38 レベル10の3分の1
それから、千明くんと私の猛特訓が始まった――。
「ふふふーん、ふーんふーん……」
彼の治療や、私の他のレベルのことは一旦忘れて、差し迫った状況の私のレベル10に全力投球することにしたのだ。
「ふーふふーん、ふーふん……」
レベル10を細分化し、まずは人前で鼻唄を歌うのに慣れてみようということになり。
「本田さん、最近えらくご機嫌やね」
「ふっ?」
挑戦し始めて一週間。
昼休みのざわつく教室で一人“Amazing Grace”を口ずさみ続けていた私は、さぞかし怪しかっただろうに……。
「ありがとう小森くん!」
「?」
私は彼の手を取り、まるで救世主のように頭上で崇め奉った。誰かに声をかけられるまで歌い続ける、というスパルタな特訓だったのだ。
「レベル10の3分の1はクリアだな」
遠くから見守っていた千明くんがいつの間にか側に来ていた。小森くんと私の手が繋がれているのを見るや否や、ヒクヒクと眉を引き攣らせる。
その直後。
「――千明様ぁ!」
愛実ちゃんがスキップ混じりに巨大なバスケットを持ってやって来た。サポーターをつけた足でどうやったらそんな軽やかに歩けるんだろうか。
「一緒にお茶しませんか? お昼食べない派って聞いたのでクッキー作ってきたんです! ……たくさんあるから、翼とだんまりも食べなさいよ」
そして、有無を言わさずガタガタと机をくっ付け始める。
さすがに怪我人にやらせるわけにはいかないので、私たちも手伝った。お昼休みに机を並べてお喋りするなんて小学生の給食みたいで恥ずかしいけど。
(……賑やかだなぁ)
慣れないことに少しウキウキしてしまうのは、私だけだろうか。
「じゃーん!」
愛実ちゃんがバスケットの中の包みを広げると、ほわんとバターの甘い香りが漂った。美しい色とりどりのクッキーに、小森くんと私は揃って「おぉ~」と感嘆の声を上げて手を伸ばす。
「すっごく美味しいよ、愛実ちゃん!」
「ほんまに売り物みたいやわ」
私達の大絶賛にフンッと鼻を高くする愛実ちゃんだが、千明くんが難しい顔をして手をつけようとしないのを見て、微かに肩を落とした。
「あのさ高橋さん、お願いがあるんだけど……」
私がパクパクと三つほど食べ終えた頃、千明くんがやけに真剣な面持ちで口を開いた。
「俺の口にクッキー入れてくれない?」
「……はぁ?」
事情を知らない愛実ちゃんは、猫をかぶるのも忘れて素頓狂な声を上げる。
しかし、千明くんが「ん」と目を閉じて口を開けると、その色っぽい表情に即刻ハートを射ぬかれたようで。
「千明様、いま『あーん』しますね!」
恥じらいながらも、ゆっくりと彼の口に手を伸ばしていく。
(それは、私の役目なのに……!)
