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36 レベル7の告白

「ん?」


 赤面する私を見て、千明くんは。


「あ!」


 ようやく私に触れる理由に思い当たったようだった。


「いや、でも! キスしたいとはまだ思わないし、やっぱ違うのかな」

「千明くん思ったまま言い過ぎ。怒るよ」

「あっ、ごめん」

 地味に傷ついた私が「もぅ」と口を尖らせると、彼はあたふたと手をバタつかせた。


「千明くんの“思考駄々漏れ癖”にも慣れたけどね」

「悪かったって。食べ終わったし、そろそろ出るか」

「じゃあ今度は千明くんへのごほうびってことで、私がご馳走するね。『他人が作ったものを食べる』って、レベルいくつだったっけ」


 ふと気になり、彼のレベル表を見ようとポーチに手を突っ込み、手帳を引っ張り出すと。


「あ」


 ひらり、と紙切れが床に落ちた。


「何か落ちたぞ?」

「わ、待っ……!」


 止める間もなく、千明くんは手袋をはめていた左手でそれを拾って――。


「……あおい、さん……?」


 ――忽ち表情を失った。


 先程まで感情豊かに煌めいていた群青色の瞳が、見る間に光を失っていく。


「あ、あのね。これ体育祭の時に預かったの。渡しそびれててごめん。そうだ、伝言もあって……」

「茉莉花、葵さんと話したんだ」


 おろおろと早口に言う私を遮った彼の声は、別人のように冷淡だった。


「俺のこと、何か言ってた?」


 紙切れに目を落としたまま人形のように呟く彼に、胸がぎゅっと締め付けられた。


「別に……。ただ『甥っ子の顔を見に来ただけだ』って」

「そうか」

 千明くんは消え入るように呟いて、俯いたまま紙切れをポケットにしまう。


 そして、


「わざわざありがとな」


 顔を上げた時には、懸命に取り繕ったように微笑んでいた。


 その顔が余りに脆くて――目を反らしたら泡のように消えてしまいそうで怖かった。


「お願い千明くん」

 私はすがるように声を絞り出し、剥き出しのままの彼の右手を掴む。


「一人で抱え込まないで。私達、大切なパートナーでしょ?」

「……っ!」


 瞬間、彼の瞳が潤み光の輪を描いた。


 唇が震えて、何か言いたそうに開いた口から何度も熱い息を漏らす。


 そして、心を決めたように私の手を強く握り返して言った。


「ついて来て」



 連れられてきたのは、ショッピングモールから程近いマンション。

 エレベーターを降りて、ドアの建ち並ぶ廊下を歩く。黙って歩く彼に声をかけられないでいると、ついに一つのドアの前で立ち止まった。


「あの千明くん、ここって……」

「俺んちだよ」

 ガチャリと鍵を開けながら淡々と言う彼に、私はいろんな意味で絶句した。


 ……普通付き合う前のデートで家に誘う!?


 という驚きもあるけど、それよりも。


「本当に入っていいの?」

「ああ」


 聖域とまで称していた彼の家に招き入れられるなんて、思ってもみなかったのだ。


 私みたいな異物が入っていいんだろうかと悩んだけど、ドアを開けて待つ彼の瞳にもう迷いはない。私は変に緊張しながら玄関に足を踏み入れた。


 パタン、とドアが閉まると。


「はい、そこでストップ。両手上げて」

「?」


 まだ靴も脱ぐ前に足止めされた。


 戸惑いながらも言われた通りにすると、千明くんは靴箱から粘着テープのコロコロを取り出して、私の服の上を丁寧に転がし始めた。

「ひゃっ、く、くふふっ」

「じっとしてて」

 そう言われても、くすぐったくて敵わない。


「じゃあ次、手出して。皿みたいに」

 今度は何よ、と思いつつ両手でお皿を作ると、溢れそうなほど大量のアルコールスプレーをシューッとその中に吹き入れられた。彼もまた同じように、自分の手に消毒液の池を作る。


「見てて。こうやってまずは爪を浸水させて、片手に消毒液を移す。反対の爪も浸水させたら、手の平、甲、指、手首の順番な?」

 慣れた手つきでアルコールを手に刷り込む千明くんの真似をして、私も念入りに手を消毒する。


(め、めんどくさい……)


