、千明くんがぶんぶん揺すって叫ぶ。
しかし、時は待ってくれない。
「それでは、新婦ご友人、桐ヶ谷茉莉花様よりお言葉を賜りたいと思います。桐ヶ谷様、宜しくお願い致します」
司会に名前を呼ばれた瞬間、氷の塊を呑んだみたいに鳩尾が凍りついた。
拍手に急かされるように立ち上がると、会場中の視線が自分に集まる。もう後に退けない。
震える足で何とかマイクの前に立つ。マイクをつついて動作確認しようとしたら、キィンと耳障りな音が鳴ってしまい、余計に肝を冷やした。
「ぁ……えと……その」
絞り出すように発した声が、何倍にも増幅されて響き渡る。当たり前のことに動揺してごくりと唾を呑んだ。
「た、ただいまご紹介に預かりました、新婦友人兼新郎の姉の桐ヶ谷茉莉花です。本日はご結婚、誠におめでとうございます。せ、僭越ながらお祝いの言葉を述べさせて頂きます……」
よし、少し吃ってるけどいい調子。
お決まりの文句は何度も練習済みだから、頭に入っている。
「朝比奈先輩……じゃなくて優菜さんとは高校時代からのお付き合いで」
うわ、間違えた!
と思った瞬間、頭が真っ白になる。
何だっけ、何だっけ……早く思い出さなきゃ!
「……っ……」
まだまだ序盤。感動して涙ぐんでるわけでもないのに黙りこくる私に、会場が少しざわついた気がした。
千明くんや蛍ちゃんの顔を見て安心したいのに、視界がぐるぐるしてもはや誰が誰だかわからない。
(どうしよう……!)
私が途方に暮れてきゅっと目を閉じた時だった。
「茉莉花!」「まーちゃん!」
急に探し求めていた二人の叫び声がしてハッと目を開くと、千明くんと蛍ちゃんが同時に立ち上がっていた。
途端に会場中の視線は二人に集まる。
「ん?」「え?」
しかし、どちらも周囲の目などまるで気にしていない。ただ単に、お互い立ち上がったのが自分だけで無かったことに驚いたようだ。
千明くんと蛍ちゃんはきょとんと見つめ合い、すぐに揃って不愉快そうに顔をしかめると、
「「頑張れ!」」
競うように同じ台詞を叫んだ。
司会が「えぇっと、お客様……?」と戸惑ったように言うと、二人は今さら恥ずかしくなったようで、頬を染めてしずしずと着席する。
それを見ていたら。
「ふ、くふふっ」
沸々と笑いが込み上げてきて、マイクの前に立っていたことなど忘れてしまっていた。
「朝比奈先輩は高校時代、みんなに信頼される生徒会長でした――」
言い間違いなんて、もう気にしない。
私はふっきれて思うがままに話し始めた。
「気さくで、優しくて、思いやりもある上に美人で。そんな最高に素敵な先輩の相手が、この不出来な弟で本当に良いのかなぁと未だに思うんですよね」
新郎本人から「おいッ」とツッコミの声が上がると、ハハハッと会場に笑いが巻き起こる。
「でも、誰しも始めからぴったり相性の合う人なんていないと思うんです」
私は胸に手を当てて続ける。
「全然違う人同士が出逢って、少しずつ形を変え合って、やっとぴったり合わさるようになる……。だけど人が変わるにはもの凄いエネルギーが必要だから、お互いを想う気持ちだけじゃ、ちょっぴり足りないんですよね」
顔を上げると、自然に蛍ちゃんと目が合った。暴れていた心臓がすぅっと落ち着きを取り戻していく。
蛍ちゃんは少し狼狽えたようだったが、私は真っ直ぐに彼を見据えて言う。
「それは家族だったり、友人だったり、大好きな幼馴染みだったり……。色んな人の想いが今日までの二人を支えてきたんだと思います」
私が微笑むと、蛍ちゃんの瞳がふるっと揺れた気がした。
「いくつもの奇跡みたいな出逢いと、たくさんの人の想いが巡って、先輩を私達の家族にしてくれたことを本当に嬉しく思います。もし何か壁にぶつかったときには、いつでもぶち壊しにいく義理の妹とその夫がいることを忘れないで下さい。どうか末永くお幸せに」
役目を終えた私が一礼すると、温かい雨のような拍手が降り注ぐ。
席に戻ると、桃花を膝に乗せた千明くんがやけに真面目な顔をして待っていた。
「俺……茉莉花のこと一生大切にするよ」
「えぇ、どうしたの急に?」
ママぁ、と甘えてこちらの膝に乗り移る桃花を抱き止めながら、私は照れて笑う。しかし千明くんの真剣な表情は変わらない。
「何だろ。今、すごく茉莉花のことが好きだなぁって思ったんだ」
「も、もー千明くんてば、酔ってるの?」
気恥ずかしくなって桃花の後頭部に顔を埋めると、千明くんは私の耳元で囁いた。
「帰ったら、いい?」
「……!」
出逢って、巡って、そうやって私達は変わってきた。
あの頃にはまるで思い描いていなかったような幸せが、ここにある。
だけど。
この幸せがずっと続けばいいのに、なんてことは少しも思わないのだ。
だって変わることは――。
「ぃぃ……ょ。ていうか千明くんこそ平気なの?」
「平気だし! それに、そろそろ二人目欲しいじゃん」
「声大きいからっ」
こんなにもワクワクして、胸が高鳴ることなのだから。
【完】




