3 ケッペキ君
「…………」
「…………」
5時間目、埃っぽい音楽準備室。
ごちゃごちゃとした楽器棚に囲まれた中に、私と桐ヶ谷くんが二人、向かい合って立ち尽くす。
(嘘でしょ……)
――ソロコンでは課題曲の難易度ごとに基礎点が与えられる。
選んだ曲が難しければ、うまく歌えなくてもある程度の点数が稼げるのだ。
例えば、リズムが難しい曲、音域が広い曲、外国語の曲など。
私はまともに歌えないことが前提なので、なるべく基礎点の高い曲を選ぶ作戦をとっていた。
「さてと。課題曲ごとに練習場所を黒板に書いたから、グループに分かれて練習してー」
音楽の若い女性教師、田山先生が鈴のような声でそう言うと、各々自分のグループへと分かれていった。
「各グループに音源CD配るよー。はい、本田さん」
田山先生は大きい胸を揺らしながら急か急かとこちらにやって来て、私にCDを手渡す。
「ごめんねー。“Amazing Grace” 選んだの二人しかいないから、狭いけど準備室使ってくれる?」
「ぇ? ……ぁ、ぅ……」
私は咄嗟に返事できずに立ち尽くす。
(え、二人だけ!?)
確かに英語曲は難しいから、あんまり歌う人いないだろうけど、まさかの二人!
ふと、辺りを見渡してみる。
女子人気の課題曲は“いい日旅立ち”や“赤とんぼ”などの童謡。男子は半数以上が“少年時代”と“贈る言葉”で、一部のお調子者が最高難易度の“サンタ・ルチア”というイタリア語の曲を選んでいるみたいだ。
みんな概ね友達同士で示し合わせて選んだのか、各グループは既に打ち解けた様子である。
「はあぁ……」
気が重い。クラスメイトと会話すらできない私が、誰かと二人で歌の練習するなんて……不可能にも程がある。
(せめて話しやすそうな人であれ……!!)
そう祈りを捧げながら、音楽準備室のドアを開けて――。
ドアを開けると、桐ヶ谷くんが所在なさげに腰に手を当てて立っていた。
なんでだろう……。ただ立っているだけなのに、すごく絵になる。
思わず見惚れていると、桐ヶ谷くんが私と目が合い「あ」と呟いた。
「アンタも“Amazing Grace”選んだ人? ……なんか他に誰も来ないんだけど。ていうか、名前、何だっけ?」
――その途端。私はいつものように、キュッと喉が絞められる感覚に襲われる。
「……ぁ、ぇ……」
返事をしようにも、かすれた喘ぎ声が少し漏れただけだった。
それを見た彼は、怪訝そうに腕を組んでこちらに近づき腰を屈め、
「ねえ、聞こえてる? おーい」
濡れたような切れ長の瞳で、不思議そうにこちらを覗き込む。
(どうしよう……。これ以上黙ってたら、無視してるって思われる!)
鼓動が速い。息が苦しい。
……ていうか、顔近い!
みるみる顔が火照っていくのが自分でもわかる。
私は後ずさりし、至近距離にある彼の顔から目をそらして、すうっと呼吸を整える。
(……大丈夫。一対一だから大丈夫……)
自分で自分に言い聞かせ、目をつぶって大きく息を吸い込んでから声を振り絞る。
「ぁ、あの!!」
思ったより大きな声でちゃった……。
いや、気を取り直して。
「……Amazing Grace選んだのは、私と桐ヶ谷くんだけみたい……です」
「えーマジか。そーなんだ。で、名前は?」
「ほ、……本田茉莉花」
(話せたー!!私すごい!)
私が心の中で自分に拍手喝采していると、桐ヶ谷くんは「あぁ」と思い出したように言う。
「だんまりさんってアンタのことか」
「は!? 違っ………ぅもん」
私は思わず勢いよく言い始め、最後は俯きながらモゴモゴと答えた。
すると彼は驚いたように少しだけ目を見開き、ニッと意地悪そうに笑って続ける。
「やった。俺、だんまりの声聞けたから、今日一日良いことあるかも」
「無いよ! ……ていうか、その呼び方やめて」
私がマスクの下で小声で抗議すると、彼はさして残念でもなさそうに棒読みで続ける。
「えー。ご利益あるって噂なのに」
「……ありません!」
なんだその意味不明な噂は!私の声が激レアだからって適当なことを。
「なんだ、普通に喋れるじゃん」
「……へ?」
(……あれ? そういえば、なんか普通に話せてない?)
