4 協力しよう
――あの日から、何となく彼のことが気掛かりで、ふと目で追ってしまう自分がいる。
潔癖症と聞いてから彼の行動を見てみると、いろいろと合点がいくことが多い。
例えば、桐ヶ谷くんは、昼休みになった途端にそそくさと教室を出る。
普段は私もすぐに図書室に退散していたので知らなかったが、彼にはクラスや学年の枠も超えたファンクラブがあるらしく……。昼休みが始まって少しすると、彼女達がお手製弁当を持って押し寄せるのだ。
潔癖症の彼にとって、他人の料理を口にするのがどれだけハードルが高いことか……想像出来なくもない。
また、男子達がこっそり持ち込んだゲームやちょっとエッチな本などを取り囲んで賑わっていても、彼は決して輪に入ることはない。
というより、常に人と一定の距離を保ち、ぶつかりかねない事態を避けているように見える。
また、小さい消毒用アルコールスプレーと除菌テイッシュをポケットに常備している。
体育の授業後などで外に出た後は、次の授業中もずっと密かに手を殺菌しているみたいだ。
「あ!もしかして、マイチョークも」
私がふと呟くと、桐ヶ谷くんは「あー、気づいてたか」と少し驚いてから、すぐに苦虫を噛み潰したような顔になる。
「クラス中で使い回したチョークを素手で触るとか……うぅ……おぞまし過ぎて吐くだろ」
「そこまで言わなくても……」
翌週の音楽の授業。
相変わらず私と桐ヶ谷くんは、せっせと掃除に精を出しながら話す。
彼は思い出したように身震いしながら「いやいや」と首を振る。
「人間の手にどんだけの雑菌がいると思ってるんだよ。それが何人も繰り返し握ったチョークだぞ。もはや、う○こだから」
「なっ…………!えぇ!?」
突然のう○こ発言に言葉を失う。
言ってることも理解不能だけど、それ以前に、このおとぎ話の王子様みたいな容姿の彼の口から、う○……!?
昼休みに彼を追いかけ回していた女子達が聞いたら、さぞ幻滅するだろう。
「桐ヶ谷くん……。せっかく格好いいんだから、あんまりそういうこと言わない方が良いと思うよ」
私は頭を抱えながら言う。
「え? あー悪い。俺、思ったことすぐ言っちゃうタイプだからさ」
彼は少し考えてから、言い直す。
「じゃあ、あれだ。チョークの汚染度は便座くらいってことにしよう」
「もういいです…………」
明日から私もチョークを触るのに支障が出そうなんだけど。
私は棚にごちゃごちゃと積まれた楽器の埃を拭き取りながら、ため息をつく。
(喋らなかったら超イケメンなのに……なんか残念な人だなぁ)
「やってるー?」
突然、音楽の田山先生が居酒屋に来るみたいなノリでやって来た。
そして、口をあんぐり開けて立ち止まる。
「な、なにこれ! めちゃくちゃ綺麗になってる! ありがとう! ……じゃなくて」
先生はふるふると首を振る。
「何で二人して掃除してるのよ!?」
先生が入ってきた途端――私はいつもの息が上手く出来ない感覚に襲われる。
(どうしよう、今マスクもしてないのに……。とにかく何か返事しないと……!)