 食品工場並みの衛生管理に、正直少し辟易してしまう。

 次はエアーシャワーでも通らされるんじゃないかとキョロキョロしていると、千明くんが「よし」とようやく靴を脱いだ。私はホッと胸を撫で下ろして後に続く。


「お邪魔します」

 奥から返ってくる声はない。


 彼の話しぶりから一人暮らしなんだろうとは思っていた。でもよく考えたら、たった16歳の高校生が一人暮らしって普通じゃない。


 以前、朝比奈先輩から彼の両親の不幸について聞いたけど……その後は確か、広島の親戚に引き取られたと言っていたはずだ。やんちゃな先輩が『新幹線で4時間かかった』と笑って話していたのを覚えている。


 だとしたら……その親戚は、千明くんを一人寂しく生活させて、何とも思わないんだろうか?


 一人暮らしには広すぎる家の廊下を進み、リビングに通される。ピカピカのフローリングに真っ白な壁。ダイニングテーブルとソファとピアノだけが置かれた、無駄のないインテリア。ちょこんとソファに腰かけると、私の存在が明らかに浮いているように感じた。


「茉莉花、正直に言ってほしいんだけど」

 ごく自然に私の隣に腰かけると、千明くんは唐突に言う。


「さっき、めんどくさいって思っただろ?」

「え! いや、そんなことっ」

「いいよ無理しなくて。それをわかってもらうために連れてきたんだから」


 彼は肩の力が抜けたように薄く微笑む。

 そして、独り言のように話し始めた。


「中1の冬のことなんだけど――」



*****


 俺のピアノコンクールに来る途中、父さんと母さんは交通事故で死んだ。

 

 逆走車との正面衝突だったらしい。


 1歳になったばかりの妹は『会場には連れてけないから』って、ばあちゃん家に預けられてて無事だった。それが多分、体育祭のとき迷子になってた千花だ。あんまり大きくなってて、葵さんを見るまで俺も全然わからなかったんだけど。まさか“おいちゃん”が葵さんのことだったなんてな。


 ともかく。


 その日を境に、突然に。


 俺はこの世のあらゆる物や、人や、吸い込む空気や取り巻く空間が、汚くて汚くて仕方なくなったんだ。



 最初は千花と一緒にばあちゃん家でお世話になることになったんだけど、ケッペキを発症した俺が妹と暮らすのは不可能だった。

 ご飯は撒き散らすし、よだれ垂らすし……異臭を放つオムツを引っ提げて予測不可能な動きをする妹は、脅威でしかなかった。

 もちろん仕方ないってわかってたから、必死に我慢して可愛がってる振りしてた。でもそれが良くなかったのか、みるみるケッペキは悪化して、ばあちゃん、じいちゃんにも近寄れなくなったし、食事にも手をつけられなくなって……あっという間に衰弱して。


 見かねて俺を拾ってくれたのが、葵さん。


 俺の母さんの弟、つまり叔父さんだな。


 仕事の都合で広島に一人暮らししてた葵さんは、俺が勝手に家中掃除しても、調理器具を新調して自炊始めても、文句ひとつ言わなかった。むしろ「奥さんが出来たみたいでありがたい」とか言ってくれてさ。しばらくの間は、本当に上手くいってた。


 でも。


 葵さんの優しさに甘えてるうちに、俺の病気は静かに悪化してたんだ。


 慣れない土地での生活のせいか、大好きなピアノから離れたせいか、自分でも知らないうちにストレスが溜まってたんだと思う。


 ……ケッペキは、悪化すると周りの人を巻き込むようになる。


 仕事から帰った葵さんに、俺の気が済むまで手を洗わせたり。家に上がる前に靴下を脱がせて足を消毒させたり。茉莉花にもさっきめんどくさいことしてもらったけど、当時はあんなもんじゃなかった。しかも居候の分際で、ああしろ、こうしろって……自分でも理不尽なのはわかってた。けど、やってもらわないと不安でどうにもならないんだ。


