24 愛実ちゃん
翌朝。
「茉莉ちゃーん、遅刻するわよー」
「んん……えぇっ!?」
目を擦りながら時計を見ると、既にいつも家を出る時間の5分前。
私は瞬時に状況を把握して、サァーッと青ざめた。
飛び起きてパジャマを脱ぎ捨て、制服のブラウスに袖を通す。胸のリボンをくちゃくちゃと結び、スカートと靴下を目にも留まらぬ早さで履いたら、取りあえず外に出られる格好になった。髪も顔もぐちゃぐちゃけど、背に腹は変えられない。
出席確認の途中でガラガラと扉を開けて入っていくなんて……それだけは死んでも避けたいのだ。
「行ってきます!」
「待って、おにぎり忘れてるわよ」
ブレザーを羽織りながら必死の形相でローファーに足を突っ込んでいると、お母さんが呑気にお弁当箱を差し出す。
私はお礼もそこそこに鞄にそれを突っ込み、バタバタと家を飛び出した。
(もう、昨日から何一つ良いこと無いよ……)
結局、昨日はあれからしばらく待っても千明くんは帰って来なかった。朝比奈先輩と高橋さんも見つからず仕舞いで、私は一人とぼとぼと帰宅したのだ。
本当は蛍ちゃんのところに行って何もかもぶちまけたかったけど、かなり日も暮れていて、これ以上寄り道する時間がなかった。
そのせいか、ずっと胸がもやもや疼くわ、目を閉じれば彼の顔が思い浮かぶわで、布団に入ってもなかなか寝つけず。でも心身ともに疲れきっていたので、気づけば明け方からの記憶がなくて……結果、大寝坊してしまったのだ。
“ドアが閉まります。ご注意ください――”
「ま、待って、お願い!」
プシュー。
無情にも、目と鼻の先でドアが閉まった。
「嘘でしょ……」
私はがっくりとその場にしゃがみ込む。
遅刻なんて、義務教育始まって以来一度もしたことなかったのに。
私は最後の願いを込めて、駅の電光掲示板を見る。次の電車は7分後だ。
ということは……もしかすると、駅から全力疾走すれば間に合うかもしれない。
まだ諦めるのは早かった。
(……とりあえず今は体力を回復しとこう!)
私は目立ちたくない一心で気合いを入れ直し、鞄からお母さんが持たせてくれたおにぎりを取り出して、がぶりと頬張った。朝ご飯も食べずに走ったから、お腹がペコペコだったのだ。
「だんまり?」
黙々とプラットホームでおにぎりをかじっていると、突然背後から声がした。
「あんた、こんなとこで何食べてんの……?」
振り向くと、大きな紙袋を抱えて眉を潜めて立っていたのは――高橋さんだった。
あまりにびっくりして、私は口いっぱいに頬張っていた米粒をごきゅっと喉に詰まらせた。
「ごぶっ、ゲホ、ゲホッ……!」
「ちょ、何! めぐのせい!?」
激しくむせこむと、高橋さんはぶつぶつ文句を言いながらも私の背中をさすってくれる。
「もう大丈夫……ありがとう」
「べ、別にっ。ほら電車来たよ」
高橋さんが口を尖らせながら言うと同時に、次の電車がホームに入ってきた。
私達は成り行き上、同じ車両に乗り込み、並んでつり革を握った。
下り方面の車内は、座れないけど満員でもなく、微妙に込み合っていた。
いっそ、ぎゅうぎゅうに押しつぶされるくらいの方が話さなくて済むのに……この距離感で無言は何とも気まずい。しかも昨日あんなことがあったばかり。
さらに、さっきまでおにぎりを食べていたものだから、心の鎧も外していたのだ。
私が緊張のあまり食べたばかりのおにぎりを戻しそうになっていると、
「これ、あんたに」
高橋さんが、いきなり持っていた大きな紙袋を私に突きだした。私はビクッとたじろぎつつもそれを受け取る。
恐る恐る中を見て――目を見張った。
「これって」
中には、新品の教科書と上履きが入っていたのだ。
驚いて固まる私に、高橋さんはくるくると髪をいじりながらそっぽを向いて言う。
「昨日さ、あれからヒナ先輩と話して……2人で買いに行ったの。教室で渡そうと思ったけど、重たいから今渡す」
ヒナ先輩、というのはたぶん朝比奈先輩のことだろう。でも、いつの間にそんなに親しくなったんだろう?