先生が不可解そうにじっとこちらを見ている。私はオドオドと声にならない吐息が漏れるばかりだ。
「先生が普段からちゃんと掃除してないから代わりにやってやってるんだろー。な?」
口をパクパクするだけの私を尻目に、桐ヶ谷くんがピシャリと言う。私もとりあえずウンウンと頷く。
「はいはい、悪かったわね。とにかく、ちゃんと練習してよね! 歌いにくいところあったら呼んでね」
田山先生はやれやれという風に手を振って、さっさと教室に戻っていった。
「……ぷはぁー」
桐ヶ谷くんと二人きりに戻って、やっと楽に呼吸できるようになった。私は大きく深呼吸する。
そんな私を見て、彼は眉間に皺を寄せる。
「本田さんのソレ、結構重症だよな」
「……桐ヶ谷くんだけには言われたくないよ」
彼は私の言葉など気にも止めず、真顔で続ける。
「とりあえず、練習してるフリだけでもしとくか」
そう言うと、彼は準備室にあった古いラジカセを一通り除菌テイッシュで拭ってから、CDを入れて再生ボタンを押した。
“Amazing Grace, how sweet the sound, ”
秋の柔らかな日差しが降り注ぐ午後の音楽準備室に、外国の女性歌手の清らかな歌声が響く。
“That saved a wretch like me――”
「実は先週の音楽の後から、なんか本田さんのこと気になっててさ」
「!?」
無心でトライアングルの埃を拭いていた私は、唐突なその言葉にドキッと手が滑りそうになる。
「昔買った本でもう一度調べてみたんだよ」
「あー……」
(私じゃなくて、病気のことね……)
私はホッとしたような残念なような気持ちで掃除を再開する。彼は気にせず続ける。
「場面緘黙症を治すには、俺の潔癖症と同じで、認知行動療法が有効らしい」
「え、にんち……何?」
桐ヶ谷くんがまたもや難しい単語をさらりと言うので、私は頭上にはてなを浮かべて首を傾げた。
「認知行動療法。自分が恐いと思うことにあえて直面させて、少しずつ慣らしていくんだ」
「例えば」と言いながら、彼はしっかりと手袋をはめ直し、手近にあったカスタネットを2つ手に取る。そして机の上に、それぞれ赤い方と青い方を上にして並べた。
「一対一での会話に慣れてきたら、一対二」
彼は青を上にしたカスタネットを1つ足す。
「それが出来たら、一対三」
さらに青がひとつ足された。
「段階を踏んで出来ることを増やしていく」
「なるほど…………」
私は真剣に彼の説明に耳を傾ける。
「そんで、最終的には…………」
桐ヶ谷くんは「よっと」と言いながら、カスタネットがたくさん入った箱を机にドカッと乗せる。
「クラス全員の前で歌う」
“――Than when we'd first begun.”
ちょうど再生が終わり、再び沈黙が流れた。
「やっぱり歌わないとダメ……だよね?」
おずおずと尋ねると、彼はニッと意地悪そうに笑う。
「歌わないで突っ立ってる方がよっぽど羞恥プレイだと、俺は思う」
「ぐぅ…………」
それはごもっともだけど…………ねぇ。
「それでさ、良いこと考えたんだけど……俺たち協力しないか?」
「?」
戸惑う私をよそに、桐ヶ谷くんは無邪気に目を輝かせて言う。
「俺、前に一人で治療しようとして一回挫折してるんだ。それで思ったんだけど、やっぱり自分だけでやるのは無理があるわけ」
「そうなの?」
「ああ。だってさ、例え勇気出して誰かの手を握ってみようと思っても…………」
彼はそっと手袋を外し、恐る恐る私の方に手を伸ばす。
「え! ……な、何?」
私はビクッと肩をすくめてどぎまぎするが、彼は全く気にせず必死の形相で冷や汗をかきながら手を近づけてくる。
「……ぐっ……ぬぅっ…………」
まるで、見えない何かと戦っているみたいだ。
じわり、じわり、と彼の手が近づくほどに、私の心臓はどんどん、どんどん、と早く大きく音を立てていく。
「ダアッ!」
――ちょん。
「……ん?」
手の甲に彼の指先がほんの一瞬だけ触れた、気がした。
「……はぁ、はぁ…………な?」
彼は肩で息をしながら、やりきった顔でこちらを見る。
「これ、何も知らない人にやろうとしたら完全に不審者だろ?」
「そ、そうだね」
蚊が止まったかな?というくらいの超ソフトタッチだったけど……指摘しないでおこう。
ふぅ、と桐ヶ谷くんは息を整える。
「つーわけで、俺は本田さんの治療に協力するから、本田さんも手伝ってくれ」
「えっと……うん。それは私も有難い話だし、よろしくお願いします」
あぁ、なんか勢いで承諾してしまった……。
早くも心配になる私をよそに、桐ヶ谷くんは小さく「やった」と拳を握る。
そして、真っ直ぐな瞳でこちらを見ると、
「ありがとう本田さん!」
必殺技とも言える笑顔でそう言った。
(あぁ、まぶしい!!)
「……で、具体的にはどうするの?」
私は日差しを避けるように彼の姿を手で隠しながら尋ねた。
桐ヶ谷くんはニッと笑う。
「まずは、自分の出来ないことをレベル順に10個くらい、紙に書き出して来てよ。1がちょっと頑張れば出来ること、10がかなり努力が必要なことね」
「わかった、やってみる」
「詳しいことはまた明日話すから、とりあえず昼休み空けといて」
私がこくんと頷くと、彼は遠足前の小学生みたいに目を輝かせた。
何とも言えない不安を感じながらも…………少しかわいいと思ってしまった。