40 変わりゆく日々
千明くんの姿が見えなくなっても、私はしばらく校門に佇んでいた。日に日に短くなる午後の陽射しは既に傾き、空の端が茜色に染まり始める。
……この気持ちは何だろう。
胸がじーんとして、嬉しいんだけど少し寂しくて、離れたくないのに背を押したい。
もしかして私にいつか子供が出来たら、その子が成長していく度にこんな気持ちになるのかもしれないな……。
そんな遠い未来のことをふと考えてしまうのは、慣れないことをし過ぎて脳みそが疲れてるせいなんだろう。
「あー……甘いもの食べたい」
カランカラン。
「いらっしゃいませ」
久しぶりに聞く、懐かしい声。
気がつけば、足が勝手に蛍ちゃんのお店へ向かっていたのだ。
「あ、まーちゃん。今はちょっと……」
私を見つけて嬉しそうに眉を上げた蛍ちゃんは、すぐに語尾を濁してテーブル席の方をチラリと見る。珍しく他のお客さんがいたのだ。3~4人のおば様達がワイワイと楽しそうに会話している。
蛍ちゃんは口元に手を当てて囁く。
「……すぐに用意するから上で待ってて?」
「ううん。別にここで平気だよ」
そう言うと、彼は「え?」と目を丸くした。
「それより聞いて。今日ね、私みんなの前で歌えたんだよ! 緊張疲れしちゃったから甘いものお願いー」
カウンター席に腰かけるなり堰を切ったように話し出すと、蛍ちゃんは丸くしたままの目をぱちくりさせる。
それから、ふふっと小さく微笑んで。
「まーちゃん変わったね」
「え?」
「何だろうなぁ。嬉しいんだけど、少し寂しい気持ちがするよ」
コポコポとカップに珈琲を注ぎながら言う彼に、私は「あ」と思い出して言う。
「何となくその気持ちわかるかも。今日私も千明くんを見てそんな感じがしたの。潔癖症が治っていくのは嬉しいはずなのに……ちょっと情けない千明くんのままでも好きだったなと思って」
「ちょっと、まーちゃん? おれの前で千明とのノロケ話は禁止」
「え、ごめん! そういうつもりじゃ……」
あたふたする私に彼は大人びた優しい笑顔を返してくれる。チクリ、と胸が痛んだ。
しばらくして、
「お待たせしました。クレームブリュレとホットカフェオレ、ミルク多めです」
私は待ってましたとばかりに黄金色の表面をコツコツとスプーンで割る。とろりとクリームが溢れだし、一口舐めると至福の味に脳が痺れた。
「はあぁ、癒される~」
思わず湯船に浸かったみたいにため息が出てしまう。
「ふふっ、その顔は全然変わらないね」
蛍ちゃんこそ、私を見るときの小動物を愛でるような眼差しは相変わらずだと思う。
すると、突然。
「あらぁ~蛍太くんの彼女さん?」
お会計に来た上品なおばあさんに声を掛けられた。私が来る前からテーブル席にいたお客さんの一人だ。蛍ちゃんの名前を知ってるってことは常連なんだろうか。
「違いますよ。幼馴染みで親友で、大切な常連さんです」
失恋の傷をえぐるような質問にも動じず、蛍ちゃんは笑顔を崩すことなくレジを打った。
「あらま、ごめんなさいね。年をとると何でも早とちりしてしまって嫌ね~」
おばあさんはオホホとひとしきり笑ってから続ける。
「それにしても残念だわぁ。このお店がなくなっちゃうなんて」
「……ぇ?」
……何を言ってるんだろう?