「ほら……めぐ達、少しやり過ぎたかなって思って。ご、ごご、ごめんなさいね……」
彼女が頬をうっすら赤らめて謝るのを、私は呆然と見ていた。高橋さんも自分と同じただの女子高生だと、今初めてわかったような気分だった。
「ちょっと、何とか言いなさいよ」
「え、あ、ごめん……」
私は必死に声を絞り出す。
乗客は大勢いるけど、幸いみんなイヤホンをして自分の世界に入っているか寝ているかで、状況としては一対一に近い。これなら、何とか会話出来そうだ。
「勘違いしないでよね。めぐは、まだあんたのこと嫌いだから」
高橋さんは、ぷんっと頬を膨らませて言う。
「でも、正々堂々と勝負したいから、今までのことにけじめをつけるだけ。他のファンクラブの子達にも、もうあんたをいじめないように言っといたから」
「あ、そうなんだ。ありがとう」
「はぁ? ありがとうって、あんたね……他に言いたいことないわけ?」
高橋さんは呆れたように強い口調で言って片眉を上げる。
「そんなんだから、めぐだって歯止めが効かなくなっちゃったんだよ? 本当はちょっとからかっておしまいにするつもりだったのにさ」
「……う、うん」
「ほら、また適当に頷いた! そーゆーとこ、マジでムカつく」
高橋さんがぶんっと勢いよく首を振ると、ほのかに香水の香りが漂った。丁寧にカールされた睫毛や、ぷるぷるにグロスを塗られた唇が何とも眩しい。寝起きそのままに飛び出してきた自分とは天と地の差である。
「思ってることその場でちゃんと言わないと、損するよ!」
高橋さんは華やかに塗り飾られた爪で、ビシッと私を指差した。
私は気圧されてオドオドと言葉を探す。
「え、えっと……じゃあ高橋さん」
「待って。その言い方気持ち悪いから名前で呼んで。愛実よ。“愛が実る”で、め・ぐ・み!」
「……わかったから、もうちょっと小さい声で話そう、愛実ちゃん」
私は両手を上げて、ヒートアップする彼女を制した。所構わず言いたいことをキッパリ言う彼女の姿勢には、もはや尊敬の念すら感じる。
「で、何よ。言いたいことがあるならハッキリ言って」
「あ、その……全然関係無いんだけど」
「いいから早く言いなさいよ!」
私は周囲を気にしてシーッと人差し指を立ててから、ひそひそ声で尋ねた。
「私、いつもこの一本前の電車に乗ってるんだけど、愛実ちゃんはいつもこれ?」
「はぁ? そうだけど、それが何」
「……遅刻しない?」
青ざめた顔で言う私に、高橋さんはきょとんと瞬きしてから言う。
「まあ、チンタラ歩いてたら遅刻するけど、軽く走れば余裕だよ。めぐ、走るの早いし……あ」
高橋さんは突然黙って、私に渡したばかりの大荷物をじっと見た。
全教科の教科書と上履きの入った紙袋はなかなかの重量で、さっきから持ち手の紐が私の指に食い込んでいる。
「ねえ、それやっぱり返して」
「え?」
「いいから!」
彼女は強引に私から荷物を奪うと、紙袋の上の方を折り畳んで丸め、しっかりと胸の前で抱えた。
「だんまり、見るからにもやしっ子じゃん。こんなの持って走れないでしょ!」
そう言うと同時に、電車は学校の最寄り駅に到着しプシュー、とドアが開いた。
「グズグズしてたら置いてくからね!」
「え、待って!」
愛実ちゃんは、荷物を抱えているとは思えない軽やかな足取りで駆け出す。
私はひと足遅れで、慌てて彼女の後を追いかけた――。
「ふぅー。ほら、案外余裕で間に合ったでしょ」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
二人揃って教室に飛び込むと、まだホームルーム開始の5分前だった。
いい汗かいた、と言うような爽やかな顔で言う愛実ちゃんに、私はただ肩で息をしながら頷くことしかできない。でも、おかげで遅刻は免れた。
「はい。これでもう恨みっこなしね」
ドン、と鈍い音を立て、愛実ちゃんは私の机に例の大荷物を置く。
そして、耳元で囁いた。
「……絶対あんたより先に、千明さまを振り向かせて見せるんだから!」
愛実ちゃんの声は闘志と自信に満ち溢れていて……とてもじゃないけど『既にフラれてます』とは言えない雰囲気だった。
愛実ちゃんはスタスタと自分の席に向かって歩きだして、突然「あ」と立ち止まってこちらを振り向いた。
「そう言えば、さっき駅であんたが食べてたまりもみたいなやつ、何なの?」