 葵さんは長いことよく耐えてくれたと思うよ、本当に。


 だけどまあ、限界だったんだろうな。


 中学の卒業式が終わって家に帰ったら、机の上に手紙とお金の入った封筒が置いてあった。


“お金は用意するから出ていってほしい。千明は一人で暮らすべきだ”――って。


 頭から氷水を被ったみたいな衝撃だった。心のどこかで、葵さんだけは俺を見捨てないでくれるって馬鹿みたいに思ってたのかもしれない。


 それからすぐにここ、もともと両親や妹と住んでた家に戻ってきて、葵さんとは……連絡がつかなくなった。


 一人で本を読み漁って自力で治療して、それから茉莉花と出会って一緒に頑張って、前より少しはマシになったと思うんだけど。

 葵さんと顔を合わせるのは、まだ勇気が出ないんだ。


 それから茉莉花。


 俺の病気が人を巻き込むことがあるってこと、ずっと黙っててごめん。


*****


 彼の背中は小刻みに震え、虚ろな瞳は捨てられた仔犬のように当てもなく彷徨っていた。

 彼と初めて喧嘩したあの雨の日を思い出して私は言葉に詰まる。こんなとき口下手な自分が心底恨めしい。


「茉莉花。俺のレベル表出してみて」

 固く拳を握る私をなだめるように、優しい声で千明くんが言った。私は手帳からそれを取り出して、目を落とす。


 ――――――――――――――――――

 レベル1 素手で人の持ち物に触る

 レベル2 素手で人と握手する

 レベル3 人の持ち物を家に持ち帰る

 レベル4 他人が作ったものを食べる

 レベル5 子供と触れあう

 レベル6 パートナーを抱きしめる

 レベル7 家に人を入れる

 レベル8 同じ釜の飯を食べる

 レベル9 パートナーとキスする

 レベル10 パートナーと○ックスする

 ――――――――――――――――――


「ここに書いたこと、特に後半は、俺の願望そのものでさ」


 彼は少し恥ずかしそうに鼻を掻きながら言う。


「普通に誰かと付き合って、結婚して、一緒に住んで、同じご飯食べて、子供が産まれて子育てして……病気になる前は当たり前だと思ってたそういう暮らしが、いつか出来たらいいなって」


 ふわりと笑って彼が視線をやった先には、家族写真が飾られていた。


 少し幼い千明くんと、背が高く優しそうなお父さん、彼に良く似た美人のお母さん、それからまだ赤ん坊の千花ちゃん。


「そんな夢を見られたのも茉莉花のおかげだ。今までありがとう」


 何でそう、泣きたいくせに笑うんだろう。

 何で、寂しいくせに遠ざけるの。

 何で、何で、何で……。


 ――ぽたり。

 手に垂れた雫が自分のものだと知るのに、少し時間がかかった。


「茉莉花?」

 彼が狼狽えたように目を見開いた。その瞳の奥に一体どれだけの苦悩と孤独を積もらせてきたのか、考えただけで涙が止まらなかった。


「千明くんの馬鹿」

「え?」


「叶えようよ、二人で」

「……っ! でも俺、いつまた調子が悪くなるかわからないし」


「そんなの私も同じだよ」

「言っただろ、俺の病気は人を巻き込むんだ」


「何をいまさら。もう散々巻き込まれてるよ」

「めんどくさくないのか?」


「ああもう、めんどくさいな!」


 急に語気を荒げた私に、千明くんはびくっと怯えて眉を下げる。もはや尻尾を下げた仔犬そのもの彼に、私は立ち上がって叱咤した。


「ねぇいま私にキスしたいの、したくないの、どっち!?」


 千明くんが目を皿のようにして固まった。


 しかしすぐに、ぷっ、と小さく吹き出して立ち上がった。


「…………すげぇしたい」


 彼の素手が私の耳の後ろを撫でる。


 髪の隙間からうなじを抱えられたと思ったら――私の唇に彼の唇が優しく押し当てられていた。


「茉莉花が好きだ」


 固く閉じた蕾が、温もりに我慢できず綻ぶように笑って。


「好きだ」


 千明くんは私に、もう一度、もう少し長く、キスをした。



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