「事情はおじいさんのお友達から聞いたわ。今年いっぱいで閉店なんでしょう?」
「はい。長らくご愛顧いただきありがとうございました」
蛍ちゃんは至極当然のようにお辞儀をする。私だけが何一つ呑み込めず時が止まったように耳がキーンとしていた。
「それからお嬢さん」
「えっ、はい?」
おばあさんの声で、現実に引き戻される。
「変わっていくのが寂しいだなんて思うのは、おばあさんになってからで十分よ。だから悲しまずに、蛍太くんの背中を押してあげてね」
そう言って微笑むと、おばあさんは一緒に来ていた人達と共に店を出ていった。
店内には私と彼だけが残される。
急に訪れた静けさに、互いの息遣いまでもがハッキリと聞こえた。
「実は」
私が尋ねるよりも早く、彼が沈黙を破った。
「じいちゃんが入所してる施設、結構お金がかかるらしいんだ。親戚同士で散々相談したんだけど、結局この店を土地ごと売却することになってさ」
「で、でも、それじゃあ蛍ちゃんは……?」
「父さんと母さんの所に引っ越すよ」
ダメだ。頭が追いつかない。
それに確か蛍ちゃんの御両親は、仕事の都合で海外を転々としていたはずだ。
「えっと……引っ越すってどこに、いつ?」
「シンガポールに、今月末」
変わらない口調で言う彼が信じられなくて、目の前が真っ暗になった。
この場所だけは、いつまでも変わらずにあると思っていたのに――。
「……聞いてまーちゃん。おれ、将来自分のカフェを開きたいと思ってるんだ。父さんと母さんについていけば色んな国に行けるでしょ? 世界各国のお茶やスイーツを勉強して、いつか必ず日本に戻ってくるよ」
にっこり笑う彼の背中を笑顔で押せるほど、私はまだ大人になれないみたいだ。
「その時はまた、常連さんになってね」
蛍ちゃんの長い指が、私の頬を伝る涙をそっと掬いとる。
「……もう。まーちゃん、しょっぱくなっちゃうよ?」
それでも涙はパタパタと零れて、夢のように甘かったクレームブリュレを塩味に変えてしまう程だった。
時は流れ――。
「ごめん茉莉花、お待たせ。……えぇ!」
大晦日の夜。
案の定遅刻してきた千明くんは、空港のミーティングポイントで待っていた私を見るなり目を剥いた。
「き、着物!? いや、めっちゃ可愛いけど。超目立ってるな」
確かに、言われてみればさっきから道行く外国人達が物珍しそうに私を見ている。
「千明くんと初詣行くって言ったら、お母さんが着付けてくれたの。それに――蛍ちゃんも喜んでくれるかなと思って」
「だな」
千明くんはニッと笑って歩きだす。手には空港のフロアマップが握られていた。
「この辺だと思うんだけど」
千明くんがマップをくるくる回しながら目線をやった先は、シンガポール行きの発着ロビー。
二人して辺りをキョロキョロしていると。
「まーちゃん? え、着物! うわぁすごい綺麗だね……目立つからすぐ見つかったよ」
蛍ちゃんが現れて、数分前の千明くんとまるで同じリアクションをした。
「わざわざ見送りに来てくれてありがとね」
「当たり前でしょ! 大切な親友だもん」
私が感極まって蛍ちゃんの手をとると、千明くんが「む」と呟き眉間に皺を寄せた。
それを見てか、蛍ちゃんはほんのり毒気のある笑みを浮かべる。
「千明もありがと。でも、おれがいないからって油断しないほうがいいよ。今どき世界のどこにいたってテレビ電話できるんだから」
「そっか! 蛍ちゃん、向こうに行っても絶対連絡取り合おうね」
「もちろん。少なくとも週1で連絡するよ」
「うん!」
「待て待て! それじゃあ恋人同士みたいじゃん!」
慌てふためく千明くんの様子が可笑しくて、私と蛍ちゃんはクスクスと笑った。
「それじゃあ」
蛍ちゃんは最後にそう言ってふわりと微笑むと、私達に背を向けて搭乗口に向かった。
濡れたような黒髪を颯爽となびかせて歩く後ろ姿が、ついに完全に見えなくなる。
「……行こっか」
「おう」
私がそう言って駅に向かって歩き始めると、千明くんは静かに隣をついてきた。無邪気でお喋りな彼だけど、この時は私が口を開くまでじっと待っていてくれた。
「成田山、混んでるかな?」
「たぶんな。今から電車乗って着く頃には、ちょうど年明けだろうし」
「迷子にならないようにしないとね」
「大丈夫だろ、ほら」
彼の温かくて大きな手の平が私の手を包み込み、指同士を絡ませるようにしっかりと繋いだ。
私達は新しい年に向かって歩き始める。
「ねぇねぇ、ついでに年越し蕎麦食べに行こうよ」
「えぇ……じゃあ茉莉花が注文してみる?」
「むぅ」
「ははっ、冗談だよ。注文は俺がするから茉莉花は『あーん』宜しく」
「蕎麦を!?」
変わりゆく日々を愛おしみながら。
【完】