自分でもよくわからないけど、桐ヶ谷くんとは今日初めて話すのに、何故かお母さんや蛍ちゃんと同じように話せてる。
周りに誰もいないというのも大きいけれど、今までこんなに話せたことなんてなかったのに。
「わ、わたし、人と話すのが極端に苦手なんだけど、一対一ならまだましなの。ただ、3人以上の前だと全然ダメで……」
(あれ? 何で私、こんなこと桐ヶ谷くんに話してるんだろ……)
聞いてもないことをいきなり話し始めて、変なやつ、って思われてるんじゃないか。
不安になって桐ヶ谷くんを垣間見る。彼は吸い込まれそうに綺麗な瞳で真っ直ぐにこちらを見ていて、私は余計に慌てふためく。
「えぇっと……それで……」
オロオロと言葉を探している間も、彼は急かすでもなくじっとこちらを観察している。
「……自分でもわかんないんだけど、家族とか本当に親しい人なら普通に話せるの。でも、学校とか人がたくさんいると、急にどうしたらいいかわからなくなって……」
沈黙に耐えきれずに口走ると、桐ヶ谷くんは「ふーん」と落ち着いた口調で言いながら腕を組む。
「それで、ずっと風邪引いてるフリしてんの?」
「……うん」
やっぱりバレてたんだ。私は急に恥ずかしくなって、耳まで真っ赤になった。
「それ、場面緘黙症だろ」
「へ?」
突然、桐ヶ谷くんが聞き慣れない単語をさらりと言った。
「特定の状況下で言葉が出にくくなる病気のことだよ。俺、前に精神疾患の本を読み漁ったことあってさ。そういうの詳しいんだ」
「よ、読み漁ったって……何で?」
そう尋ねると、彼は少し「あー……」とためらってから続ける。
「……俺、実は重度の潔癖でさ。病気じゃないかって思って調べたわけ。そしたらやっぱ、強迫性障害っていう病気らしい」
言ってる内容とは裏腹に、けろっとした顔で彼は言う。
「これでも良くなった方なんだ。自分でいろいろ試してさ。まだ手洗い癖は治んないから手袋必須だけど……」
そう言って彼は手袋をはめた手を眺める。
「手洗い癖……? その手袋って、ピアノしてるからじゃないの?」
私がきょとんと尋ねると、彼は少しばつが悪そうに言う。
「あー、それ嘘。ピアノは昔弾いてたけど、別に手袋はそのためじゃなくて……」
桐ヶ谷くんがそっと手袋を外し――私は息を飲んだ。
彼の両手は、ひび割れやあかぎれで酷くボロボロで、見るも無惨な状態だった。
「外から帰ると、すごく手が汚れた気がして、1時間以上かけて手を洗わないと不安になるんだ」
依然として平然とした口調で言う彼に、私は返す言葉も見つからず立ち尽くす。
「自分でも馬鹿げてるって思うんだけど、どうにもならない。……おかしいだろ?」
そう言ってほんの少しだけ表情が陰る。
――私はハッとした。
「おかしくない! ……どうにもならない気持ち……すごくわかるよ!」
自分に近いものを少し感じたのかもしれない。私は自分でも驚くほど大きい声で言った。
すると、桐ヶ谷くんはパチパチと瞬きしてから「ぷはっ」と吹き出す。
「あははっ……! デカい声出るじゃん! 超ビックリしたー」
「そ、そんなに笑わないでよ……!」
ひとしきり笑い終えると、彼はフワッと雪が溶けるように微笑む。
「ありがとな」
――その笑顔とたった一言で、私は胸の辺りが不思議とじんわり温かくなった。
「本田さんもマスク取ってみなよ。俺とは普通に喋れるみたいじゃん?」
「あ、それもそうだね」
私は言われるがままにマスクを外す。学校ではほとんど取ることがないから、妙に気恥ずかしい。
「へー……」
「な、何?あんまりじろじろ見ないで……」
桐ヶ谷くんは相変わらずの綺麗な瞳で私をじっと見ながら、小さく頷く。
「マスクしない方がかわいいじゃん」
「かっ!?」
不意打ち過ぎて、不覚にもちょっとときめいてしまった。
(これだからイケメンは……もう!)
『かわいい』なんて……言われ慣れてない人に言うのは、“勘違い誘発罪”で罰せられるべきだ。ただし、イケメンに限る。
そんなことを心の中で叫んでいると、いつの間にか桐ヶ谷くんはスタスタと窓を開けて回り始めた。
そして、「さてと」と言いながら隅にあった掃除ロッカーを開けると、ホウキを2本取り出した。
「はいこれ」
「え?」
私は言われるがままに、ホウキを1本手渡される。彼は私の困惑など歯牙にもかけずに続ける。
「これから毎週ここで練習しなきゃなんないんだろ? とりあえず、チリ1つなくなるまで掃除してから練習するぞ」
「……はい……?」
――結局その日の授業中には、彼の言う『チリ1つなくなるまで』レベルには掃除しきれず、ひとフレーズも歌うことなく終わったのだった。