28 小森くん
鬼気迫る悲鳴に、先生や他の生徒達が一斉に駆けつける。
「め、めぐ……」
「高橋さん、どうしたの! 誰か、他の先生も呼んできて!」
愛実ちゃんに向けた私の声は、体育の先生のよく通る声で搔き消された。
半泣きで呻き声をあげる彼女を前に、私はただ唖然と見ていることしか出来ず、次第に取り巻きの後方へと押しやられる。
応援の先生が来て担架が用意されると、あっという間に愛実ちゃんは保健室に運ばれていった――。
帰りのホームルーム。
担任の先生が淡々と連絡事項を言っている間、私は一人青ざめた顔で虚空を見つめていた。
(私のせいだ……)
体育の先生の話では、愛実ちゃんは滑ってバランスを取ろうとした拍子に軸足の膝を捻ってしまったのだそうだ。体育祭はおろか、しばらく運動は無理だろうと。
ただお礼を言いたかっただけなのに……こんな大事になってしまった。
口は災いの元、と言うけれど、本当にその通りだ。だんまりを決め込んでいた時の方が、よっぽど平穏な毎日を送れていた気がする。
千明くんと関わってから、慣れないことをしては失敗ばかりだし、いつだってそわそわと気持ちが落ち着かない。
だけど――。
彼と学校で丸一日話せなかっただけで、まるで世界から色が無くなったみたいに物足りない。
私はふと顔を上げて千明くんを見る。
彼は相変わらず真剣な表情で、一心にペンを走らせていた。その横顔は気安く近寄ったら天罰が下りそうなほど神々しいオーラを放っていて……たかが数メートル先なのに遥か遠くにいるようだった。
「――じゃあ本田、頼めるか?」
「っ!」
いきなり先生に名前を呼ばれ、上の空だった私は急に現実に引き戻される。
気がつけば顔を上げているのは自分だけで、みんな先生と目が合わないよう露骨に俯いている。それに今思えば、今日のホームルームはやけに長い。
私が返事もなくきょとんとしていると、先生はかったるそうに言う。
「ったく、聞いてなかったのか? 体育祭実行委員の高橋が怪我で本番に出られなくなったから、クラスの女子から一人代理が必要なんだ。本田なら部活も入ってないし、しっかりしてるし」
「ぇ? ぁ……でも」
戸惑う私の声は自分のマスクで減衰されて、到底先生まで届かない。
「悪いけど宜しくな。じゃあホームルーム終わり、解散ー」
先生の号令とともに、みんなやれやれと言わんばかりに続々と帰っていく。私だけが状況を飲み込めず、ポツンと席に取り残されていた。
他にも帰宅部の女子は何人もいるのに……何が『しっかりしてる』だか。
小学生の時から思ってたけど、どうして教師というのは“喋らない=授業態度がいい=しっかり者”という乱暴な等式を押し付けてくるんだろう。真面目な優等生キャラを期待される事ほど息の詰まることはない。
マスクの下で密かにムッと口を尖らせていると、先生は「本田」とけろっとした顔で言う。
「男子の実行委員は小森だから、いろいろ教えてもらってくれ。小森、宜しくな」
「はい」
突然背後から声がして、私はドキッと後ろを振り返った。
そこには細淵の丸眼鏡をかけた華奢な男子が、控えめな笑顔で立っていた。
小森くん……?
同じクラスになって半年以上たつというのに失礼だけど、正直あまり印象がない。ここだけの話、下の名前もわからない。
(まぁ私も似たようなものだけどね……)
「ほな行こか本田さん」
影の薄さ加減に密かに親近感を抱いていると、小森くんが訛りの混じった柔らかい声で言った。
「へ?」
「今から地学室で実行委員の集まりがあるんや。早ぅ行かな会長さんに怒られるよ」
小森くんは言ってることとは裏腹に、とてもおっとりとした口調で言う。関西弁って、お笑い芸人さんのしか聞いたことがなかったから、こんなにのんびりした言い方もできるんだ……と、どうでもいいことを考えてしまう。
「聞こえとる?」
「わっ!」
急に彼が顔を覗き込んできたので、思わず大声を出して飛び退いてしまった。
ふと周囲を見れば、もうほとんど他の生徒の姿はなく――千明くんの席はちょうど小森くんが邪魔になって見えなかったけど――状況は一対一に近かった。
「う、うん。ごめんね、すぐ支度するから」
私は無事に声が出せていることに安堵しながらバタバタと机の中身を鞄に突っ込み、小森くんとともに教室を出た。
地学室は席が段々と坂になっており、前の黒板が誰からも見下ろせる。授業以外で来たことなかったけど、確かに会議にはおあつらえ向きだ。
「遅ぅなってすみません」
へこへこする小森くんの後ろについて中に入ると、
「1年A組さん、遅刻よ。早く席についてちょうだ……っ!?」
教壇中央。
凛々しい立ち姿で書類を眺めながら言う朝比奈先輩が、ふと顔を上げて……たちまち目を見開いた。
「――本田さん!!」
「ぐぇふっ」
先輩は目にも止まらぬ速さで私に駆け寄り、ぎゅうっとハグをした。体当たりをくらった私は変な声を上げる。
「会いたかったわ!」
「!?」
しかも先輩は……何とそのまま私の両頬にチュッチュッとキスをした。
気が動転すると海外生活の癖が出ちゃうんだろうけど、こんな人前で……。きっと、彼氏さんも苦労していることだろう。
「この前は私のせいでごめんなさい。心配してたんだけど、忙しくて全然会えなくて」
しゅん、と眉を下げる先輩の耳元に、蚊の鳴くような声で「気にしないでください……」と伝える。これが精一杯だ。
だって――。
「あら?」
今ここには、全クラスから男女1名ずつ選ばれた実行委員と生徒会の面々、そして体育教師や教頭先生――総勢約50人が一堂に会しているのだ。
しかも私と先輩は、黒板前で抱き合って全出席者の視線を集めている。
「1年A組の女子は高橋さんじゃなかったかしら?」
そう言って先輩は首を傾げたけど、とっくに塞がっていた喉からはまるで声が出ず、手にはじっとりと汗をかいていた。
「……愛実は体育で怪我してもうて、今日から本田さんが代理なんです」
黙りこくる私の代わりに、背後から小森くんが答えてくれた。ずっと近くにいたんだろうけど、すぐ存在感が消えるから、いきなり喋られるとびっくりする。
(……ん?)
