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34 紙切れ

 二人の姿が見えなくなると、私は叔父さんから預かった紙を握りしめて早足に校舎へ向かった。


 叔父さんを見たときの彼の横顔が、どうにも心に引っ掛かっていた。


 制服に着替え終わり帰っていく生徒達の波に逆らい、昇降口をくぐる。教室を覗いたけど、話したことのないクラスメイトが数人駄弁っているだけで、千明くんは見当たらない。


 私はスマホを取り出し迷いなく彼に電話を掛けた。すぐに彼の机に提げられた鞄から振動音が聞こえ、落胆する。


(でも、まだ帰ってないってことだよね……)


「ち、ちょっといいっ?」


 上ずった声を出す私に、賑やかに喋っていた三人組の男子が一斉に振り向いた。


 流れる沈黙と、貫くような視線。


 途端につぅっと冷や汗が背筋を伝り、瞬きが上手くできなくなる。悪気はないとわかっていても、私が喋るなんて全く想定していなかったみたいな顔をされると、針を呑んだような心地がした。


「ぁ……千明くんどこに行ったか知らない?」

 私は震える手でマスクを外して尋ねた。


 男の子達はきょとんとお互いに目配せする。

 少しして、行儀悪く机に腰掛けていた一人が口を開いた。


「桐ヶ谷ならさっき更衣室の前で見かけたけど、着替えないで階段昇ってったよ?」

「そう……ですか。ありがとう」


 私は一礼して教室を出た。


 背後から「だんまりさんって喋れんだ」「マスク取ったらかわいくね?」などと好き勝手なひそひそ声が聞こえてきて、今さら激しい羞恥心に襲われる。それを薙ぎ払うように無心で階段を駆け昇った。