「「待っ」」
私が思わず声を上げると、小森くんとドンピシャで被ってしまった。
お互いに遠慮して先を譲っていると、まるで貯金箱に五百円玉を入れるかのように、愛実ちゃんは慎重にクッキーを彼の口に差し入れた。
「……お。本当だ、美味いなこれ」
「――っ!」
途端、愛実ちゃんがハッと口を押さえて目を潤ませる。
「うっ、ひぐっ……やっと千明様がめぐの作ったものを食べてくれたぁ~」
「!?」
突然泣き出す愛実ちゃんに、今度は千明くんが目を見開いた。
「わぁーん!」
人目を憚らず泣いて喜ぶ愛実ちゃんに、私まで目頭が熱くなる。彼女の努力を思うと、いつの間にか嫉妬心も吹き飛んで拍手を送りたい気分だった。
「……俺、今までどれだけたくさんの人の想いを無視してきたのかな」
ポンポンと小森くんに背中を撫でられる愛実ちゃんを見て、千明くんは呟く。
「これからは作ってきてくれた人に感謝して、一口だけでもちゃんと食べるようにしよう。この方法なら食べられるってわかったし」
「う、うん」
「ダメ?」
「……何で私に訊くの?」
「茉莉花、妬いちゃうかなと思って」
「!?」
見透かされてあたふたする私を見て、千明くんはクスクスと笑う。
そんな彼を見て、
「ちあきさま……?」
こんな小さな声だせたんだ、と驚くほどか細い声で愛実ちゃんが呟く。無論向かいに座る千明くんには聞こえてないみたいだ。
「イタッ!」
いきなり机の下で誰かに足を踏まれた。
驚いて咄嗟に下を覗き込もうとすると、
「……ぉめでと」
「へ?」
「うっさい! 何でもない!」
「え? ……イタタッ!」
何やらごにょごにょ言う愛実ちゃんに、さらに強く足を踏まれた。
音楽準備室での練習もあと4回。
その次は本番だ。
二ヶ月かけて掃除してきた準備室は遂に手の施しようがないほどピカピカで、今や千明くんのオアシスと化していた。
「次はレベル10の3分の2。茉莉花、俺の前で歌ってみてよ」
リラックスした様子で椅子に腰かけた千明くんが言う。
「あ、うん」
そもそも今まで一度も歌ってこなかったのがおかしいんだけど、いざ二人きりで歌えと言われると緊張する。
カチ、と千明くんがスピーカーの電源を入れるとイントロが流れ始めて。
「“Amazing Grace”」
照れ臭くて俯きながら歌い始めると、千明くんがすぐさま立ち上がってこちらに歩いてきた。
「“how sweet the sound,――”ひゃう!」
「気にせず歌って」
彼は、戸惑いながら歌う私のおでこをちょいとつついて前を向かせる。
「“That saved a wretch like me”」
「取りあえずキーは下げた方がいいな」
(すごく歌い辛いんですけど……!)
顎に手をやりぶつぶつ独り言を言う彼に見られながら歌うのは、相当メンタルをやられる。下手したらクラス全員の前で歌う方がマシかもしれない。
「“――Than when we'd first begun.”」
一曲歌い終えた頃にはどっと疲れていた。
「うん、大体わかった」
千明くんは、部屋の隅に置かれていた電子ピアノの蓋を開けて鍵盤に指を置く。
「今度は俺の伴奏で歌ってみよう。さっきより音程が低くなるから気をつけて」
「え、あの」
問題は歌の上手い下手ではなくて、大勢の人の前で歌えるかってことなんだけど……。
音楽のスイッチが入ってしまった彼には、たぶん何を言っても無駄な気がする。
「それから姿勢。足を肩幅に開いて重心はつま先寄りに。顔は上げるけど顎は引いて……そうそう。そのまま下腹を引っ込めたら、ケツの穴を締める!」
「ケ!?」
言われた通りにしていた私は、そのままの勢いでキュッとお尻に力を入れて赤面する。彼の無鉄砲さにも慣れたけど、やっぱりその貴公子顔でそういうこと言われると頭が追いつかない。
「いいじゃん。じゃあ始めるぞ――」
これまでの時間を取り戻すように、私達は真剣に練習に取り組んだ。
時間があっという間に過ぎていく。
世の中はクリスマス一色だけど、この1ヶ月、私達の間に全く甘い雰囲気はなかった。謎のスイッチが入ってしまった千明くんの熱血レッスンに加えて期末テストもあり……教師ではなく生徒だけど、まさに師走と呼べる目まぐるしさだったのだ。
そして。
「おはようございます! 12月12日火曜日のおはようジャパン、今日も元気にお伝えします!」
貼りつけたような笑顔のアナウンサーの声を聞きながら、ごくりと牛乳で喉を潤す。
余すことなく朝食を食べ、歯を磨き、顔を洗い、ヘアピンをつけて、マスクは……要らないや。
「行ってきます」
……いよいよだ。
思えば二学期の始めに彼と出会ってから三ヶ月。いろんなことがあって忘れかけていたけど、元はと言えばこの日を乗りきるために始めた協力関係だった。
だけど今、私が考えているのは――。
「も、もしもし? あの……」
澄み渡る青空の下。
駅に向かって歩きながら、私は意を決して知らないダイヤルに電話をかけていた。