小森くん、今……“愛実”って呼んでた?
「何てこと!! 本田さん、一緒にお見舞いに行きましょ」
「ぇ?」
「明日の放課後、校門で待ち合わせね。さ、そろそろ始めるから座ってちょうだい」
先輩は有無を言わさず私達の背中をぐいぐい押し、すぐさま会議を始めた。
体育祭まではあと5日――。
今日は最後の段取り確認のための集まりだったようで、座っているうちに会議は終わった。
「えぇっと。私達の仕事は、借り物競争のお題札の準備に、クラス対抗リレーのゴールテープ持ちと、それから……」
「ちょこちょこと運営のお手伝いをするだけや。そないに気負うことないよ」
指折り数えて確認していると、小森くんが歩きながらぽわぽわと笑う。
私達は会議の後、自然な流れで一緒に帰っていた。
「本田さんは何駅で降りるん?」
「あ、雀台駅だよ」
「ほんまに? 僕も一緒やわ。ご近所さんでも、学区違うと全然わからんよねぇ」
小柄で撫で肩の小森くんは、大きな丸眼鏡も相まって人懐っこいチワワのようだ。しかも、相槌を打ちながらゆったりと話してくれるのですごく話しやすい。
(親近感とか感じちゃって申し訳ないや……)
彼のような人を聞き上手と言うのだろう。話すのも聞くのも下手な私とは大違いだった。
私達は電車内で一通り体育祭当日の流れを再確認し、同じ駅で降りた。
「僕、ここからバスやから」
「うん。いろいろ教えてくれてありがとう。また明日ね」
私が手を振って歩きだそうとすると、
「あ、あの!」
と急に呼び止められた。
振り返ると、小森くんは何故かもじもじと耳を赤らめて「えっとな……」と躊躇いがちに話し始める。
「明日、愛実のところお見舞い行くんやったら……僕も一緒に行ってええ?」
「へ?」
唐突すぎて呆気にとられると、たちまち彼はしゅんと眉を下げた。
「やっぱ迷惑やんな……女の子同士つもる話もあるやろうし」
「あ、いや! 全然私は構わないよ。先輩も気にしないと思うし」
私が慌ててそう言うと、小森くんは「ほんま!」と少女漫画のキャラクターみたいにキラキラと目を輝かせる。
「ありがとう。僕一人やったら絶対追い返されるし、助かるわ。愛実、強がりやからなぁ」
「あのさ、小森くん……」
私はずっと気になってたことを思いきって切り出した。
「愛実ちゃんのこと、名前で呼ぶんだね」
「!」
彼は焦げ茶色の瞳をみるみる丸くし、カァッと赤くなった。
「あ、そ、それは僕もむっちゃ小っ恥ずかしいんやけど、本人がそう呼んでくれ言うから、前からずっとそうしててぇ……」
「前からって、幼馴染なの?」
私はしどろもどろに言う彼に尋ねる。
「幼馴染って程でも無いなぁ。僕、中学ん時こっちに越してきて、お隣さんが愛実ん家やったんや」
照れ隠しなのか、彼は顔の割に大きすぎる丸眼鏡をいじりながら言う。
「ほら僕、訛ってるやろ? 転校初日からそらぁもうイジられて……『漫才してみろ』だの『面白いこと言え』だの。ほんで学校で喋るんが嫌になって、引き込もってしもうた時期があったんや。でもある日、間違ぉて届けられた僕ん家宛の手紙を愛実が届けに来てくれた時に、何で学校来ないんか聞かれて……ほんでビシッと言われたんや――『くっだらない』て」
あー……情景が目に浮かぶ。
彼女なら言いそうだ、それも吐き捨てるように。
「『関西弁の何がおかしいの? 堂々と喋んなよ、この根性なし!』ゆうて……ほんま目が覚めたわ。頑張って標準語に直そうとしてたんが馬鹿らしゅうなって――あ、あかん!」
彼はふと駅の時計を見て、我に帰ったように叫んだ。
「もうバス来てまう、またな本田さん!」
「え、あ、うん」
小走りに駆けていく小森くんの背中は、火を見るよりも明らかに愛実ちゃんへの想いを物語っていて……。
彼女が千明くんにゾッコンだと知る私は、ちくりと胸が痛かった。