「まりも……? あぁ、おにぎりだよ。青海苔でコーティングされた」
全速力で走ってアドレナリンが出ているせいか、私はごく自然に教室で彼女と話せていた。
「青海苔ね……」
「うん。中身はエビマヨだった」
「いや、具はどうでもいいけどさ。あんた、手鏡持ってる?」
「?」
私はよく意味がわからず、ぱちぱちと瞬きして首を振った。愛実ちゃんは「あーもー」とかったるそうにため息をつくと、ポーチからキラキラにデコられた手鏡を取り出し私に差し出した。
「めぐの貸したげる。てゆーか、手鏡も持ってないとか、乙女としてどーなの?」
「ご、ごめん……」
「いいから、自分の顔見てみなって。既に乙女っていうかオジサンだから」
「……?」
言われるがまま鏡を覗いて、ぎょっと目を見開いた。
ボサボサ頭に乱れた制服だけでもみっともないのに……私は口の周りにびっしりと青海苔の髭を付けていたのだ。
「うわっ、何これ! 私ずっとこんな顔で……!」
私がわたわたと口の周りを拭う様を、彼女は「ぷぷっ」と小さく噴き出しながら横目で見て、今度こそ自分の席へと歩いていった。
その日、私は久しぶりに誰にも邪魔されることのない学校生活を送ることができた。
放課後。
約束通り、私は千明くんと蛍ちゃんのカフェヘと向かっていた。
「そう言えば、千明くん今日お昼休みどこ行ってたの?」
「あー、ちょっといろいろあって。茉莉花も今朝来るのギリギリだったよな」
「う、うん。私もいろいろあって……」
校門を出て信号を渡り、色づき始めた銀杏並木を通り過ぎると、駅に着く。
「この前のテストさ。茉莉花のおかげで古文で80点も取れたんだ!」
「すごい! 良かったね」
電車に乗ってしばし揺られ、私の家の最寄り駅に到着する。駅前商店街を抜けたら、蛍ちゃんのカフェはすぐそこだ。
道すがら、私達はずっと他愛もない話をしていた。まるで何事も無かったかのように。
でも、実を言うと……さっきから一度も目を合わせられずにいる。 会話もどこか上の空で、お互いに当たり障りの無い話題を探しながら喋っているみたいだった。
(私が余計なこと言わなかったら、こんな風にぎくしゃくすることも無かったのかな……)
どうしても、そんな考えがよぎる。
事故とはいえ、告白したことに後悔はなかった。なのに何でだろう。鉛の足枷を付けられたみたいに、一生懸命泳いでないと心が海底に沈んでいってしまうのだ。
いけない。考え事をしていたら、会話が疎かになっていた。
何か話さないと、と思い、私は歩きながら千明くんをちらっと見上げた。けれど、彼も何故か私と同じく、心ここにあらずで虚空を睨んでいた。
……キラキラした笑顔も素敵だけど、真顔で思案している顔はドキッとするほど格好いい。キリッとした目鼻立ちに、すらりとした立ち姿。手袋も相まって、さながら映画に出てくる名探偵みたいだ。フラれたばかりだと言うのに、思わず見惚れてしまう。
そうこうしているうちにカフェの前に着く。
千明くんがドアに手をかけた、そのとき。
――ダンッ!
突然内側からドアが開き、千明くんの顔面にヒットした。
「まーちゃん!!」
「ふぐぅ!」
中から弾丸のように蛍ちゃんが飛び出してきて、その勢いのまま私を抱き締めた。私は肺の空気が一気に押し出され、変な声を上げる。
「あれからどうなった? 連絡来ないから心配で心配で。ちゃんと先輩に相談できた?」
蛍ちゃんは涙目で私の頭にすりすりと頬擦りする。迷い猫が帰ってきたみたいな可愛がりっぷりだ。逃れようにも、蛍ちゃんの長い腕はすっかり私の胴体を一周して密着している。
「いってー、何すんだよ!」
私は蛍ちゃんの腕の間からやっとの思いで顔を覗かし、千明くんを見た。2日連続で顔面を強打した彼は、除菌テイッシュで鼻を拭いながら怒りの声を上げている。
そして、ピントを合わせるみたいに何度か瞬きしてから私達を見て「なっ!」と目を見開いた。
……かと思えば、すぐに険しい顔になって低い声で言う。
「茉莉花……お前、昨日俺に告っておいて、もうこれかよ……」
「え?」
千明くんは口では私に話しかけながら、目線は射抜くように蛍ちゃんを睨み付けている。何故か彼の声は聞いたことないほど冷たくて、背筋がぞわっとした。
「何でもない」
千明くんは私達に背を向け、無言で店内に入っていった。