 屋上へ続く階段の踊り場。


 私と千明くんだけが知る秘密の場所……しばらく来てなかったけど、塵一つ落ちていない。


 屋上に繋がる扉のすりガラスから夕陽が射し込み、清廉な結界の如く敷かれた白いシーツを朱色に染め上げる。

 その上で片膝を抱えて座り込む彼は、まるで実体のない神か幻のように美しかった。さらりと流れて顔にしなだれている栗色の髪が、ぼやけるように輝いている。


「千明くん」


 声を掛けると、彼はぶるっと肩を震わせて顔を上げた。


 その瞳が、ガラス玉のようにひどく空っぽで――痛いほど身に覚えがあった。


 この目は、駄目だ。


 突付けばくしゃりと壊れてしまいそうなほど、薄い殻一枚で心を保っている。そういう目だ。


 温もり。

 あの時私が少女にしてもらったように、今の彼に絶対的に必要なのはそれだと確信がある。


 だけど――。


 無意識の内に彼の頬に伸ばしていた手をピタリと止めた。彼が一瞬怯えた顔をしたからだ。


「……っ」

 触れられないのに、抱きしめたくて、彷徨った手の平を爪が食い込むほど固く握る。


「茉莉花、どうした?」


 顔を歪める私を見て、空っぽの瞳のまま千明くんが心配そうに尋ねる。


 ……人の心配する余裕なんてないくせに。


 手の中でくしゃくしゃになってしまった紙切れをそっとジャージのポケットにしまい、彼の脇をすり抜けて階段を昇る。


「千明くん、目瞑って」

「え?」

「いいから」


 私は彼の隣に腰を下ろしながら言う。


「確認なんだけど。服の上から広い面積触られるより、肌にちょんっと一瞬触られる方が多少はマシだよね?」

「は? まぁ……そうだな」


 突拍子も無いことを訊く私に、千明くんは目を瞑りながら真面目に答えてくれる。


「わかった」


 私は滑りそうになりながらシーツの上で身を捩らせ、肩や髪が触れないよう細心の注意を払いつつ――。


 ちょん。


「ひっ!」


 千明くんがびくっと頬を押さえて目を開けた。


「何だ今の! 熱くて柔らかいのがぴとって……茉莉花、何した!?」

「ぷっ」

「いや笑い事じゃなくて。俺、“箱の中身は何だろな”みたいのマジで無理だから!」

「さて、何でしょう? あははっ」


 千明くんは頬を押さえたまま「えぇ」と弱った顔で私を見る。がらんどうだった瞳に少しばかり生気が戻ってきていた。


「ていうか茉莉花、顔赤いけど大丈夫?」

「っ……何でもないよ」

「何でもなくないだろ。耳まで真っ赤だぞ」

「!」


 彼が心配そうに顔を覗き込んできたので、咄嗟に唇を押さえてしまった。


「…………ん?」


 千明くんは間抜けな声を上げる。慌てて俯いたけど、もう遅い。


「えっと……え? 嘘だろ、今のってまさか……!」


 まずい。


 千明くんのことだから、あんなことをされたと知ったら、血の気が引いたように真っ青になるに違いない。そう思ったら怖くて顔を上げられなかった。


「ぁ、明後日のごほうびデートって10時に駅で待ち合わせだったよね? 遅れないように気をつける! じゃあまた」

 下を向いたまま早口に捲し立て、一目散に立ち去ろうとすると。


「待って」


 急に袖がぐいっと引っ張られた。


「?」

 驚いて振り向いた拍子に、目を背けたかった彼の顔を真正面から直視してしまった。


「あ、あのさ……絶対に早く来ないで」


 片腕で口元を隠しながら呟く彼の顔は――青ざめるどころか高熱を出したように真っ赤だった。


「遅刻するぐらいで丁度いいから」


 ガラス玉だった瞳に温かな海水が満ちて、海底のような深い青色を取り戻していく。その眼差しは狼狽えたように揺れながらも、きらきらと輝いて見えた。


 私は思いもよらない彼の表情に釘付けで。


 彼の忠告が、全然頭に入っていなかったのだ。




 体育祭の振替休日の月曜日。


「……遅い」


 木枯らしが吹き荒ぶ中を小一時間程待った頃、ついに愚痴が漏れてしまった。


 ここ数日で一気に季節が進み、駅前の銀杏並木はすっかり黄金色に染まっている。


 平日の昼間、駅に向かう人影は多くない。ましてや学生くらいの若者なんて皆無なので、見過ごしたとか見つけられない訳ではなく、彼は来ていないのだ。


『早く来るな』と言われたのに、浮き足立って30分も早く来てしまった自分も悪いけど……。


 はりきって膝丈のワンピースに目の粗いニットカーディガン、薄手のタイツに履き慣れないショートブーツで来たものだから、流石に凍えて足が棒になってしまいそうだった。


 腕を抱えてぶるっと身震いしていると。


「――茉莉花!」


 頬を染めて息を切らしながら、ついに千明くんが現れた。


「遅れてごめん。ちゃんと遅刻ぎみに来てくれた?」

 はぁ、はぁ、と熱い息を漏らし、千明くんは申し訳なさそうに眉を下げる。


 一昨日の様子だと、急に来られなくなることもあるかも……と思っていた私は、彼が視界に入っただけでパアッと顔が綻んでしまう。


「うん、今来たところ」

 私は後ろ手を組んで、かじかんだ指先を隠した。


 千明くんは安心したように「良かった」と呟くと、優しく微笑んでからスッと背筋を伸ばして立つ。


 目の覚めるような白いニットに青みがかった灰色のチェスターコート。スリムな黒いパンツと艶のある革靴。品良く大人びた立ち姿は、まるでお忍びで散歩に出た王子様のようだ。幼い格好で来てしまった自分が少し恥ずかしい。


 見惚れる私に、千明くんは「どした?」と首を傾げた。


「あ、いや。千明くんの私服、意外にキチッとしてるんだなーと思って」

「意外にって……。ほら、ある程度きちんとした格好じゃないと手袋が浮くだろ?」


 千明くんは薄手の手袋をはめた手をひらひらと見せて苦笑いする。私はなるほど、と頷いた。

「潔癖って、いろいろと生活に支障あるんだね」

「まあな。今日遅れたのだってそのせいだし」

「?」


 首を傾げると、千明くんは肩をすくめて言う。


「出掛ける直前になってどうしてもシャワー浴びたくなってさ。別に汚くないってわかってるんだけど、そうなったらもう入らないと不安で堪らなくて……大事な用がある時とか緊張してる時は、決まってそうなんだ」


 言われてみれば、彼の髪は汗では説明がつかないくらい生乾きだし、近くにいるとほんのりシャンプーの良い香りがする。


 その香りに惑わされ……一瞬いけないことを想像してドキッとしたのは、絶対に内緒だ。


 私はんんっ、と咳払いをしてから言う。


「そっか。私とのデート、そんなに緊張してくれてたんだね」

「う」

「それが知れただけで、一時間待った甲斐があったよ」

「一時間!?」


 千明くんが完璧な王子様フェイスを崩して驚くのがおかしくて、くすくすと笑いが込み上げる。


 どうしよう。

 まだ一歩も歩いてないっていうのに、もうこんなにも楽しい。


 ……だからこそ。


 ポーチに入れてきたくしゃくしゃの紙切れを渡すタイミングが、ひどく難しいと思った。

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